2025年9月30日火曜日

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

本文より~

小学生で、社長になった少年。

「小学生で、社長になった」と笑うのは今回ご登場いただいた株式会社雷神の代表、加藤裕之さん。1972年というから第二次ベビーブーム。小学生の数も多い。
「今とはぜんぜんちがいますね。子どもの人数は多いから、ぜんぶ競争だし、スマホもゲームもない時代ですから、ゲームだって、みんなでつくって」。
それで、社長ゲーム?
「ゲームというより、ごっこですね。社長ごっこ。なぜか、ぼくがいつも社長だったんです(笑)」。
「社長になりたい」と思ったのは小学生の頃。鉄板焼のお店を経営する父親の影響だそう。加藤さんが小さな頃はとくに商売繁盛。「同業がないのが、よかったんじゃないかな」と加藤さん。
小さなスタッフ、加藤さんは、お客さんに可愛がられた。野球では、1番ショート。小さな「社長」はとにかく足が速かったそうだ。中学から陸上部に所属し、高校では100メートル11秒を記録している。
バイクも速かった。チューニングして性能を高め、毎夜、ツーリングに出かけた。「高校時代は部活、バイト、バイクの4B」と加藤さん。
寝ることもなく、駆けつづけた。
勉強もできなかったわけではない。ただ、本人は「小さな頃から、社長になると決めていたんで大学進学はもともと頭になかった」という。

長野の山にこもった時の、副産物。

高校を卒業してはじめたのは、東洋経済新報社ビル地下のバーのバーテンダー。皿とグラスを洗いながらカウンターの向こうの会話に耳をそばだてた。
「新聞社の人間と上場企業の役員のヒソヒソ話です。今だったら絶対インサイダー情報です(笑)」。
もちろん、このバーに勤めたのは、この情報を狙ってのこと。頭の回転も早く、行動力もある証。
「うちは、父母はもちろん、祖父も祖母もみんな商売人。ぼくも小さな頃から現金で育ってきたでしょ。だからでしょう。子どもの頃から商売人気質だった気がします。だから、いつも社長だったのかもしれませんね」。
「商売人」×「社長」。
大人になると社会のしくみも知るべきだと、「株式に興味をもった」という。
もっとも、このあと東京のど真ん中、八重洲口から離れ、長野の山に籠もる。
「あれは20歳の時ですね。スノボーにハマって、今度は山に住もうと。雪が降ると山に入り、雪がなくなると麓に降りてラーメン店でバイトをします」。
「そのバイトがぼくの修業の一つ」と加藤さん。
「3年くらい山と麓を行き来して。夏の間はずっと、そのラーメン店です。その店でマスターした餃子が今の餃子のベースなんです」。
それにしても趣味のスノーボードやスキーと仕事。山を降りては、バイトと修業。
「3年くらいたって、そろそろ東京に戻らないと、となって。浅草の、ラーメン店で働きはじめます」。

ラーメン店で出会った女性に惹かれて。

「最初は、すごい人がいるなって」。加藤さんがすごい人というのは、そのラーメン店で働いていた2つ年下の女性のこと。
「めちゃくちゃ流行っているラーメン店です。彼女は看板娘っていうか、すごくきれいな人だったんで、お客様にも好かれていて。でも、ただの看板娘じゃないんです。ラーメンを次々と、すごいスピードでつくるんです」。
「尊敬していた」と加藤さんは大真面目に語る。
「はたらいているうちに、だんだんと距離が縮まって。いつだったか、一緒にラーメン店をやろうということになって。資金稼ぎのために深夜トラックに乗るんです」。
奥さんもトラックに?
「そう、1代ずつ2台で」。
思わず、答えを書いてしまったが、その彼女と結婚。加藤さんは2社かけもちで、18時間、はたらいたという。
そうして、結婚と同時に2人の念願のラーメン店がオープンする。もう一つ嬉しいことがあった。
「オープンしてすぐに、息子が生まれたんです」。
さて、なにやらめでたい尽くしだが、オープンした店は、どうだったんだろう。小学校では、ごっこだったが、今度は、リアルな社長業。失敗はしゃれにならない。

雷神ラーメン、オープン。

「貯金をぜんぶつっこみましたから、オープンしたらお金が全く無かった。だから、自転車操業です。業者さんには、その日の売上でお支払いしてね」。
ただ、金がないからといってひるむ加藤さんではない。本人いわく「最初からイケイケだった」そう。
「昔の後輩たちが、先輩が店をオープンするからって、チラシをボランティアで撒いてくれたりして。それも助かりました。いっしょにバイクで走りまわった仲間たちですが、案外、義理堅い(笑)」。
繁盛しましたか?
「おかげさまで」と加藤さん。
イケイケ店主は昼の12時からスタートして、日付変更線を軽々と越え、翌朝7時まで働く。もちろん、無休。
「長野の餃子とラーメン、そして浅草のラーメンをアレンジして。チラシの効果もあったんでしょうか。オープン初日からお客様の入りがハンパなかったです。もちろん、子どもができたばかりで、ワンオペ。それで、ぶっ通しですから、ぶっ倒れたりもしましたね」。
倒れたんですか?
「今思うと、25歳で若かったからできた。とにかく、やればやるほどキャッシュが貯まる。アドレナリンがでまくっていましたから」。
イケイケというものの慎重でもある。
「目標は、無借金経営までもっていこう、と」。
経営の羅針盤は小学生の社長ごっこ、と、父親の背中。
ところで、店名の雷神ラーメンですが、由来は?
「まぁ、思いつきなんです。浅草で修業させてもらっていたんで」と加藤さん。
雷門が、すぐ頭に浮かんだ。
2025年10月には念願の浅草に油そば店がオープンするそうだ。

餃子1本勝負。

ところで、雷神ラーメンだが、今はラーメンの文字はなく、社名も「雷神」である。「20年前に、ラーメンは競争が激しく、劣化しやすいと、ラーメンをやめ、人気だった『餃子』1本に絞ったんです」。
それが、今の卸売メインの事業に進化していく。
「餃子ってね。大手の中華料理店などは自社で製造していますが、それ以外の、たとえば、居酒屋さんやラーメン専門店は、餃子を業者から仕入れられているケースが多いです。ラーメンとちがって餃子はつくるのが難しいし、時間がかかるんです。だから、普通は買うほうがローコスト。もちろん、居酒屋に餃子はなくてもいいんですが、お客様からするとメニューにあったほうがいいでしょ」。
たしかに、あれば注文しちゃいますね。
「そう、そういう餃子のニーズを知っていましたし、ラーメンが長く続かないこともわかっていましたから。『餃子1本』、しかも、卸だと」。
餃子というと長野で修業された時の、餃子ですか?
「そう。長野で山にこもっていた時のバイト先、それに浅草の修業先のエッセンスをプラスして。そして、もう亡くなりましたが祖母といっしょに自宅のキッチンで、それこそ数千回の試行錯誤を繰り返して生まれたんです」。
味付き餃子で、醤油もいらないとか?
「発売当時は、そういう餃子がなかったから、とくにヒットしたんだと思います」。
たしかに、ホームページには「基本的には調味料を何も付けずにお召し上がりいただけます。もし何かお付けになるとすれば酢コショウなどがよく合います」とある。
そういえば、最近、酢コショウで食べる人をみかけることがある。酢醤油とラー油はもう、昭和の固定観念なのかもしれない。
とにかく、雷神餃子である。
餃子に絞って、卸を進めて、今や全国500店舗以上の飲食店に提供しているそう。
「うちは、鮮度が落ちるといけないから基本は小ロットで卸業者に渡しています。長期の保存もオススメしていません。だから、日々注文をいただきます」。
つい最近まで、自社工場で30人以上のパートさんたちで製造していたが、数が追いつかず、今は外部にも依頼しているそう。それだけ、需要がある証。
「まだまだいけるんじゃないでしょうか。餃子の隠れたポテンシャルですね。ラーメンみたいに、やみつきになるような人はいないが、浮き沈みなく、愛されつづける。サイドメニューっていうのがいいんです。脇役のような存在ですが、だからこそあきられず長く愛されるんです」。
長く餃子を売り続けている加藤さんがいうんだから説得力がある。餃子は、ラーメン同様、今やもう、日本の国民食でもある。

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏

・・・続き

PRバナー
「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)     

2025年9月27日土曜日

BS10、プロ野球中継にて限定で7月末から9月末まで)飲食企業様16社にご対応頂きました。 

BS10、プロ野球中継にて、試合後 元野球選⼿の解説者とゲスト⼥性出演者に試⾷コーナーを設け食事を限定16社の飲食企業様より協賛頂きました。(7月末~9月末)。   
キイストンは、そのアテンドをしました。

BS10(https://www.bs10.jp/20241029_bs10/)   2025.1.10開局!
株式会社ジャパネットホールディングス(本社:長崎県佐世保市/代表取締役社長 兼CEO:髙⽥旭⼈) のグループ会社。
BS放送事業を担う株式会社ジャパネットブロードキャスティング(本社:東京都中央区/社長執行役員:佐藤崇充)

協賛企業は以下の通りです
7/26(土):プログレ様
7/31(木):KIWAMI様
8/02(土):鶏ヤロー様
8/07(木):マリノ様
8/09(土):ココロオドル様
8/14(木):ホイッスル三好様
8/21(木):FTG(焼肉ふたご)様
8/23(土):関内産業様
8/30(土):IFREA様
8/31(日):G-vision様
9/04(木):雷神様
9/12(金):オルニ様
9/13(土):長岡商事様
9/15(月):エレガントエース様
9/18(木):店舗ナンバーワンホールディングス様
9/27(土):マックスフーズジャパン様
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン







2025年9月23日火曜日

さあ、マジで人材補強するぞ!

現在も人材募集やってますが、なかなかキイストンに合う人材との巡り合わせがありません。
なので今回は、 ちょっと切り口変えて募集をしてみようと思い、自分なりの求人広告の訴え方を外部ブレーンの方と一緒に案をガッチリ固めました。
なんとしても勢いとパワー持った人材を2人採れれば…。
経験よりも原石を見つけて採用したいです!
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年9月22日月曜日

株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏登場。

本文より~

1982年、「サンライズ」創業。

多士済済である。父方の祖父は陶芸家、母方の祖父は大学教授、祖母は琴の先生。そして、父方の祖母が飲食店を経営していた。「ほかにも父方には喫茶店を経営している親戚もいて、そういう意味では昔から食とつながりがありました」というのは、今回、ご登場いただいた株式会社マリノ、代表取締役社長、水野由太佳さん。4人兄弟の長男。
「父も祖母の影響もあったんでしょう。飲食の道に進みます。創業のサンライズがオープンしたのは、ちょうど私が生まれた1982年です」。
サンライズは人気の喫茶店だった。
「父は高校を卒業して、名古屋の『キャンティ』というイタリアレストランで修業をして、21歳で独立。その後、3店舗まで展開します。父は陶芸家の祖父同様、芸術肌のところがあって、料理のクオリティが高く、それが人気の理由でした」。
------マリノがオープンしたのは1993年ですね?------
「繁盛していたこともあって、サンライズを3店舗まで展開して、そう、1993年にマリノがオープンします。マリノは本格的な石窯焼きピッツァと自家製生パスタを看板メニューとしたイタリアンレストランチェーンです」。
当時、本格的な石窯があるレストランは数少なかった気がする。
「そうですね。とにかく、繁盛していましたし、父は仕事で忙しく、母は、私を含め4人の子どもがいましたので、どちらもたいへんだったと思います。私は、父の背中をみていて、いずれ父の跡を継ぐのかな?と思っていました」。
------長男ですもんね?------
「そう、でも、じつは私を含めた子ども4人は今、みんなマリノではたらいているんです(笑)」。

野球少年の日々と、大学入学まで。

今回の主人公、水野さんは1982年9月3日、愛知県の長久手市に生まれている。2005年の愛知万博の開催地の一つとなり、人口も急増したが、水野さんが生まれた当時は「何もなかった」と笑う。
原っぱも多かったにちがいない。バットとボールがあればどこでも遊べる。そんななか水野さんは、小学2年生からリトルリーグに入り、本格的に野球をはじめる。
「高学年になった頃には父といっしょにキャッチボールをしました。仕事が忙しい中で、付き合ってくれたんでしょうね。感謝しています」。
お父様は、水野さんのためだろうか、チームのコーチも務めておられたそうだ。愛知といえば、野球が盛ん。東京や関西同様、だいたいの人が中日ファンだ。息子はサードで2番バッター。
「中学もクラブチームです。結構、つよいチームで、私は試合に出たり、出なかったりで」。
野球は中学まで続け、その後高校を卒業、大学へと進学する。

イタリアンレストラン就職。マリノに転職する。

水野さんは淡々と話をつむぐ。大学4年生の時にカナダに渡った話も淡々と進む。「9月から3ヵ月、カナダのバンクーバーで暮らしました」。なんでも学んだ語学学校は、「日本語をつかうと罰金だったそう」。
そのまま、カナダからイタリアに渡り、2ヵ月間、生活している。
------イタリアは将来を意識してですか?------
「いいえ、多少は、あったかもしれませんが、そこまで大層なことではなくて、父のつながりで知人もいたもんですから」。
ただ、そのあとの話を聞くと、道はまっすぐマリノにつながっている気がしなくもない。
------大学を卒業されたあと、イタリアンレストランに就職されていますね?------
「そう、じつはイタリアから帰国して、イタリアンレストランでアルバイトをはじめます。その延長で、社員にしていただきました。その頃にはもう、はっきりとマリノを継ぐという意志を固めていましたので修業の意味あいもつよかったです。ただ、30歳まで、いろんなところで修業するつもりでいたんです。でも、実際には25歳でマリノに就職します」。
------どうしてですか?------
「きっかけは。そうですね。弟が私より早く入社していて。ある時、父から『長男のお前どうするんだ?』って言われたことですかね。父にすれば長男に対する期待というか、そういう思いがあったんでしょうね」。
------25歳と若い。イタリアンレストランも経験されています。いかがでしたか?-----
「そのイタリアンレストランはハイブランドで、うちはミドルですから、おなじイタリアンでも客層からして違います。ただ、当社はそことはちがったスタイルで繁盛していました。私は一般社員からスタートし、副店長、店長、エリアマネージャーとなって、35歳の時に代表取締役、社長になります。もっとも父も代表権のある会長でしたから、代表2人制です」。
水野さんによると、意見が対立したこともあるそうだ。
「父の言う通りにしたいという気持ちはあるんですが、当然、社員に対する責任もあるわけで。数字からみると、父の構想はなかなか厳しい」。
どんな会話をされたんだろう。
これは、お二人にしかわからない。
尊敬する父、キャッチボールに付き合ってくれた父、一代でマリノを育てた父。おなじ経営者として、父に対する尊敬と、水野さん自身の自我が葛藤する。

社長就任、「ごちそう 焼きむすび おにまる」リリース。

「2022年6月ですね」と水野さん。
これは今注目の新ブランド「ごちそう 焼きむすび おにまる」の話に移った時のこと。上の日付は、「おにまる」のオープン日。
「コロナ禍ということあって、なにかできないだろうかと模索していました」。
------おむすびがブームになりますが、それ以前ですね?-----
「ええ、そうです。ただ、おむすびで行列をつくっているお店があって。知人からも、お米をつかったメニューを勧められて。当時、お米は今ほど高くなかったですから(笑)」。
じつは「おにまる」は、水野さんにとって起死回生のブランドだった。
「『おにまる』の前に、一つ新業態にチャレンジして、そちらは失敗しています。だから『おにまる』は失敗できなかったんです。ただ、これだけ需要があるとは思ってなかった」。
「おにまる」1号店は、イオンモールの一角でスタートする。水野さんによると「月商200~300万円を見込んでいた」とのことだが、蓋をあけると「1000万円を越えてきた」そう。
・・・
続き

株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏


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2025年9月21日日曜日

求人に新たな試みを検証!

求人の募集に新たな試みをクライアント様で検証!
もちろん、検証と言っても自信のある試みで キイストンでも実施し、採用に繋げたいと思ってます。 
 さらに現在、AI使った新たな試みもやる予定で水面下で動かしてます。
 どこもやってないことにチャレンジすることこそ、キイストンの強みですからね。
「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年9月17日水曜日

“書籍出しませんか?“

“書籍出しませんか?“


売るための書籍ではなく人材採用・従業員研修のツールとして、
経営者の考え方や会社のこだわりや夢について知ってもらう、
また共感してもらうのに、とても強い武器にもなります。

もし検索して、知り合いの経営者の書籍が出てきたらどう思いますか?
しかも、自分よりも若い経営者、自分の会社よりも規模が小さい会社が出させてたとすると…

私は2004年に飛び込み営業の書籍を出版して頂きました!
それからリクルート式という採用関連の書籍も出版しました。
この書籍出版しただけで他人からのイメージってできるんですよね。

これは書籍を出したものしかわかりません。
人材採用をこれからも考えられるなら、是非書籍をお考えください!!

そんな意味も込め「キイストン出版」のページアップしました!!
https://www.keys.ne.jp/keystone-publish/

「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

本文より~

0勝、7敗。

「『味の民芸』は、サガミが東京にはじめて進出した際、モデルにしたうどんチェーンです。ただし買収時点ではブランド力が低下し、業績も落ち込んでいたのです」と大西氏は振り返る。
<原因はなんだったと分析されていますか?>
「小麦の質を下げて原価を抑えたことが最大の要因でした」。
<つまり、味が落ちた?>
大西さんは、深く頷く。
買収前にサガミの役員たちは「味の民芸」に覆面調査に出向いたそう。当時、役員だった大西さんも、その1人。
「おいしければ勝ち。その逆が負け。7店舗まわって0勝7敗。全敗でした」。
役員のなかでも大西さんの評価はもっとも厳しかったそうだ。その厳しく採点した大西さんが共同代表として経営に参画することになるのだから、縁とはわからない。
ミッションはV字回復。
0勝7敗の重みが、大西さんにのしかかる。
「当時、サガミは仲間という意識で買収に臨みます。ただ、現場では融和的とはいきません。仲間だからこそ、今までのやり方を否定しないと、ともに進むことができないんです」。
「実をいうと」と大西さん。
「最初は、私も客数が何人、うどんが何万食、サガミは生産ラインをもっていますから、うまくいけばその売上で買収コストを償却できるなと電卓を叩いていたんです。でも、二つの会社が一つになるのは、そう簡単なことではありませんでした」。
大西さんは当時を思い出しながら慎重に言葉を紡ぐ。
「私のミッションは『味の民芸』をV字回復です。現状を否定しないといけない立場です。ただ、従業員はみな『味の民芸』に誇りをもっていました。それ自体は、もちろん悪いことではありません。ただ、私からすると、それが大きな障壁でした」。
外様の代表に冷酷な目が注がれる。
「ただ、いつだったかな。サガミの社章を外して出社したんです。目ざとく気付いた、ある社員が『社章、どうされたんですか?』って聞くもんですから、『だって、オレはもう味の民芸の人間だから』と言ったんです。すると、その一言で、周りの表情がかわるんです。どうやら『数年でサガミに戻るんだろ』と思われていたようなんですね」。
それが一つのターニングポイント。
信頼という空気に包まれたことで、大西さんの言葉がスタッフの心に届くようになる。
「調査結果は0勝7敗。すべての店舗が期待を下回っていた。しかし、ここから新たに始めよう」と店長やマネージャーたちに伝えたことが、再生の出発点となった。

お金では動かない男。

じつは大西さんには、以前にも「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。2019年のことで、すでに「味の民芸フードサービス株式会社」の代表取締役社長に就任されていた。
当時のお話を思い出しながら、簡単にプロフィールをご紹介する。
大西さんは1962年、岐阜県の<徹夜踊りと城下町>で有名な「郡上八幡」に生まれる。小学4年生から夕刊の配達をはじめ、高校3年まで続けている。大西さんに言わせれば、数少ない自慢の一つ。
高校卒業後、名古屋にある専門学校に通いながらサガミでアルバイトを開始する。
大西さんの仕事ぶりを評価した創業者から「学費は出してやる。だから、正社員になれ、と誘われた」逸話をもつ。その創業者への返答も逸話の一つ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。
大西さんは、まっすぐ創業者を見て、そう言った。
お金では動かないが、恩義では動く。卒業後、大西さんは何かと支援してくれた創業者に感謝して、サガミに就職する。
創業者の期待を裏切らず、出店攻勢をかけるサガミにとって、貴重な戦力となっていく。サガミ大型店1号店の店長を務め、そののちもマネージャー、運営部長、営業部長、子会社社長と要職を次々と経験。サガミの躍進に貢献する。
「味の民芸フードサービス株式会社」の社長に就任し、低迷していた業績をV字回復したのは、このあと。そして、現在はサガミホールディングスの社長を務めている。

復活の狼煙。

ところで、V字回復の経緯も、当時、詳しく語っていただいた。
「サガミが東京に進出したとき『味の民芸』はライバルでしたし、モデルでもあったんです。なかでも『手延べうどん』は『味の民芸』の象徴だったんです。つまり、圧倒的にうまい。しかし、私が覆面調査に行ったときにはその味はすっかり落ちていました」。
「原因は、簡単で原料の小麦です」と大西さんは当時もそう言っていた。
味の民芸の役員会議で小麦の仕入れの話になった。原価優先の話になったとき、温厚な大西さんが気色ばみ、猛然と反発する。
そのときの心境を前回、以下のように述べられている。
「あのおいしい『手延べうどん』がなくなっちゃ復活も再生もない。何より、従業員が自信を取り戻せない。でもね。『うどんだけで2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃ(買収しなきゃ)いいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
当初は、生産ラインが倍増するとコストメリットがあるとふんでいた大西さんに、2000万円が重くのしかかる。ただ、それでもひるまない。
「味の民芸」を守る。
その意志がこの会議ではっきりと示された。むろん、復活の狼煙でもある。

回復した「味の民芸」をコロナが襲う。

「おいしいうどんができない。涙を流してね。『悔しい』というスタッフがいた」と大西さん。原価をかけないからだ。「味の民芸」のうどんを誰より愛するスタッフだった。
「裏切れんでしょ。そう言われたらさ」。
大きな責任を背負ったが、同じ飲食人、気持ちは痛いほどわかる。だから、乗り越えてやると心を定めた。
「まず、メニューを変えたんです。それが私の最初の仕事だった。もちろん、原料の小麦を見直し、民芸自慢のうどんにリメイクです」。
原価を上げた分、メニューミックスで客単価を100円上げた。客数が減るのは、想定内。ところが、客数が10%伸びた。
「あれは、いい意味で計算外でした。それ以上に嬉しいこともあったんです」。
「スタッフがね」と大西さん。
「『お客様が『おうどんが、おいしくなったっておっしゃるんです』って、次々と報告に来るんです」。
喜びに包まれたスタッフの顔は今も忘れない。
「涙を流させていたのも、経営者だし、幸せなあの顔をつくるのも経営者。経営者の本質を知った気がします」。
ときは過ぎ、快走をはじめた「味の民芸」を、コロナが襲う。
この時の様子。
「サガミは愛知です。味の民芸は東京。東京と愛知でまったく温度差があったんです」と大西さんは笑う。
今だから、笑えるのだろう。
「私が、コロナだからっていっても、本部の人間は、そうですねぇくらいの返答なんです。 こっち(東京)は、小池知事が緊急事態宣言だってやっているのに、危機感がぜんぜん伝わらないんです。それで、もう、本部のメッセージを待っていられなかったので、私が民芸全店にビデオメッセージを送ったんです」。
「従業員の命を守る」と大西さんは覚悟を決める。
「家族構成を調べて、お年寄りと同居していたり、2歳までの子どもがいたりするスタッフは休業を申請しなさい、と。仕事は守るが、命は自分たちで守ってもらわないといけない、と」。
ところが、誰も申請に来なかったそうだ。
「みんなたいへんなのはわかっていたんです。せっかく業績がV字で回復して、誰もが仕事に誇りを取り戻していたときですからね。みんなもたぶんもう負けるわけにはいかなかったんでしょう。『休む』じゃなく、『店頭でお弁当を販売しましょう』『デリバリーしましょう』って言ってくるんです。こりゃ、やっぱりすごい組織だな、と。頼もしくもなり、だからこそ、私もコロナに負けるわけにはいかなかった」。
退職勧告はもちろんしない。
「ただ、深夜専任のスタッフには、先が見えないから辞めていただいた。それだけはどうしようもなかった」と、顔をしかめる。

・・・続き

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏


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