2013年10月19日土曜日

10月18日、夕刊フジの連載『波乱万丈 起業家列伝』に、せたが屋の前島司社長登場。

夕刊フジにて新連載『波乱万丈 起業家列伝』(毎週金曜)がスタートしました。
10月18日(金)の第3回目は、せたが屋の前島司社長
です。
前島社長は独学で苦労重ね、今や超有名ラーメン店主に・・・。
是非、お読みください。


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2013年10月17日木曜日

青山学院大学にて、激セマ焼肉店・六花界の森田 隼人社長の講義でした。

本日10月17日(木)、
青山学院大学の総合文化政策学部・堀内ゼミにて
モリタ空間デザイン事務所の森田隼人社長(激セマ焼肉店・六花界)に講義されました。

青山学院大学の学生の皆さんに、
1.現在までの経歴と事業について
2.創業から軌道に乗せるまでの手法と観点
3.『六花界』で大切にしていること
4.森田隼人の3つの習慣
5.最後に
仕事・人生について熱く語って頂きました。
学生の皆さんも、お話しを聴いて、なにか得たのでは・・・・・・。

2013年10月15日火曜日

株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏登場。
本文より~

高校までの浅田の話。

大阪府吹田市で万国博覧会が開催されたのは1970年。今回ご登場いただく浅田が生まれたのは万博の1年前、1969年のことである。兄弟は6人。浅田は、5人目だが、次男坊でもある。
浅田の父は、大阪で喫茶店を経営するなどしていたが、のちに名古屋で結婚式場を経営するようになる。もともと祖父の代から建売業などを行う商売一家。
「私が小学生の頃にはもう結婚式場を経営していました。私は次男ですが、小学生の頃には、いつか父から事業を引き継ぐんだろうなと思っていました。その父は、私たち子ども、特に、兄と私にはかなり厳しく、警察より、怖い存在でした(笑)。父は、早くに事業の一線から身をひきます。帰ってくると、真夜中でも私ら兄弟は起こされ、祖父の話をずっと聞かされました。ちょうど、私の受験時期と重なって…。それでも怖くて文句ひとつ言えませんでした」。
それだけ怖い父だったが、浅田も委縮していたわけではない。
「当時、公立の中学ときたら、悪くて、悪くて。私たちの2代か3代前には、校舎の廊下に平気でバイクが止まっていたそうです。私は成績もそれなりでしたが、不良と言わないまでも、やんちゃな連中とも付き合っていました。学校が終わると、友人宅に寄ることもしょっちゅうでした。ただ、門限があったもんですから、門限時間の7時にいったん帰って、父が寝たのを確認して2階の窓からこっそり脱走して、もう一度、友人宅に駆け込んだりしていました。もちろん、朝、父が起き出すまでに戻っていないといけませんから、それはそれで、たいへんでした(笑)」。
窓から脱走する浅田の姿を想像して微笑んでしまうが、父との関係を考えるとけっこうな、そう決死隊のようなものだった気がする。
それだけ父は怖い存在だったが、中学生の少年の、好奇心や自立心は、ある意味、父の恐怖を凌駕していたということもできるのだろう。
「とにかく高校生になっても、外泊禁止です。私は、東京の大学に進学するのですが、父から逃げ出したいという気持ちから、東京の大学を選択したのも事実です」。
高校は校区なかでも優秀な進学校に通った。ただ秀才たちとは馬が合わず、頭は良かったが、いつも下位の成績の連中と付き合った。

大学進学、東京への逃亡。

「逃亡といえば、逃亡ですよね。父は、大阪の大学だと言い張るんですが、父が当時お世話になっていた税理士の先生も、そりゃ東京に出すべきだということで、ようやく許しがでました。私は慶應に進学するんですが、合格より、これで親許から離れられるんだ、とそっちを喜んでいました」。
慶應ボーイ。この響きにも誘われたのではないか。ともかく、税理士という思わぬ援軍のおかげで、花の東京生活、花の独り暮らしを開始する。
「ドラキュラのような生活でした。夜昼の逆転ですよね。そういう生活を送っていましたが、無事、4年で卒業し、リクルートに就職します」。
浅田が22歳といえば、1991年。バブル経済が崩壊する、カウントダウンが開始された年でもある。
「結局、リクルートには1年半しかいなかったんですが、いまあるのはリクルートでさまざまなことを経験できた、学習できたからだと思います。採用についても、勉強できたのは、経営者として幸運だったと思います。また、周りに凄い先輩がたくさんいました。それも刺激となり、いまの財産になっています」。
大学で4年間、リクルートでも都内のオフィスに配属され、1年半。標準語も巧みになっていたに違いない。・・・続き
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キリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にキリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏登場。
本文より~

キリンシティの社長に。

「日本で1番、お客様と従業員が『笑顔』になれるビアレストランに」という素敵な理念を抱えるビアレストランがある。
キリンビールを親会社に持つ「キリンシティ」がそれ。創業は1983年にまで遡ることになる。現在、同社の社長である大木忠彦が生まれたのが1961年のことだから、彼が大学を卒業する年に「キリンシティ」は誕生したことになる。
この「キリンシティ」は当時、ガリバーだったキリンビールが社会に投じた、「ビール文化」の新たな方向性を示す未来図の一つだった。
いまでも「こだわりつづけている」という「ドイツピルスナービールの伝統技『3回注ぎ』による樽生ビールの提供方法」は、このインタビューのなかでも、大木が何度も口にした言葉である。
<日本に本場ドイツのビール文化を。>というミッションを与えられ、生まれた「キリンシティ」。30週年を迎えた今年、新社長となり、この組織をリードする大木忠彦。では、いつも通り大木の、生い立ちから追いかけてみることにしよう。

学習院大学までの話。

「松下幸之助か、大木岩治か、と言われていたそうです」。と大木は、祖父について語り始めた。大木伸銅工業(株)のHPで歴史を調べてみると<大正13年、大木岩治が練馬区北町にて個人経営>とある。大木がいう祖父とは、この大木岩治氏のことであり、大木伸銅工業(株)の創業者のことである。
「父も母も東京出身。私は祖父の会社がある板橋で生まれ、育ちました」。大木が生まれたのは1961年。昭和36年のことである。
3年後に、東京オリンピックが開催されるわけだから、復興の需要がピークだった頃のこと。銅及び黄銅の棒・線・鍛造品などを営業品目とする祖父の会社も、おおいにうるおったにちがいない。そんななかで、大木が生まれる。
大木は、大木家の子ども3人兄弟の末っ子。長男は学習院に進み、次男は青山、3男の大木は長男に習い学習院に行く。もっとも大学ではなく中学の話である。
「成績が良くなかったんで、家庭教師をつけられ、特訓です」。小学生が中学受験のために特訓を受ける。いまでは当たり前といえなくもない光景だが、当時はまだめずらしかったのではないか。ともかく、特訓の成果もあって、無事、学習院に進む。「進むんですが…」と歯切れが悪い。どうも、体質に馴染めなかったそうだ。
いちばんの理由は、金銭感覚が周りと合わなかったから。
「周りにいる生徒は、著名人や旧華族の息子でしょ。ぜんぜん、金銭感覚が違うんです。学校が楽しくなったのは、大学に進学してからでしょうか。大学生ともなれば、親ではなく、ジブンという軸で語るようになりますから、そうなればみんなおんなじ学生。意識することもそれぞれ違って、私自身は、山登りに凝り、アルバイト代のほとんどが山に消えていきました」。

「あるける会」で過ごした4年間。

長男が入っていたこともあって、楽しそうだと、「あるける会」に入部した。ハイキングから夏山・冬山まで様々な登り方ができることに惹かれた。その一方で、もう一つ目標があった。
「実をいうと、中学・高校時代に部活をやり続けたことなどない軟な奴だったんです。だから、山岳部なんてとても入るような人間ではなかったんですが。大学1年の時、1人のすごくかわいい女の子に出会って。軟弱なジブンをかえたいと思ったんです」。
軟なオトコを返上してみせる。それにしては「あるける会」というネイミングが、いま一つフィットしないが、たしかに大木は、この部で、そして山で、男になった。
「何回か、登るうちすっかりハマってしまいました」。空前の風景、ハードな山、一瞬たりとも気を抜けないスリル。すべてが大木を魅了した。いまだかつて、ここまで大木を魅了したものはなかった。
「そうですね。いまはさすがに行く時間がなかなかとれないんですが、また余裕ができれば登りたいですね。それほど魅力的です。4年間は、山のなかであっという間に過ぎていきました」。
いのちが噴き出る春、緑がもえる夏、紅葉の秋、そして厳寒の冬。大木は、冬の山がいちばん好きだそうだ。
好きといえば、部に入るきっかけとなった女性は、いまも大木の隣で笑っている。山男になった大木の誘いを、彼女は笑顔で受け入れたに違いない。

就職先は、ガリバー「キリンビール」。

「同業に行っても、将来ライバルになるだけ」という父のアドバイスを受け、長男とも次男とも違う業種を選択した。それが、ガリバー「キリンビール」だった。
「仕事をするようになって、だんだん父のことも理解できるようになるんです。私の就職が決まったのは、いまの学生ならびっくりすると思いますが、4年の9月です。そして、年が明け、いよいよ私の社会人生活がスタートしました」。
キリンビール一筋、これが大木の人生である。しかし、その間に経験したことは、何社かを転職して、得られるように多彩で内容が濃いように思う。簡単に、キリンビール時代を追いかけてみる。
「最初に配属されたのは、滋賀県にある工場です。ここで、ビールづくりを学習します。もっとも社会人としても勉強することになるんですが、とくに最初の1年は課長と言い合いの日々がつづきました。人事がみかねたのでしょう。2年目には異なる部に異動になりました。ある意味、1年目から社会の洗礼を受けた気もします」。この滋賀工場が、大木にとってはすべてのスタートライン。新たに業務部に配属されてからは、「麦芽」を食べるのが日課になった。「毎日、食べていると、違いが分かるようになるんです」。ビールマイスターの域とまではいわないが、確実にビールの根幹にちかづいていった。
この滋賀工場で3年。そのあとは、大阪府の北摂エリアを任された。それが1987年2月のこと。この年の4月には、ビール業界の勢力図を塗り替えた、あの「アサヒスーパードライ」が登場する。
もともと「アサヒ」は大阪で人気のブランドだった。他府県と比較しても、アサヒのシェアが高かった。それでも大半がキリンビールで占められていた。しかし、大阪府は、アサヒの牙城でもあったこともたしか。スーパードライが発売されると、オセロの駒が次々、入れ替わるように、形成は見事に逆転された。とくに大木が担当する北摂エリアは顕著だった。
「ぜんぜん、だめでしたね。だいたい私が担当していた北摂エリアは富裕層が多く、時代のトレンドに敏感なエリアなんです。北から時計回りに東・南というように、トレンドが流れていくのです。だから、この時もまっさきに影響がでました。私の成績ときたら、もう全体のなかでも尻から2番か3番目という結果です」。
しかし、山男は逆境から逃げなかった。とにかく現場をまわり、さまざまな工夫をして、逃げ出すこともせず、アサヒスーパードライという怪物とも戦いながら、少しずつ成果を残していく。「この時の工夫がいまも生きている」と大木。人間、辛い時のがんばりほど意味があるものはない。
しかし、ガリバーキリンビールは、この1本のビールによって、首位の座をアサヒビールに明け渡すようになる。・・・続き
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10月11日、夕刊フジ新連載『波乱万丈 起業家列伝』にセントリングスの青木社長登場。

10月11日(金)、夕刊フジにて新連載『波乱万丈 起業家列伝』(毎週金曜)がスタートしました。
第2回はセント・リングスの
青木謙侍社長です。
青木社長も創業当時は大変ご苦労されましたが、現在ではメガフランチャイズとして21ブランド56店舗を展開中です。
是非、お読みください。








夕刊フジアプリ版


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電子書籍第2弾スタートし、いよいよ各事業を動かせる。

昨年11月より“飲食の戦士たち”より抜粋させて頂き、
ゴマブックスより電子書籍を出しました。

好評につき、今年も11月より第2弾(5冊シリーズ予定)の電子書籍出します。
夕刊フジに続き、電子書籍、そしてアマゾン関連での書籍など
メディア・書籍部門も本格的に動きはじめた。

飲食経営者による大学での講義・講演も
10月、11月、12月と計6回と予定通り増えてきた。
こちらの教育・研修部門も来年にはちゃんとした事業部にしたい。

我々がやることは、飲食業界の経営者の生き様を伝えることで、
少しでも多くの方に飲食業界で働くことに興味持って頂ければ…。

また、海外部門にもチカラを入れているので、
就職はもちろん、企業提携も進んできた。
11月にシドニーに行くが、来年は海外に行く機会が増えるかも・・・。

京都の故郷の町おこしにも関係する農産物販売部門にも大きく前進している。

これだけ同時に進めれるのには、キイストンの人材が成長したことに尽きる。
まだ、振れるようになっただけなんで、
キイストンの経営理念をしっかりと社員に伝えていかなければならない。

早く次の段階である1ヶ月会社に行かなくてもまわるようになればいいな~。
96x96
戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン

2013年10月8日火曜日

祝 “飲食の戦士たち”400回掲載 !! ありがとうございました。

 
(祝 “飲食の戦士たち”400回掲載 !! )


2005年から飲食業界にシフトし、
2008年2月から本格的に今の内容になった 
本日の更新で400回となりました。


ご登場頂きました飲食経営者の皆様
誠にありがとうございました。


まだ道半ばですが、
【400社掲載】
しかもほとんど私が取材させて頂きました。

コツコツと1社1社お聴きしたことで
すごい人的なネットワークと
飲食業界のことが分かってきました。

これからが大事です。
飲食業界の皆様のお役に立てる様
新しい試みをドンドンチャレンジしていきます。

引き続きご贔屓ください。

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