2013年12月18日水曜日

富山発!! 株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏登場。
本文より~

元気に遊ぶ普通の子。

父は「型枠大工」をやっていた。仕事柄、バブル成長の影響もあり出張で家を空けることが多く、子どもの頃に父とゆっくり接したことは少ない。兄弟は松原を筆頭に3人。全員、男子。生まれは父方の下新川郡だったが、3人の男の子を育てるために、母方の実家である宇奈月町(現在は黒部市)に移り住んだ。
「当時はまだ祖母が旅館を経営していまして。宇奈月町は宇奈月温泉でも有名なところですから。大手企業の保養所みたいな感じでもあったんですが、そこに親子4人で引っ越してまして。父も、こちらにいる間は寝泊りするんですが、仕事が入るとまた出かけていくもんですから、あまり父に遊んでもらった記憶はないですね」。
「ばあちゃん子ですよね。母の体調のこともあったのですが、祖母が若かった事もありもっぱら祖母に面倒みてもらったりしてました。私はというと邪魔といたずらばっかりしていましたが(笑)遊び場は旅館の裏に山があったので、よくその山を駆け昇ったりして、山菜なんか採ったりして。そんなことばかりしていましたね」。
どこにでもいる普通の子で正直この頃は経営者になるなんてことは全く考えていなかった。
だが、自然と触れ合いながらすくすくと育ったことで、今の「素直さ」や「純朴さ」があるのかもしれない。

都会に憧れるようになるまでの話。

松原は、1977年、富山県下新川郡に生まれる。前述通り、しばらくして宇奈月町(現在は黒部市)に引っ越す。「引っ越したことで、急に大人しい性格になった」と松原。それでも中学時代には、陸上競技の中距離で優秀な成績を残すなど運動神経には恵まれていたそうだ。
「中学の時は陸上とスキーです。スキーは盛んで、クロスカントリーなんかは授業に組み込まれていました。そうですね、運動神経はいいほうで、スキーの大会にも出場しました。山には縁があって、私が中学生までは、家族で年2回は山に登っていました。父が好きだったんです」。
この頃から都会にも憧れるようになっていた。「TVで観て知っているぐらいでしたが、それでも、いいなと。だれもが思うようなことなんだと思いますが」。
大人になるにつれ、「都会」という刺激的な二文字が、少年のなかで大きくなっていった。

3日目で脱走。それまで、それからの話。

片道2時間。「自転車と電車を乗り継いで、それで毎日通っていました」というのは、高校時代の話である。部活をする時間もなかったが、それでもまじめに通学した。
「高校を卒業する頃には、進学よりも就職という希望を持っていて、それで、親の紹介で、ある大手企業に就職させてもらいました。とはいえ、工場のライン勤務です。勤務地も遠く、車で1時間半ぐらい。朝が早かったのもあったんですが、単純労働に付いていくことができず、1週間の研修が終わってから、3日後には脱走です(笑)。それからですね。ホームセンターなどでアルバイトをするようになり、少しずつ接客の仕事を開始しました」。
フリーターになった。派遣もやった。派遣の時には、大手メーカーから「正社員に」と誘われもしたが、もう富山の片田舎で終わるのもいやになっていた。だから、東京へ向かった。あては何一つない。
「友だちの家に転がり込んで。でも、なかなかうまい話はないんですね。モデルに応募してみたりして。で、いろいろあって、結局、大阪で就職するんです」。・・・続き
株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏
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