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2025年9月17日水曜日

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

本文より~

0勝、7敗。

「『味の民芸』は、サガミが東京にはじめて進出した際、モデルにしたうどんチェーンです。ただし買収時点ではブランド力が低下し、業績も落ち込んでいたのです」と大西氏は振り返る。
<原因はなんだったと分析されていますか?>
「小麦の質を下げて原価を抑えたことが最大の要因でした」。
<つまり、味が落ちた?>
大西さんは、深く頷く。
買収前にサガミの役員たちは「味の民芸」に覆面調査に出向いたそう。当時、役員だった大西さんも、その1人。
「おいしければ勝ち。その逆が負け。7店舗まわって0勝7敗。全敗でした」。
役員のなかでも大西さんの評価はもっとも厳しかったそうだ。その厳しく採点した大西さんが共同代表として経営に参画することになるのだから、縁とはわからない。
ミッションはV字回復。
0勝7敗の重みが、大西さんにのしかかる。
「当時、サガミは仲間という意識で買収に臨みます。ただ、現場では融和的とはいきません。仲間だからこそ、今までのやり方を否定しないと、ともに進むことができないんです」。
「実をいうと」と大西さん。
「最初は、私も客数が何人、うどんが何万食、サガミは生産ラインをもっていますから、うまくいけばその売上で買収コストを償却できるなと電卓を叩いていたんです。でも、二つの会社が一つになるのは、そう簡単なことではありませんでした」。
大西さんは当時を思い出しながら慎重に言葉を紡ぐ。
「私のミッションは『味の民芸』をV字回復です。現状を否定しないといけない立場です。ただ、従業員はみな『味の民芸』に誇りをもっていました。それ自体は、もちろん悪いことではありません。ただ、私からすると、それが大きな障壁でした」。
外様の代表に冷酷な目が注がれる。
「ただ、いつだったかな。サガミの社章を外して出社したんです。目ざとく気付いた、ある社員が『社章、どうされたんですか?』って聞くもんですから、『だって、オレはもう味の民芸の人間だから』と言ったんです。すると、その一言で、周りの表情がかわるんです。どうやら『数年でサガミに戻るんだろ』と思われていたようなんですね」。
それが一つのターニングポイント。
信頼という空気に包まれたことで、大西さんの言葉がスタッフの心に届くようになる。
「調査結果は0勝7敗。すべての店舗が期待を下回っていた。しかし、ここから新たに始めよう」と店長やマネージャーたちに伝えたことが、再生の出発点となった。

お金では動かない男。

じつは大西さんには、以前にも「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。2019年のことで、すでに「味の民芸フードサービス株式会社」の代表取締役社長に就任されていた。
当時のお話を思い出しながら、簡単にプロフィールをご紹介する。
大西さんは1962年、岐阜県の<徹夜踊りと城下町>で有名な「郡上八幡」に生まれる。小学4年生から夕刊の配達をはじめ、高校3年まで続けている。大西さんに言わせれば、数少ない自慢の一つ。
高校卒業後、名古屋にある専門学校に通いながらサガミでアルバイトを開始する。
大西さんの仕事ぶりを評価した創業者から「学費は出してやる。だから、正社員になれ、と誘われた」逸話をもつ。その創業者への返答も逸話の一つ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。
大西さんは、まっすぐ創業者を見て、そう言った。
お金では動かないが、恩義では動く。卒業後、大西さんは何かと支援してくれた創業者に感謝して、サガミに就職する。
創業者の期待を裏切らず、出店攻勢をかけるサガミにとって、貴重な戦力となっていく。サガミ大型店1号店の店長を務め、そののちもマネージャー、運営部長、営業部長、子会社社長と要職を次々と経験。サガミの躍進に貢献する。
「味の民芸フードサービス株式会社」の社長に就任し、低迷していた業績をV字回復したのは、このあと。そして、現在はサガミホールディングスの社長を務めている。

復活の狼煙。

ところで、V字回復の経緯も、当時、詳しく語っていただいた。
「サガミが東京に進出したとき『味の民芸』はライバルでしたし、モデルでもあったんです。なかでも『手延べうどん』は『味の民芸』の象徴だったんです。つまり、圧倒的にうまい。しかし、私が覆面調査に行ったときにはその味はすっかり落ちていました」。
「原因は、簡単で原料の小麦です」と大西さんは当時もそう言っていた。
味の民芸の役員会議で小麦の仕入れの話になった。原価優先の話になったとき、温厚な大西さんが気色ばみ、猛然と反発する。
そのときの心境を前回、以下のように述べられている。
「あのおいしい『手延べうどん』がなくなっちゃ復活も再生もない。何より、従業員が自信を取り戻せない。でもね。『うどんだけで2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃ(買収しなきゃ)いいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
当初は、生産ラインが倍増するとコストメリットがあるとふんでいた大西さんに、2000万円が重くのしかかる。ただ、それでもひるまない。
「味の民芸」を守る。
その意志がこの会議ではっきりと示された。むろん、復活の狼煙でもある。

回復した「味の民芸」をコロナが襲う。

「おいしいうどんができない。涙を流してね。『悔しい』というスタッフがいた」と大西さん。原価をかけないからだ。「味の民芸」のうどんを誰より愛するスタッフだった。
「裏切れんでしょ。そう言われたらさ」。
大きな責任を背負ったが、同じ飲食人、気持ちは痛いほどわかる。だから、乗り越えてやると心を定めた。
「まず、メニューを変えたんです。それが私の最初の仕事だった。もちろん、原料の小麦を見直し、民芸自慢のうどんにリメイクです」。
原価を上げた分、メニューミックスで客単価を100円上げた。客数が減るのは、想定内。ところが、客数が10%伸びた。
「あれは、いい意味で計算外でした。それ以上に嬉しいこともあったんです」。
「スタッフがね」と大西さん。
「『お客様が『おうどんが、おいしくなったっておっしゃるんです』って、次々と報告に来るんです」。
喜びに包まれたスタッフの顔は今も忘れない。
「涙を流させていたのも、経営者だし、幸せなあの顔をつくるのも経営者。経営者の本質を知った気がします」。
ときは過ぎ、快走をはじめた「味の民芸」を、コロナが襲う。
この時の様子。
「サガミは愛知です。味の民芸は東京。東京と愛知でまったく温度差があったんです」と大西さんは笑う。
今だから、笑えるのだろう。
「私が、コロナだからっていっても、本部の人間は、そうですねぇくらいの返答なんです。 こっち(東京)は、小池知事が緊急事態宣言だってやっているのに、危機感がぜんぜん伝わらないんです。それで、もう、本部のメッセージを待っていられなかったので、私が民芸全店にビデオメッセージを送ったんです」。
「従業員の命を守る」と大西さんは覚悟を決める。
「家族構成を調べて、お年寄りと同居していたり、2歳までの子どもがいたりするスタッフは休業を申請しなさい、と。仕事は守るが、命は自分たちで守ってもらわないといけない、と」。
ところが、誰も申請に来なかったそうだ。
「みんなたいへんなのはわかっていたんです。せっかく業績がV字で回復して、誰もが仕事に誇りを取り戻していたときですからね。みんなもたぶんもう負けるわけにはいかなかったんでしょう。『休む』じゃなく、『店頭でお弁当を販売しましょう』『デリバリーしましょう』って言ってくるんです。こりゃ、やっぱりすごい組織だな、と。頼もしくもなり、だからこそ、私もコロナに負けるわけにはいかなかった」。
退職勧告はもちろんしない。
「ただ、深夜専任のスタッフには、先が見えないから辞めていただいた。それだけはどうしようもなかった」と、顔をしかめる。

・・・続き

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏


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2019年2月19日火曜日

味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏氏登場
本文より~

野球と新聞配達の二刀流。

八幡町というより、徹夜踊りと城下町で有名な「郡上八幡」といったほうが、通りがいいだろう。岐阜県にある昔ながらの町である。今回、ご登場いただいた味の民芸フードサービス株式会社、代表取締役の大西氏は1962年、この郡上八幡に生まれている。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。

先生から告げられた。「住み込み付きの、いいバイトがある」。

「こうして振り返ると、ぜんぜん努力してないですね。たしかに、新聞配達はしましたけど、特別、苦にならなかっただけの話。部活も、お世辞にも一生懸命だったとは言えない。結局、調理の専門学校に決めたのも就職するのがイヤだっただけだし…」。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。

「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。アルバイター、創業者に啖呵を切る。

バイトでは、一つだけ得意なことがあった。「料理のセットが、いちばん早かったんです。それで、重宝してもらって。バイトなんですが、オープニングには決まって呼ばれました。オープンは忙しいでしょ。だからね。ありがたかったのは、オープニングには創業者もいらっしゃるから、何かと声をかけていただいたことですね」。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。

あこがれは、やっぱり店長。

「当時店長はあこがれ、花形でしたね。ただ、サガミの店って、だいたい年商2億円くらいの大型店なんです。そう、簡単に店長にはなれません。だいたい6年くらいが、平均じゃないでしょうか」。そのなかで、大西氏は3年目で1号店本店と言われる店の店長になっている。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。
・・・続き
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