in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。
小学生で、社長になった少年。
「小学生で、社長になった」と笑うのは今回ご登場いただいた株式会社雷神の代表、加藤裕之さん。1972年というから第二次ベビーブーム。小学生の数も多い。
「今とはぜんぜんちがいますね。子どもの人数は多いから、ぜんぶ競争だし、スマホもゲームもない時代ですから、ゲームだって、みんなでつくって」。
それで、社長ゲーム?
「ゲームというより、ごっこですね。社長ごっこ。なぜか、ぼくがいつも社長だったんです(笑)」。
「社長になりたい」と思ったのは小学生の頃。鉄板焼のお店を経営する父親の影響だそう。加藤さんが小さな頃はとくに商売繁盛。「同業がないのが、よかったんじゃないかな」と加藤さん。
小さなスタッフ、加藤さんは、お客さんに可愛がられた。野球では、1番ショート。小さな「社長」はとにかく足が速かったそうだ。中学から陸上部に所属し、高校では100メートル11秒を記録している。
バイクも速かった。チューニングして性能を高め、毎夜、ツーリングに出かけた。「高校時代は部活、バイト、バイクの4B」と加藤さん。
寝ることもなく、駆けつづけた。
勉強もできなかったわけではない。ただ、本人は「小さな頃から、社長になると決めていたんで大学進学はもともと頭になかった」という。
長野の山にこもった時の、副産物。
高校を卒業してはじめたのは、東洋経済新報社ビル地下のバーのバーテンダー。皿とグラスを洗いながらカウンターの向こうの会話に耳をそばだてた。
「新聞社の人間と上場企業の役員のヒソヒソ話です。今だったら絶対インサイダー情報です(笑)」。
もちろん、このバーに勤めたのは、この情報を狙ってのこと。頭の回転も早く、行動力もある証。
「うちは、父母はもちろん、祖父も祖母もみんな商売人。ぼくも小さな頃から現金で育ってきたでしょ。だからでしょう。子どもの頃から商売人気質だった気がします。だから、いつも社長だったのかもしれませんね」。
「商売人」×「社長」。
大人になると社会のしくみも知るべきだと、「株式に興味をもった」という。
もっとも、このあと東京のど真ん中、八重洲口から離れ、長野の山に籠もる。
「あれは20歳の時ですね。スノボーにハマって、今度は山に住もうと。雪が降ると山に入り、雪がなくなると麓に降りてラーメン店でバイトをします」。
「そのバイトがぼくの修業の一つ」と加藤さん。
「3年くらい山と麓を行き来して。夏の間はずっと、そのラーメン店です。その店でマスターした餃子が今の餃子のベースなんです」。
それにしても趣味のスノーボードやスキーと仕事。山を降りては、バイトと修業。
「3年くらいたって、そろそろ東京に戻らないと、となって。浅草の、ラーメン店で働きはじめます」。
ラーメン店で出会った女性に惹かれて。
「最初は、すごい人がいるなって」。加藤さんがすごい人というのは、そのラーメン店で働いていた2つ年下の女性のこと。
「めちゃくちゃ流行っているラーメン店です。彼女は看板娘っていうか、すごくきれいな人だったんで、お客様にも好かれていて。でも、ただの看板娘じゃないんです。ラーメンを次々と、すごいスピードでつくるんです」。
「尊敬していた」と加藤さんは大真面目に語る。
「はたらいているうちに、だんだんと距離が縮まって。いつだったか、一緒にラーメン店をやろうということになって。資金稼ぎのために深夜トラックに乗るんです」。
奥さんもトラックに?
「そう、1代ずつ2台で」。
思わず、答えを書いてしまったが、その彼女と結婚。加藤さんは2社かけもちで、18時間、はたらいたという。
そうして、結婚と同時に2人の念願のラーメン店がオープンする。もう一つ嬉しいことがあった。
「オープンしてすぐに、息子が生まれたんです」。
さて、なにやらめでたい尽くしだが、オープンした店は、どうだったんだろう。小学校では、ごっこだったが、今度は、リアルな社長業。失敗はしゃれにならない。
雷神ラーメン、オープン。
「貯金をぜんぶつっこみましたから、オープンしたらお金が全く無かった。だから、自転車操業です。業者さんには、その日の売上でお支払いしてね」。
ただ、金がないからといってひるむ加藤さんではない。本人いわく「最初からイケイケだった」そう。
「昔の後輩たちが、先輩が店をオープンするからって、チラシをボランティアで撒いてくれたりして。それも助かりました。いっしょにバイクで走りまわった仲間たちですが、案外、義理堅い(笑)」。
繁盛しましたか?
「おかげさまで」と加藤さん。
イケイケ店主は昼の12時からスタートして、日付変更線を軽々と越え、翌朝7時まで働く。もちろん、無休。
「長野の餃子とラーメン、そして浅草のラーメンをアレンジして。チラシの効果もあったんでしょうか。オープン初日からお客様の入りがハンパなかったです。もちろん、子どもができたばかりで、ワンオペ。それで、ぶっ通しですから、ぶっ倒れたりもしましたね」。
倒れたんですか?
「今思うと、25歳で若かったからできた。とにかく、やればやるほどキャッシュが貯まる。アドレナリンがでまくっていましたから」。
イケイケというものの慎重でもある。
「目標は、無借金経営までもっていこう、と」。
経営の羅針盤は小学生の社長ごっこ、と、父親の背中。
ところで、店名の雷神ラーメンですが、由来は?
「まぁ、思いつきなんです。浅草で修業させてもらっていたんで」と加藤さん。
雷門が、すぐ頭に浮かんだ。
2025年10月には念願の浅草に油そば店がオープンするそうだ。
餃子1本勝負。
ところで、雷神ラーメンだが、今はラーメンの文字はなく、社名も「雷神」である。「20年前に、ラーメンは競争が激しく、劣化しやすいと、ラーメンをやめ、人気だった『餃子』1本に絞ったんです」。
それが、今の卸売メインの事業に進化していく。
「餃子ってね。大手の中華料理店などは自社で製造していますが、それ以外の、たとえば、居酒屋さんやラーメン専門店は、餃子を業者から仕入れられているケースが多いです。ラーメンとちがって餃子はつくるのが難しいし、時間がかかるんです。だから、普通は買うほうがローコスト。もちろん、居酒屋に餃子はなくてもいいんですが、お客様からするとメニューにあったほうがいいでしょ」。
たしかに、あれば注文しちゃいますね。
「そう、そういう餃子のニーズを知っていましたし、ラーメンが長く続かないこともわかっていましたから。『餃子1本』、しかも、卸だと」。
餃子というと長野で修業された時の、餃子ですか?
「そう。長野で山にこもっていた時のバイト先、それに浅草の修業先のエッセンスをプラスして。そして、もう亡くなりましたが祖母といっしょに自宅のキッチンで、それこそ数千回の試行錯誤を繰り返して生まれたんです」。
味付き餃子で、醤油もいらないとか?
「発売当時は、そういう餃子がなかったから、とくにヒットしたんだと思います」。
たしかに、ホームページには「基本的には調味料を何も付けずにお召し上がりいただけます。もし何かお付けになるとすれば酢コショウなどがよく合います」とある。
そういえば、最近、酢コショウで食べる人をみかけることがある。酢醤油とラー油はもう、昭和の固定観念なのかもしれない。
とにかく、雷神餃子である。
餃子に絞って、卸を進めて、今や全国500店舗以上の飲食店に提供しているそう。
「うちは、鮮度が落ちるといけないから基本は小ロットで卸業者に渡しています。長期の保存もオススメしていません。だから、日々注文をいただきます」。
つい最近まで、自社工場で30人以上のパートさんたちで製造していたが、数が追いつかず、今は外部にも依頼しているそう。それだけ、需要がある証。
「まだまだいけるんじゃないでしょうか。餃子の隠れたポテンシャルですね。ラーメンみたいに、やみつきになるような人はいないが、浮き沈みなく、愛されつづける。サイドメニューっていうのがいいんです。脇役のような存在ですが、だからこそあきられず長く愛されるんです」。
長く餃子を売り続けている加藤さんがいうんだから説得力がある。餃子は、ラーメン同様、今やもう、日本の国民食でもある。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
0 件のコメント:
コメントを投稿