2022年1月23日日曜日

1月14日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は野菜卸の『フードサプライ』様を取り上げました。

1月14日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は野菜炒め専門店ベジ郎渋谷総本店をオープンされた野菜卸の『フードサプライ』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

1月7日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『シードタンク 』様を取り上げました。

1月7日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はふるさと納税返礼品やユニホームの監修もされている『シードタンク 』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2022年1月21日金曜日

株式会社銀座ルノアール 代表取締役 小宮山誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社銀座ルノアール 代表取締役 小宮山誠氏登場。


本文より~

プロサッカー選手を目指していた少年時代。

祖父は銀座ルノアールの創業者、父の小宮山文男氏は二代目社長という、銀座ルノアール創業家に生まれる。
父が商売で忙しい分も、専業主婦であった母からたくさんの愛情を注がれて育った。
そんな小宮山少年は、小学校4年生からサッカーを始める。
「運動神経は良く、身体を動かすのは得意だった」と本人が言う通り、サッカーでもその実力は確かなもので、中学生時代には読売クラブのジュニアユースの試験に合格し入団。GKとして全国レベルを経験した。
高校もサッカー強豪校である国学院久我山に進学。2年生の時にレギュラーの座を獲得し、都大会でベスト8の成績を残す。
小宮山少年がサッカーに熱中していた頃、家業の銀座ルノアールは上場準備~株式店頭公開と、大変な忙しさだった頃だ。そのような状況でも応援してくれる父の背中にいつも感謝し、「いつか自分が助けたい」という気持ちが芽生え始めていた。
小学校の卒業アルバムには将来の夢を「ワールドカップ出場。プロサッカー選手になる」と書いていたのだが、中学校ではすでに「銀座ルノアールを継いで、子孫に託す」という言葉を残しており、サッカーは続けながらも、大学は将来を見据えて経済学部へと進んだ。

商売の楽しさと厳しさを知る

銀座ルノアールの前身は、中野区にあった「花見煎餅」という煎餅店が開業した喫茶店であった。
余談になるが、喫茶室ルノアールの魅力である「広々とした空間でゆったりくつろげる」スタイルは、創業時、絨毯にお金をかけすぎて椅子やテーブルを充分用意出来なかったところから始まる。数の足りない椅子やテーブルを配置してみると、席と席の間に余裕があり、これがお客様には好評で、以来そのスタイルが喫茶室ルノアールの定番となった。
話を戻し、小宮山氏がまだ小学生だった頃、年末になると中野ブロードウェイ商店街にあった花見煎餅の店舗で手伝いをするようになった。当時のクリスマスプレゼントの定番であった「お菓子の詰まった長靴」を売るのが仕事だった。売り場をつくって商品を並べ、「いらっしゃい、いらっしゃい!」と呼び込みもした。これが、商売の楽しさや難しさ、通りがかる人の優しさや厳しさにも触れ、商売を知る原点となった。

帝王学をたたきこまれることはなく。

大学生になり、ファミリーレストランでの皿洗い、大型書店、子供のサッカー大会のスタッフなどのアルバイトをしながら、簿記の勉強を始めたという。
「継げ」と言われたこともないが、すでに自分の歩む道は父の後継者と決めていた。
創業家の帝王学を叩き込まれた記憶はなく、祖父や父からは「礼儀、その他身だしなみや言動に気をつけること」を教えられた。
父からは「お前はピュアすぎる」と言われるほど世間知らずなことを心配され、成人した時にポンと大金を渡され、海外で見聞を広めてくるように促されたが、小宮山氏にとっては、日本のこれから開発されるであろう街並みや、いろんなお店をドライブがてら見て歩く方が刺激的で楽しかったそうだ。
祖父や親からの押し付けの教育ではなく、将来の自分の役に立ちそうなことを自ら選べる自由があった。
同族系の企業が、後継ぎを新卒で丁稚に出すのは金融機関が多いものだが、小宮山氏は当時一番勢いのあったファミリーレストランに入社することを決め、ジョナサンに入社。1年3ヶ月、現場を経験した後、銀座ルノアールへ入社した。

31歳でルノアールを出る。

ルノアールに入社して3年。順調に店長まで昇進し、エスプレッソカフェを提供する新ブランド「NEW YORKER’S Cafe」の運営のトップを任されることとなった。
セルフ方式の業態は社内でも革新的で、スターバックスコーヒーの流行などと共に新しいカフェのスタイルとして大流行し、当時喫茶室ルノアールの売り上げが厳しかった中、「私が会社の売り上げを支えている!」と鼻高々であった。 しかし、その成功に謙虚さを忘れ、突っ走った小宮山氏は、想像以上の社内の反感を買うことになる。
「調子に乗って大先輩に説教したことも…」会社を思っての発言も波紋を広げ、小宮山氏と距離を置く社員も出るようになる。
ついには親である社長からも苦言を呈され、自らも至らなさを肌で感じ、将来の会社組織の為に自身の成長が不可欠と思い、銀座ルノアールを出る決意を固めたのが31歳の時である。
3年間…客観的に自分を見つめ直し、ためになることと足りないことを見極め、成長出来るか?成長して戻って来られるか?
場合によっては「戻らない」選択肢も用意し、修行の日々へ身を投じた。
2年間は人事を学べる仕事に就いた。求職者と仕事を結びつける企業なのだが、心理や組織についての研究も行っている会社で、社長のカバン持ちから、事務、営業と何でもやらせてもらいながら、自分自身の人生、存在価値を見つめる2年間であった 。3年目は、キーコーヒーで大企業の組織や企業としてのあるべき姿、経営者としてのあるべき姿を学び、銀座ルノアールへ戻る決心がついた。
スポーツが人より出来たので小さい時から自己有能感が強かった気質もあり、それがアダになることもあったと、苦笑しながら小宮山氏はこう振り返る。当時、NEW YORKER’S Cafeが成功したのは自分だけの力ではないのに、周囲への感謝の気持ちを忘れていました。今思えば、1ブランドのトップだったのはまだ救われました。社長になって1500人の従業員のトップに立ってからでは遅かった」と。この3年間の修行は、無駄ではなかった。

・・・続き
株式会社銀座ルノアール 代表取締役 小宮山誠氏

 PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏登場。


本文より~

荒川区町屋に生まれた少年。

山形から父親が上京したのはいつの頃だろう。「集団就職で上京したのではないか」と菅原氏はいう。仕事は印刷関連。その頃から町屋で暮らしている。まだまだ町屋が下町だった頃。
菅原氏が生まれたのは1976年。「あの頃と比べると高いビルが建ち、駅前もおしゃれになった」と笑う。下町といっても、当時からビルがあったのは、さすが東京だ。
小学校は30人3クラス。中学も同規模。多いとみるか、少ないとみるか微妙なところ。「小・中はリトルリーグやクラブで野球をしていました。ポジションはショート。高校に進学してからは準帰宅部です」。
どうして野球をつづけなかったのだろう。
「硬式の野球部があればよかったんですが、軟式しかなく。いちおうバトミントン部に籍は置いていました」。だから、準帰宅部。バトミントン部に入部したのは、「女の子のお尻を追いかけて」とこちらを笑わす。
「勉強は、ぜんぜん好きじゃなかった。大学進学も最初から頭になかったくらいですから。バイトは高校時代から始めていて、ピザ屋や東京ドームでコーラを売ったりもしていました」。バイト代は月数万円になったが、すぐにパチンコ台に飲み込まれた。
「今思うと、あの頃は、やることがなかったんでしょうね」。やりたいこともなかった。だから、就職も父親の紹介で印刷会社に簡単に決めている。
町工場の印刷オペレーター。これが菅原氏の最初の仕事。「24歳で退職していますから、合計6年間くらいいた計算になります」。印刷機と向き合う菅原氏は、何を考えていたんだろうか?

オペレーター→営業→飲食→トラックドライバー、そして、ふたたび。

「印刷の仕事の傍らで、アルバイトもしていました。仕事に慣れた20歳の頃からですね。酒代や、サーフィンやスノボーにもお金がかかりましたから」。
営業をやってみようと思ったのは、単純な作業が苦になってきたから。転職先は、光通信関係の会社。コピー機のセールスが仕事。勇んでチャレンジしたのはいいが、思ったようには売れない。「月に2台くらい」と笑う。結局、こちらは1年で退職している。
「次の就職先がみつかるまでと思って、カラオケ店でアルバイトを再開します。その時、新たにダーツバーをやることになり、立ち上げから参加させてもらったんです」。
飲食の楽しさを知ったのは、この時と菅原氏は言っている。「独立もしたくなりましたね。ただ、ダーツバーにいたのは27歳までです」。
独立も視野に入れ、飲食への思いを膨らませた菅原氏。しかし、次に選んだのはトラックドライバーだった。「28歳で結婚するんです。飲食は給料がよくなかったので、結局、飲食を離れ、トラックドライバーに転身します。そうですね。ハードな仕事でしたが、年収は550万円くらいありましたから、飲食とは比較にならなかったです」。
この仕事を33歳までつづけている。今度は、どんな理由で退職するのだろう。

自己資金ゼロで独立?

「じつは、ドライバーをしながらも、なんとなく独立したいと思っていたんです。当時、サーフィンをやっていましたから、いずれ海の近くでお店をやりたいなと。ただ、なかなか人間、踏み出せない(笑)」。
そんな時、リーマンショックで年収が100万円くらい下がってしまったそう。「稼ぎたくても、稼げない時期がつづいた」と菅原氏。
それが、菅原氏の背中を押すことになる。
「もうひとつ、家を買おうと思って、方角などを占い師にみてもらった時に、『人の上に立つ仕事があっている』って言われるんです。それも引金になりました」。
「飲食」×「独立」。キーワードが重なる。むろん、もう33歳。遠回りはしたくない。目標は、海の近くに飲食店を出店すること。ただ、どの道が海までつながっているかわからない。
「いちおう面接は5社受けて、合格したのは2社。お給料のいいほうを選択しました」。すでにお子さんもいたから、生活のためを思えば、給料が基準になってもおかしくない。
「蕎麦と地酒、饂飩と焼酎のお店を都内に6~7店舗もっている会社です。ダーツバーにいた時に、焼酎にハマって、『焼酎の利き酒師』の資格をもっていたもんですから、給料だけではなく、そういう点でもいいかなと思って」。
現実的かつ、理想的な選択。ただ、独立という目標がある。そちらはどうだったのか?「独立のセミナーにちょこちょこ参加していたんです。ある時、そのセミナーで『自己資金ゼロで独立』という謳い文句と出会うんです(笑)」。
それが、グロブリッジとの出会いだったそうである。

独立。一号店、オープン。

「グロブリッジさんのお店もまだ5店舗くらいの時です。その時は、希望者である私たちがグロブリッジで4ヵ月間研修を受け、5ヵ月目に新店の立ち上げを行い、初月の成績が目標をクリアすれば合格となり、無利息でお金を貸していただけるというスキームでした」。
晴れて、合格されたんですね?
「おかげ様で、研修では昼間、経営を勉強し、夕方からお店で実践を積みます。新店では、アルバイトの採用からぜんぶ行いました。それ自体、いい経験ですし、その時、お会いした代表の大塚さんには、今も感謝しています」。
大塚氏は<「株式会社グロブリッジ 代表取締役社長 大塚 誠氏」第310回>で、「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。とにかく、6ヵ月後には、グロブリッジから資金を借り、巣鴨に一号店をオープン。思ってもいなかった展開となる。
ただし、フランチャイズだからといっても、安パイではない。独立までも大事だが、それ以降がもっとも大事だ。「どうにかこうにか」と菅原氏は笑う。
「何もないところから一つひとつが生まれ、お店ができて、リピーターがつく。ダーツバーの立ち上げで経験したことが、いまの私の原点だと思います」。
店づくりが、面白いということだろう。それは、実践できた。菅原氏が言う通り、お店も、どうにかこうにか軌道に乗った。
菅原氏が上記のスキームで独立を果たしたのは35歳の時。2号店は2~3年後に出店したとのこと。2022年1月現在は巣鴨、錦糸町、町屋に3店舗運営している。すでに、グロブリッジとのフランチャイズ契約は終了。店名も今は「笑う門には福来る 巣鴨店」だ。

新たな狼煙。

<東京・荒川区の下町、町屋。焼肉の超激戦区として全国に名を轟かすこの地に、「炭火焼肉ホルモン 笑う門には肉来る 町屋店」が、新たに狼煙を上げました。>
こちらは、「Makuake」のプロジェクトの一つとして始まった「雲丹×和牛 うにく」に掲載された紹介記事。記事通り、2021年10月、町屋に炭火焼肉ホルモン店がオープンした。
菅原氏は独自の仕入れルートがあるんだという。芝浦の食肉市場で社長をしている友人が、その独自ネットワーク。巣鴨店で好評のレバテキやもつ鍋も、そのルートから仕入れた食材だそう。これは、強い。ただ、一方で、焼肉業態は設備面など投資もかかり、参入のハードルが高い。
「こちらも友人なんですが、横綱三四郎という焼肉店を経営し、コンサルタントもしている人がいて、彼にアドバイスをもらいながら準備を進めました。資金面では、事業再構築補助金に申請し、1000万円、お借りしました。ただ、合計2000万円ちかくかかりました」。
コロナ禍の下、簡単にできる投資ではない。むしろ、「思い切った」と表現したほうがいいだろう。結果がでるのは、いうまでもなく、アフターコロナの時になってから。
とはいえ、「Makuake」をみるとわかるが、すでに注目度は抜群。ちなみに、この「うにく」では、雲丹専門店とコラボレーションし、雲丹と和牛のマリアージュを追求しているとのこと。二大食材のコラボと言っていいだろう。 将来に話をふると、「農業」の二文字がでてきた。すでに、埼玉県の春日部で無農薬野菜を育てているそうだ。最後に、そのお話もうかがった。

・・・続き

合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2022年1月1日土曜日

謹賀新年。

 2021年もあっという間に終え、2022年を迎えました!

2022年、キイストンは1992年に創業し今年30周年です。

この1年半はコロナ禍で飲食業界は大打撃受け、飲食業界に特化した人材採用をメインにしているキイストンにとっては大変苦戦しました。

ただ、新しい試みやビジネスも複数生まれました。

テレワークは大きかったな。

皆にパソコン支給し、webミーティングが増えたのはスゴいこと。

年明け後も引き続き、まだテレワークは並行し、頻度は減らす予定ですがうまく活用していきます。

また、人材採用(求人)を飲食業界に絞ってきましたが、その飲食業界に対してビジネスを拡大させていきます。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年12月27日月曜日

12月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は坂東太郎グループの『蛸屋』様を取り上げました。

12月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は外食のノウハウ生かし「おいしい+驚き」の新名所「おかしパーク」をオープンされた坂東太郎グループの『蛸屋』様を取り上げました。

https://www.zakzak.co.jp/article/20211225-P4263RH4MZLTNN4ZFDDFL34LA4/

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏登場。

本文より~
樺山氏に出会ったのは2014年、かれこれ8年前になる。当時は、ティーケーエスグループ/株式会社J.fromD.(旧神里商事)の社長として精力的に活動されていたが、師と仰ぐグループの総師・神里隆氏の逝去に伴い退社しREEDという会社を設立。現在にいたるまで、そして今後の展望について再度、「飲食の戦士」のお話を伺った。

師と仰ぐ神里隆氏、病に倒れる。

前回お話を伺ったのは、樺山氏が「チキ南亭」「まぐろ人」「とり将軍」「きちんと」などを運営するティーケーエスのグループ会社の代表取締役だった8年前のことだ。今回、REEDの代表取締役としてお話を伺うにあたり、飲食業との関わりを簡潔に辿ってみることにする。
鹿児島県阿久根市出身の樺山が飲食の世界に飛び込んだのは、大学へは進学せず税理士を目指し進んだ専門学校在学中に飲食店でのアルバイトをしたことが飲食の世界に進むきっかけだったとのこと。
「ロシア料理の店でした。学業のほうは在学中に簿記の資格を取得したので中退、博多の中州にあったお好み焼き店でアルバイトを始めました」。税理士になる夢はいったん封印し、お金を貯めて上京。
「知り合いの家を転々としながらいろんな仕事をしましたが、結局は飲食に落ち着くんですね。飲食の世界に魅せられたんでしょうね」。
そして20歳。運命的、決定的な出会いが訪れる。師と仰ぐ神里隆氏との出会いだ。
「京王線明大前でお好み焼き店のオープニングスタッフを募集していましたので、早速、応募、採用されました」。
神里氏は弱冠20歳の新参者・樺山氏を厳しく、徹底的に仕込んだ。「嫌気がさすほどでした」とその厳しさを、今となっては懐かしがる。
神里隆氏は樺山氏の「どこ」に「なに」を見出したのか判らない。樺山氏が採用されたとき、ティーケーエスは神里商事の子会社だったが業績が逆転し、最終的にティーケーエスが神里商事を買収、新しいグループ企業の社長として樺山氏を任命した。
「夢中で働きました。業績も大幅に拡大しました。従業員も増えました。大変だったけれど“やりがい”はありましたね」。
ところが…。
順風満帆だった日々に暗雲が立ち込める。師と仰ぐ神里隆氏が病に倒れたのだ。

師・逝去。グループ全体の売却に伴い退社へ。

「医学に関しては素人ですから詳しくは判りませんでしたが、なんとなくではありますが、その当時の普段の言動から何か不安は感じましたね」。
病は重篤なものであった。病状は楽観を許すものではなかったが、本人も周囲も当然復帰すると思っていた。
「外観上、見た目には判りませんし大丈夫だと思っていましたが、まさかという感じでした」。
結局手術を受けることに。
「3カ月ほど入院していました。手術、その後の養生が功を奏したのか復帰を果たすことができましたし、退院3カ月後にはゴルフに興じるほどまでに回復していたんです」。
回復した安堵感や喜びの一方で「新しい課題」が持ち上がった。会長の身に万が一不測の事態が起こったとき、誰が事業を継ぐかという課題だ。
「回復したとはいえ、以後のことを考える必要性、というか必然性がありました。つまり、この企業体をどうするのかという問題です。会長自身考える必要は感じていたとは思いますが、実際のところは切迫感は薄かったのだと思います。」
「会長の体調は術後の状態から見た目には判らず大丈夫と思っていたのですが、病魔は進んでいたんでしょうね。発症から2年後、亡くなりました」。
会長の逝去に伴い、ティーケーエスのグループ会社の社長を務めていた樺山氏には、96店舗にまで拡大したグループ全体をいかに維持、継続させるかという重大な問題や責任が両肩に重くのしかかった。
「ただ、誰かが跡を継げるものではないとは思っていました。この会社は、会長が一代で築き上げた会社ですし、そもそもご子息がいらっしゃいましたので、息子さんに継いでもらうのがベストだと思っていました。ただそこに至るにはある程度は時間が必要ではないかとも……」
ところが…。
「ご一族で継続の方法を考えていたのだと思います。事業全体を売却する方向で話が進みました」。
この点については多くは語らない。
「社長ではありましたが、基本的には“雇われの身”でしかありません。居場所もなくなったと感じた私は退社することに決めました」。
売却成立の話を聞いたのが2017年8月、退社したのは翌年の3月31日だった。

2018年4月10日、東京都府中市で居酒屋開業。

退職はしたが、故郷・鹿児島へ帰る~いわばUターン~という選択肢はなかった。ただ飲食業としてこの先を生きて行こうとは考えていた。因みにREEDの監査役・徳重剛氏は当時のグループ会社の監査役だった方で、REED立ち上げにあたり就任してもらった。この徳重氏だが、サッカーファンなら詳しいと思うが、J3鹿児島ユナイテッドの社長でもある(2021年の成績は第7位。J2への昇格も間近だ)。
さて、独立・起業にあたり、ご家族の賛同は得られたのだろうか。
「二人の子ども(上は高校2年、下は中学3年)も受験を控えていた時期でもあったので、故郷に帰るということはできなかったですね。いずれにせよ賛同は得ました」。覚悟のほどが伺える。
覚悟を決め、満を持して2018年4月、府中市で居酒屋を2店舗、同時開業に漕ぎつけた。
「まず、開業に伴う資金がなかったので、金融機関からの借り入れで準備し、既存の九州の3店舗はティーケーエスから業務受託として借りました」。
スタート当初は大変だったと語る樺山氏だが、「ティーケーエスグループの社長時代とは“大変さ”の意味と言うか、質が違いましたね。オーナーか雇われかによる違いかもしれませんし適切かどうか判りませんが、“心地良い大変さ”とでも言うんでしょうか……」
開業以来順調に歩み、現在は「焼肉食堂ヒフミ」など府中で4店舗、出身地の鹿児島県で「麺屋しげぞう」など2店舗、熊本県で「きちんと」の合計7店舗を経営している。
創業以来、順調に業績を積み重ね、新しいプランに取り組み始めた矢先の2020年、「新型コロナウイルス」による業務への影響に翻弄されることになる。不可抗力だけに、その悔しさは察するに余りある。

・・・続き

株式会社REED 代表取締役 樺山重勝氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)