2019年5月17日金曜日

株式会社TAMAYA 代表取締役 菊地 勇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TAMAYA 代表取締役 菊地 勇氏登場
本文より~

勉強キライ。勉強する意味がわからなかったから。

父も母も、大手建設会社に勤めておられた。1人息子。小・中学校は水泳と野球。「勉強は好きじゃなかったですね。なぜか数学だけは得意だったんですが…」。高校は日本体育大学荏原高等学校に進学。体育大学だけあって、1日に2時間以上、体育の授業があったそう。
「高校でも野球をしようと思っていたんですが、結局、部活より、女の子と遊んだりするほうを選択しちゃいます/笑」。
大学には進学しなかった?
「そうですね。勉強も好きじゃなかったし…。高校を卒業してからは、2年半くらい新宿のクラブではたらきました。じつは、このとき、親しくなったお客様に、何度かホテルのレストランに連れていっていただいて…。ハイ、それで、私の人生が、一つ決まるんです」。
勉強がキライだから大学に進学しなかった。それも正しいが「何をしたいかわからなかったから」も正解だろう。そのまま大学に進んでも意味がない。菊地氏は、そんなクレバーな判断をする人だと思うから。
ともかく、「ホテル」に惹かれた菊地氏である。道が広がった。

一流ホテルで、ちからを磨く。

「やがて、ホテルの専門学校に進みます。『日本ホテルスクール』です。そのとき、研修をかねてアルバイトしたのが、『横浜インターコンチネンタル』でした。実は、アルバイトから、そのまま社員になり専門学校は中退しています」。
クラブ時代の収入と比べると、ホテルの収入は微々たるものだ。「月13万円くらいでだったので、びっくりしました」と菊地氏は笑う。それでも、ホテルの仕事は菊地氏を魅了する。
「結局、『横浜インターコンチネンタル』では4年半、勤務します。私の人生のなかでいちばん影響を受けた当時のマネージャーに紹介していただいて、『ホテル西洋銀座』に転職しました」。
「ホテル西洋銀座」では、ワインを徹底的に学んだ。28歳のときに、ワイン統括の責任者に抜擢されているくらいだから、相当、勉強したのだろう。こちらの在籍期間は、8年。
ちなみに、「ホテル西洋銀座」は映画館や劇場を併設した高級シティホテルである(現在は、閉館)。ワインにうるさい御仁も、結構、いらしたはずだ。それだけ、菊地氏のワインの知識が豊富だった証だろう。食事に訪れた時にみつけた未来のたねが、芽を吹きだし、もうすぐ開花する。

独立。前オーナー高田氏と共同で、1号店出店。

「クラブにいた頃から独立志向があった。コンチネンタルでも、西洋銀座でも、独立という思いがあったったから頑張れたんだと思います。実際に独立したのは、西洋銀座で8年勤めたあとですから、30歳ですね」。
起業の経緯はどうだったんだろう?
「じつは、大松グループで専務をされ、当時はもう独立して飲食店を経営されていた高田★★さんに相談にいったんです。ハイ、最初は私が、お客さんです。親しくなった頃に、相談にしたところ、『だったら、共同でやろうよ』って話になったんです。将来、私が代表になる約束で、最初は、まずいっしょに、という話でした」。
ありがたい話だった。
「だから、最初はTAMAYAに入社したようなイメージですね」。
ともかく、それが2010年のこと。沿革をみると、2010年2月、上野に「ワイン厨房 tamaya」開業。翌年2月、八丁堀に「beer&wine厨房 tamaya」開店。同年7月、法人化し、「株式会社 TAMAYA」を設立となっている。現在は、もちろん、菊地氏が代表。高田氏は退職され、独自に2店舗を経営されている。
34歳で結婚。奥様は大手企業で人事部に勤めておられるそうだ。
 ・・・続き
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2019年5月11日土曜日

最終回、5月10日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」はリライブ様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

5月10日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」最終回の第30回(30社/30社)はリライブです。

2002年の設立で、現在、従業員数は7人ほどの講師を含め12人の社員と3人のパート従業員で合計15人です。65歳が定年ですが、本人の希望や条件が合えば70歳ぐらいまで働くことが可能です」と小川社長。「教育ビジネスのため、自己の経験を伝えるという意味においてシニアのメリットは大きいですね」と言う。15人のうち唯一のシニアは自身の経験をもとに「ベーカリーコース」で講師を務める部長の稲垣浩作氏(62)です。
  (夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。

【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2019年5月2日木曜日

株式会社move 代表取締役、河井俊輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社move 代表取締役、河井俊輔氏登場
本文より~

小学3年。スネ夫、返上。

今回、ご登場いただいた株式会社moveの代表取締役、河井俊輔氏は1979年2月17日に池袋に生まれている。河井氏の父方の祖父は、自転車店からスタートし、自動車の整備工場を経営するなど、当時では、先端の仕事をされていた。
「当時、町には整備工場は、祖父の工場しかなかったそうです」と河井氏。
その祖父の次男が河井氏の父親。
次男だからだろう。父親は、会社をつぐことなく、一部上場企業に就職されている。昭和を代表するようなサラリーマン戦士だったそうだ。
「私は、親父の会社の、池袋の社宅で生まれます。それから、練馬に移り住みました」。
のちに埼玉の西武球場のちかくに住む。それもあって、ライオンズファン。
河井氏は、「1つ上の姉は、まじめで優秀だった」と笑う。一方、自身は大人しく、自己主張するタイプでもなかったそう。「まるで、ドラえもんの『スネ夫』のようなイメージ」と語っている。
それが、小学3年までつづく。
しかし、小学3年生になって練馬に引っ越すと状況はいっぺんする。
「何かがわかったわけではないんですが…、突然、足が速くなって」と河井氏。
相対的なものだろう。
「そうですね。池袋ではぜんぜんだめだったのが、練馬に転校したとたんトップクラスです/笑」。
「すごい奴がやってきた」と噂が広がった。周りの観る目が異なった。
いうまでもなく、スネ夫、返上である。

サーフィンとアメリカ留学と。

「中学は受験して、獨協大学付属に進みます。おかげさまで、大学まで、エスカレーターで一直線です/笑」。受験も、成績も、気にしなくていい。中学では「高校生の」、高校では「大学生の」生活を先取りした。とくに高校時代はコンパに明け暮れる。
「大学に行くまで、たいていのことはしたんで/笑」と河井氏。
「ふつうの人は、大学でデビューしたりするじゃないですか。でも、もう、いろんなことを経験済だから、醒めていたんですね」。
では、どうしたんだろう。
「それで、実は、いままでやったことがないサーフィンです/笑」。
この「飲食の戦士たち」でも、サーフィン大好きな経営者を数多くご紹介してきた。やらない人間からすれば、「何が楽しくてそこまで」となるのだが、かれらはへっちゃらだ。河井氏もまた、まだ朝が明けきらないうちにエンジンをかけ、埼玉から千葉まで2時間かけてでかけている。もちろん、夏も、冬も、関係なし。
「お金がなかったから、バリ島専門ですが、海外にもけっこう波を追いかけてでかけました。私の大学時代は、バイトとサーフィン。この2つで、充分、語れます/笑」。
就職したのは、呉服の卸などを行う呉服関係の商社。
「採用してもらった会社には悪いんですが、『これ』って会社がぜんぜんなくって、まったく適当な選択です。案の定、2年で退職してしまいました」。
2年で早すぎる退職。ただ、今思えば、正解だったかもしれない。
「実は、そのあとアメリカに行っているんです。2年でだいたい200万円くらいお金を貯めていたんで、そのお金で日本の短大のような、コミュイティーカレッジに留学します。英語が学べるインターンシップのようなプログラムに惹かれたんです」。
もっとも、こちらも、熟慮の末だったわけではない。
営業の途中、ふらりと立ち寄った本屋でみつけた「留学プログラム」。それに乗っかった。ただ、思い付きのようなこの留学で、人生が広がるから不思議だ。何より「行動」が大事という証だろう。

河井氏の心を打った経営者。

留学したカレッジを2年で卒業し、帰国。
「留学を経験したことで、人生に対する意識はかわりましたが、だからって、何を仕事にしたいかというのは、都合よく生まれません。ひとまず、エージェントを通して、ある外資系商社に就職しますが、やはり長続きしなかったですね。わずか1年です」。
 大学時代は、サーフィンに熱中した。社会では、熱くなれるものがない。いったん、熱中という尺度を持つと、それが足かせとなってしまうケースも少なくない。
燃えない仕事はつまらないのだ。
「そして、その次に勤めたのが、飲食関連の展示会を主催する会社です。これが、飲食との再会です。ただし、今度は正社員です」。
「実は、」と河井氏。
「実は、私も、飲食店の社長さんたちに『なんで独立していたんですか?』なんてインタビューしていたんです」。そうか、そういう意味ではご同業だったわけだ。
当然、ネットワークが広がる。しかも、相手は、多くの場合、社長。
そんななか1人の社長が、河井氏を虜にする。
・・・続き
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株式会社火の魂カンパニー 代表取締役 野沢賢司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社火の魂カンパニー 代表取締役 野沢賢司氏登場
本文より~

テーブルに残された、1人分のステーキ。

商才があった。野沢氏の話ではなく、父親の話。野沢氏の父親はラーメンのFC店からスタートし、そこで儲けた資金で次々に事業を拡大していく。
「もともとはトラックの運転手だったそうです。儲かっていたラーメン店を4年で、さっさと手放すなど、たしかに商才はあったんでしょう。でも、子どもですからね。商才なんてわからないし、リスペクトなんかできない。ぼくは親父がぜんぜん好きじゃなかった」。
父親は、仕事第一。「1度だけ、家族5人でステーキを食べにいったことがあるんです」。じつは、外食の思い出は、これ一つ。末っ子の野沢氏は、テーブルを囲むみんなの顔を見渡してわくわくしていた。
「みんなで外食なんて、めったにないでしょ。ぼくのなかでは、これ、1回きりです。メニューをみて、母も笑っている。いいなぁ、いいなぁ、って思っていたら、親父のポケベルが鳴って…」。
手を付けられず残された1人分のステーキには、野沢家の有り様が映し出されていた。これが、子どもの頃の、野沢氏の記憶。

高校生、朝からパチンコ店に向かう。

中学生の時代。担任から「3バカトリオ」と言われていた。うち1バカは、当然、野沢氏だった。高校は姉にも勧められ、調理科がある高校に進学する。
「小さい頃から料理が好きだったから、悪くないなと思って進学するんですが。高校1年から授業にもでずに、朝からモーニングです。食べるほうじゃなくって。そうです、パチンコです」。
高校になっても、バカトリオの、バカから抜け出せなかった。しかも、バクサイがあったからタチが悪い。朝から数時間だけで軽く1万円くらい儲けていたそう。高校卒業後、いったん和食の職人をめざし、ロイヤルホテルに就職したが、20歳の時にパチプロに転向する。
「料理人になる」。いつしか、気力が削がれていたからだ。

パチプロへ。真剣勝負。

「パチプロ生活は5年くらいです。べつにパチンコが好きでもなんでもない。でも、簡単に儲かるから。1日10万円くらいはコンスタントには儲けていました。当時は、無駄遣いばかりしていました。どこに行くのもタクシーです。それでも、5年で結局、2000万円、貯まりました」。
2000万円?
さっそく勝つ方法を聞いてみたが、今はそういう時代ではないらしい。
「パチンコ台って、台にもよりますが、確率が公表されているんです。だから、方法は一つでしょ」。
う~ん?
「だいたい31日やって、30日は儲けられます。ただし、1人じゃだめ。ぼくも10人くらい下請けがいました。でも、だんだん儲けられなくなるんです」。
規制ですか?
「そうです。4号機とか、5号機っていうのがあるんですが、それが入れ替わったことで、パチプロはいなくなったんじゃないですか。確率的に儲けられなくなったからです。ハイ、私も、潮時だと」。
パチプロは辞めた。結婚相手もいた。しかし、金もある。仕事などしなくても、まぁ、大丈夫だった。「そう、それでニートになって、今度はゲーム三昧です/笑」。
ちなみに、こちらでも才能を発揮する。世界ランカーになり、ゲーム内にある極上の狩場を守るため、組織を構成し、配下もつくっている。数千万人に及ぶ世界中のプレイヤーが、野沢氏にひれ伏した。じつはお金も、儲けている。

夫の職業、ネットの住人とは書けず。

「でも、パチプロだった時みたいには儲かりません。もっともゲームは24時間ですから、そうお金も遣わないわけですが」。
それでも、結婚して、子どももできるとだんだん資産も目減りする。
「それで、お金がなくなってきて、奥さんが仕事にでるんですが、夫の職業の欄が書けないっていうんです。その時かな。これじゃ、親父以下だって/笑」。
「ええ、それで、一念発起っていうか、とにかく、『仕事をしなくっちゃ』と思って、ラーメン店を開業します。もともと和食の職人でしょ。ロイヤルホテルでも、それなりに評価されていましたし、賞も受賞しています。だから、『やる』と決めた時にはもう、頭のなかで行列ができていたんです/笑」。
30歳、ネット住人だった野沢氏が、5年ぶりにリアルな世界に舞い戻る。
決意を聞かされた時には、奥様もさぞ喜ばれたことだろう。
少なくとも、これからは夫の職業が書けるのだから。

明日はうまいラーメンがつくれますように。

「ポジティブっていうか、楽天家なんでしょうね。『うまくいくだろう』ってことしか頭にない/笑。1号店はロードサイドで300坪くらいでした。もっとも席数は20席くらいです。親父にも出資してもらってオープンします。だいたいこれくらいは、儲かるだろう、と。そういう計算は得意ですから」。
「でも、さすがにオープンがちかづくと不安もでかくなるんです。『料理人をしていた』って言ったって、ラーメンはつくったことがなかったわけですし」。
つくったことがない?
「ええ、もちろん、1杯だけとか、うちではつくっていますよ。でも、それだけです。それで、心配になって、オープン前日、採用した人にたずねたんです。『〇〇さんは、ラーメンをつくったことがありますか?』って。『え、ないですよ。ない。ない』『ですよねぇ~』って」。
かすかな希望も打ち砕かれ、天に祈るしかなかった。
「明日はうまいラーメンがつくれますように…」。

湯けむりの向こうには、鬼にがいた。

申し訳ない程度につくったチラシの宣伝が効いたのか、オープン前から、くらくらするほどの長蛇の列だった。「ぜんぜんオペレーションが回りません。正直、不味かったし、1杯つくるのにも時間がかかって、なかなかおだしできないし…。ええ、こっちもテンバっていますしね」。
「ラーメンってよく言うじゃないですか。『湯けむりの向こうに笑顔がある』って。あの時、必死で湯切りして、ふと湯けむりの向こうをみたら、もう全員、鬼の形相なんですよね。血の気がひくって、あのことです/笑」。
それでも、と野沢氏。
「いままでとは、まったくちがいます。パチプロでしょ。ネットのゲーマーでしょ。だいたいぼくは1人が好きなんです。なのにね…。これが、リアルな世界なんですよね。悪くない。ぜんぜん、悪くなかったですね」。
怒って帰る人もいた。だが、励ましてくれる人いた。「その時、ぼくができることといったら、感謝ですよね。いつも、頭を下げていました。精一杯にです」。
・・・続き
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新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」をスタートします!

夕刊フジにて10月からスタートした新連載「over60(ロクマル)世代応援企業30」が5月10日でラストの30回迎えます。
これからは、間違いなく60代(ロクマル世代)を如何に活かせるかが鍵になります!
そんな意味では大きな一歩を踏み出すことができました。
※日本は現在4人に1人から2024年 には、3人に1人が65歳以上の超・高齢者大国なります。

5月17日からは、新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」をスタートします!
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年5月1日水曜日

飲食経営者の創業の想いを伝えるには書籍かな・・・。

令和元年、飲食経営者の創業の想いを伝える書籍を5冊は出したいと考えています。
会社の想いは誰よりも創業者が一番わかってるので、それを伝承するため書籍は教材にもなり、採用ツールの大きな武器になります。
(とんきゅう矢田部武久 フードフォーラムより)
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