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2021年12月27日月曜日

2020年1月27日月曜日

1月21日、今年も坂東太郎様の新年会にお招きいただきました。

1月21日、今年も坂東太郎グループの事業発展計画発表会&新年会にお招き頂きました。
いつも熱量感じますが、すごい規模の新年会です。
その中でも社員代表として900人の前で、モンゴル出身の女性がスピーチされました。
昨年5月、モンゴルから7人採用されましたが、モンゴルの国立大学出身だけあって、日本語はもとより、スピーチの内容も素晴らしかったです。
今年もまた感動させて頂きました。
(青谷社長のご挨拶)
(鏡割り)
(各店舗店長登壇スタート)
(900人の前でモンゴルから昨年5月入社された方のスピーチ)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年7月11日木曜日

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!
飲食の経営者の生き様をまとめた「飲食の戦士たち」700連載突破を記念して
「飲食の戦士たち」のマンガムービーを時代の流れに合わせ誕生させました。
その第2弾坂東太郎様が完成しました。
ご覧ください。
マンガムービーはキイストンとトレンドプロとの合同企画商品です。
こちらは「飲食の戦士たち」です。
坂東太郎・青谷会長(飲食の戦士たちより)
https://in-shoku.info/foodfighters/vol469.html
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2019年1月23日水曜日

1月22日、坂東太郎グループ様の事業発展計画発表会&新年会は毎年すごいな・・・。

1月22日、今年も坂東太郎グループの事業発展計画発表会&新年会に行かせて頂きましたが毎年すごい迫力あります。
今回は80人以上いらっしゃる女将のかっぽう着をコシノジュンコ・デザインにされ初のお披露目もありました。
かっぽう着をコシノジュンコさんと世界に発信も素晴らしいです。
青谷会長には、いつも・いつも感動させてもらってます。
恩返ししなくては・・・。
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2016年1月20日水曜日

坂東太郎グループの五誓成河の会に参加させて頂きました。

1月19日、坂東太郎様の社長交代挨拶も兼ねたパーティーに参加させて頂きました。
青谷会長はお客様と従業員の幸せを一番にされており、人として、また経営者として大尊敬してます。
社長に就任された新社長青谷さんも会長のDNA&坂東太郎イズムがしっかり染み込んでおられ、いいタイミングでいい社長交代されたと思います。
さすが、人作りが素晴らしい!
今日もまたまた勉強させて頂きました、ありがとうございます。

キッカケ作ってくれた当時インターンで営業研修に来てくれてた李君に感謝!!

2015年2月6日金曜日

2015年2月3日火曜日

株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏登場。
本文より~

「躾」のかたち。

「この漢字を教わったのは、3歳の頃だと思います」と言いながら、青谷は「躾」という文字を書いた。「身」と「美」。美しい身のこなしということなのだろうか。ひらがなでは分かりにくい言葉の意味が、腹に落ちた。
「私ら兄弟は、母から漢字でしか教わったことがないんです(笑)」。人の前を通る時は、「ごめんなさい」というよう躾けられた。
「躾に、とても厳しい人でした」と青谷は母のことをそう言う。
青谷が生まれたのは、1951年。茨城県の結城郡にある八千代という村だった。
「当時はね、日本でいちばん面積が大きな村。っていうことはさ、いちばん田舎だったわけ」。今では、人口の流入もある。しかし、青谷が生まれた頃は戦後10年も経っていない頃である。村は広いぶん、閑散としていたに違いない。
「うちは専業農家です。スイカや白菜、メロンなんかをつくっていました」。 昔は、白菜が八千代村の名産だったそう。「日本でもいちばん有名な産地だったんじゃないかな」と青谷はいう。自らも、畑仕事に従事しただけに誇らしかったに違いない。
「私は、姉が1人いるんですが、四人兄弟の長男です。父は戦争でからだを壊し、重いのが持てない。だから小学校に上がる頃には、もう畑仕事を手伝っていました」。
父の代わりに、重い堆肥をリヤカーに積み、畑まで運んだ。まだ明け切っていない空は、青い。白菜といえば冬が旬である。吐く息は白かった。
「辛いと思うことはなかったですね。そうしないと食べていけないから。中学になると、もう農作業が私の生活の一部になっていました」。
小さな頃から躾けられた少年、青谷。不満もなにもなかった。
「うちの食卓は席が決まっているんです。机には引出がついていて、そのなかに茶碗が入っている。ごはんを食べ終わったら、茶碗を洗って引出に戻すんですね。これも母の躾の一つでした。今日のお手伝いは良くできたね、とか。怒られるだけではなく、ちゃんと誉めてもくれました」。
思い出はいくらもある。そして、青谷はいまも母に感謝する。
「いま私があるのは、お袋の厳しい躾のおかげなんです」。
青谷がしばしば口にする言葉である。

卒業文集に書き留めた、未来の話。

小学生の頃の思い出はと伺うと、「そうだね、卒業文集をみんなに見られたことかな」と言って笑う。青谷が原稿用紙に「社長になりたい」と書くと、いたずらっ子がその紙を奪って、みんなに見せて歩いたそうだ。
田舎の話である。青谷家だけが貧しかったわけではないだろう。しかし、父が重い作業をできない分だけ、実入りも少なかったことだろう。微かな希望は「未来」という言葉のなかにしかなかったかもしれない。
だから、「社長」と書いた。書いたことも、みんなに見せて歩かれたことも鮮明に記憶している。
「とにかく私は、家族を幸せにしたかったんです。父も母も兄弟たちもみんな…」。小学校を卒業し、中学も卒業とういう時に、大恩のある母が亡くなった。
「もう、高校進学どころじゃなくなってしまいました」。
中学卒業だから、15歳である。
「長男だったしね。もう、跡取りみたいなもんですよ。メロンに、スイカに、白菜。毎年、豊作を祈り、畑仕事に精を出しました。ただ、年々、行き詰まりを感じるようになっていたのも事実です。妹を高校に進学させることもできましたし、弟も働きに行かせました。ただ、そうなると働き手がいないんですよね。『これは、この先、農家を続けるのは難しいな』と思うようになるんです。ちょうど私が20歳の時の話です」。
その時偶然にも、隣町に蕎麦屋がオープンする噂を耳にした。
「最初は、『誰か、アルバイトしてくれる人を知らないか』という話だったんです。それで、私が手を挙げたんです。『畑仕事が終わってから、お願いします』って言って」。
オープンの話を聞いて、昔、文集に記した「社長になりたい」という言葉が雷鳴のように轟いたそうだ。よし、「社長」になろう。
小学6年生の時「未来」のジブンに託した二文字が、タイムカプセルから、突然、飛び出してきた格好である。

妹の決断が、兄を泣かす。

「私は無事に一番弟子となり、勤務を開始しました。隣町だったから、畑仕事が終わってから、車で30分かけて通いました。」。
青谷は、「とにかく、私は負けず嫌い」だと言う。
「朝暗いうちから畑仕事を始めて、蕎麦屋が終わって家に帰って寝るのはたいてい12時を回っていました。睡眠時間は3~4時間。こんな生活をしていると、たいてい、からだが壊れます(笑)」。
青谷も倒れたある日、目を開けた時、2年前に送り出したはずの妹が荷物をまとめて立っていた。
「あれは妹が高校2年の秋でしたね。昔から優秀な子で、当時の先生たちも協力してくださって高校に進学させることができたんです」。
「『先生になりなさい』って私は送り出しました。離れた町に住んでいましたが、弟か姉かに私のことを聞いたんでしょうね。突然、戻ってきて『私が、農家をやる。私が農家をやるから、兄ちゃんは今のお蕎麦屋さんの仕事をちゃんとして』って言うんです。そうして『1日も早く独立して。そうしないと、家庭が壊れちゃうよ』って」。
号泣した。辛くて、悔しかった。妹の夢を奪ってしまった、と知ったから。「男、泣きに、泣いた」と青谷はこの時のことを語っている。

・・・・続き

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2014年10月20日月曜日

坂東太郎の青谷社長様から教えて頂きました。

努努 ユメユメ

なんと夢(ゆめ)は、上記の努力の努を重ねるとゆめゆめとなる様です。

つまり、夢を叶えるためには、努力を重ねることと坂東太郎の創業者の青谷社長にお教え頂きました。

月1回の全店店長朝礼(100mにも及びます)
筑波店内にあるキッズの調理教室スペース
女将の育成、さらに次期女将候補の花子研修も・・。
取引業者を大事にされています。
(2014年2月13日 カンブリア宮殿より)

大型台風が14日早朝に関東上陸ということで一旦アポイントを変更してもらったのですが、朝一すっかり台風一過でよくなり、社長取材に行かせてもらいました。
青谷社長も予定キャンセルされてたこともありなんと6時間もお話を聴かせて頂きました。
ご苦労されて、ここまでやって来られただけあり、本当に素晴らしく先を見ておられる社長です。
6時間もお話頂けたことに感謝申し上げます。