2013年10月15日火曜日

株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏登場。
本文より~

高校までの浅田の話。

大阪府吹田市で万国博覧会が開催されたのは1970年。今回ご登場いただく浅田が生まれたのは万博の1年前、1969年のことである。兄弟は6人。浅田は、5人目だが、次男坊でもある。
浅田の父は、大阪で喫茶店を経営するなどしていたが、のちに名古屋で結婚式場を経営するようになる。もともと祖父の代から建売業などを行う商売一家。
「私が小学生の頃にはもう結婚式場を経営していました。私は次男ですが、小学生の頃には、いつか父から事業を引き継ぐんだろうなと思っていました。その父は、私たち子ども、特に、兄と私にはかなり厳しく、警察より、怖い存在でした(笑)。父は、早くに事業の一線から身をひきます。帰ってくると、真夜中でも私ら兄弟は起こされ、祖父の話をずっと聞かされました。ちょうど、私の受験時期と重なって…。それでも怖くて文句ひとつ言えませんでした」。
それだけ怖い父だったが、浅田も委縮していたわけではない。
「当時、公立の中学ときたら、悪くて、悪くて。私たちの2代か3代前には、校舎の廊下に平気でバイクが止まっていたそうです。私は成績もそれなりでしたが、不良と言わないまでも、やんちゃな連中とも付き合っていました。学校が終わると、友人宅に寄ることもしょっちゅうでした。ただ、門限があったもんですから、門限時間の7時にいったん帰って、父が寝たのを確認して2階の窓からこっそり脱走して、もう一度、友人宅に駆け込んだりしていました。もちろん、朝、父が起き出すまでに戻っていないといけませんから、それはそれで、たいへんでした(笑)」。
窓から脱走する浅田の姿を想像して微笑んでしまうが、父との関係を考えるとけっこうな、そう決死隊のようなものだった気がする。
それだけ父は怖い存在だったが、中学生の少年の、好奇心や自立心は、ある意味、父の恐怖を凌駕していたということもできるのだろう。
「とにかく高校生になっても、外泊禁止です。私は、東京の大学に進学するのですが、父から逃げ出したいという気持ちから、東京の大学を選択したのも事実です」。
高校は校区なかでも優秀な進学校に通った。ただ秀才たちとは馬が合わず、頭は良かったが、いつも下位の成績の連中と付き合った。

大学進学、東京への逃亡。

「逃亡といえば、逃亡ですよね。父は、大阪の大学だと言い張るんですが、父が当時お世話になっていた税理士の先生も、そりゃ東京に出すべきだということで、ようやく許しがでました。私は慶應に進学するんですが、合格より、これで親許から離れられるんだ、とそっちを喜んでいました」。
慶應ボーイ。この響きにも誘われたのではないか。ともかく、税理士という思わぬ援軍のおかげで、花の東京生活、花の独り暮らしを開始する。
「ドラキュラのような生活でした。夜昼の逆転ですよね。そういう生活を送っていましたが、無事、4年で卒業し、リクルートに就職します」。
浅田が22歳といえば、1991年。バブル経済が崩壊する、カウントダウンが開始された年でもある。
「結局、リクルートには1年半しかいなかったんですが、いまあるのはリクルートでさまざまなことを経験できた、学習できたからだと思います。採用についても、勉強できたのは、経営者として幸運だったと思います。また、周りに凄い先輩がたくさんいました。それも刺激となり、いまの財産になっています」。
大学で4年間、リクルートでも都内のオフィスに配属され、1年半。標準語も巧みになっていたに違いない。・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿