2019年9月25日水曜日

株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏登場。
本文より~

大人たちが笑顔の花を咲かせる、スタンド・バー。

自由人というイメージにちかい。競馬も、競輪も、たしなんだ。料理もうまい。今回、ご登場いただいた松村氏の父親の話である。
「そうですね。自由人にちかいですね。好きなことをしている人でしたから」。
父親は、松村氏らが暮らす住まいの階下でスタンド・バーを経営していた。「ちっちゃな、スナックのようなバーだったんですが、毎日、いろんな人がいらして。親父も、お客さんもそりゃ、楽しそうでした」。
大人のたまり場みたいなものだった、と松村。
「父親が楽しそうで、いま思えば、あの父親の姿が、私の原点ですね」。
子どもながら、手伝った記憶もある。シェーカーで植木に水をやっていた、と笑う。
「住まいも、店もボロボロで、ぜんぜん裕福ではなかったですが、食べ物だけはいいものを食べていましたね。たぶん、儲けはわずかだったんでしょうね。高校に進学する頃になると、そういうのもだんだんわかってくるじゃないですか。だから、最初は、進学するつもりもなかったんです。ただ、たまたま中学の時にやっていたバスケットボールのおかげで、特待生で獲っていただける学校があって」。
それで、進学。
「そうです。学費も、入学金もいらない、というお話だったので。ただ、高校2年の頃に、今度はだんだんバスケットボールにさめてしまいます。バスケットボールで食べていける、そこまでの自信もなかったですし、だんだんと将来が不安になってくるんです」。
バスケットボールばかりやっていて大丈夫だろうか? そう思うと、ちからがはいらなくなったそう。
「じつは、ひざの半月板を損傷しちゃうんですが、それも、けっきょくそのまま。治療代がなかったし、そうまでしてやらなくてもいいかって」。
父親は、お金にしばられるような人ではなかったが、子どもたちはそうはいかない。「とにかく、仕事をする、それが、いちばんでした。だから、大学への進学は頭になかったですね。その時、就職したのはアパレルと飲食をやっているハイブリットな企業です」。
アパレルに興味があったから、と松村氏。こういうと、怒られてしまうかもしれないが、ごくありふれた志望動機だった。

東京へ、イギリスへ。青年の旅がはじまる。

「私は父親を尊敬していますが、私自身はサラリーマンになろうと思っていました。反動といえば、反動ですね。それで、就職も、アパレルの会社に就職したんですが…」。
サラリーマンはたいくつでしたか?
「正直、楽しくなかったです/笑。一度、飲食部門にヘルプに行くんですが、じつは、それが楽しくて。オレってやっぱり飲食が性に合っているんだ、と/笑」。
父親のDNA?
「そうですね。私のなかにいる父親を感じました。やっぱり、DNAには敵いません/笑。父親とおなじバーテンダーをはじめたのは20歳の時です。もう、DNAが開花したっていうか、楽しかったです。とくに、地元ですから。ただ、『これじゃ、いけない』って思うようにもなるんです」。
知り合いがいないところでないと、バーテンダーのちからを図れない。たしかに、そうかもしれない。ただ、「だから、東京へ」というのは、距離が離れすぎているように思った。しかし、まだ、東京はちかいほうだった。
「23歳の時に上京します。ただ、バーではなく、お酒を知ろうと思って酒販店で勤務します。そのかたわら、いろんなバーを観て歩きました」。
そして、なんと、イギリスのパブを観たくなって、イギリスにも渡っている。
「アイリッシュパブのようなバーをやりたいと思うようになりました。これが、イギリスに向かった理由です」。
ロンドンは2泊だったが、スコットランドやアイルランドの田舎町を回ると、とたんに楽しくなり、いくつかのパブで飲むうちに、おぼろげだった構想が、明確なかたちとなる。
けっきょく、この時は3ヵ月滞在。
この旅は人生においても、いちばんの財産になった。しかし、やりたいことが明確になっても、すぐにできるわけもない。
インターバル。松村氏は、いったん福岡にもどる。

16社目でもらった初の、合格。

「お酒では、それなりのプロにもっていましたが、料理はできません。そういうこともあって、ちょっと最初にもどろうと」。地元にもどった松村氏は、飲食店を経営する小さな会社に就職した。
「就職したのが、有限会社ディー・ディー・カンパニーという会社で、これが小野 孝社長との出会いです」。
「じつは、それまでに15社落ちた」と松村氏は笑う。いまもその理由がわからない。
「こういっちゃなんですが、大手チェーンも受けました。あの時は、え、この人たち、困っているんじゃないの? って。ええ、相当、落ち込みました。16社目が、ディー・ディー・カンパニーで、面接官が小野社長だったんです」。
「いきなり、怒られた」と松村氏。だが、話すうちに、たがいに引き込まれた。「いま私があるのは、あの面接の、数十分のおかげですね」。
人生には不思議な出会いがある。
15社に「いらない」と言われた。唖然とするしかなかった。どうして? 当時はそう思ったが、今なら、ノーと言ってくれたことに感謝したいくらいである。
ちなみに、小野氏はいま飲食店を11店舗経営されている。
「小野社長と出会ったのは、なかなか就職が決まらなかった時ですから、25歳の時ですね。ほんとに、いろんな経験をさせていただきました。まだ、社員も1人か、2人くらいの時ですからね。店も最初は1店舗だけです。でも、ぜんぜん、それじゃ終わらない人だったんです」。
松村氏は、小野氏の下、文字通り奔走する。
「一つとして、おなじ店がないんです。鮨でしょ。和ダイニング、洋食、ラーメン…。私は、いつしかナンバー2という立ち位置で仕事をさせていただくようになりました」。
11年間、小野氏の下で、薫陶をうける。
「独立という思いはつねにあったんですが、具体的な計画に移すことはしませんでした」。
そりゃそうだろう。ナンバー2として、ONOグループを動かす。起業とある意味かわらない。そんな松村氏に転機をうながす事態が起こる。

1号店、オープン。

「2011年に父親が他界します。そして、震災です。改めて、人生について考えさせられました。やりたいことをやらない、と。そう思って、36歳の時に、独立して小さな酒場をはじめます」。
小野氏も、背中を押してくれたそうだ。
「私が抜ければ、たいへんになるのはわかっていましたから、ある程度、準備期間を設けて独立と思っていたんですが、小野社長は『そういうのは、思い立った時がいいんだ』と。ありがたいですよね」。
背中を押してくれただけではないだろう。どんな社長になればいいか。小野氏は、間違いなくお手本を示されている。
独立してどうでしたか?
「おかげさまで、最初から悪くなかったんですね。ただ、オープニングの時だけって約束で手伝ってくれていた友人2人がいなくなった時はどうしようかって、割と真剣に悩みました。料理は、ポテトチップだけにするかって。そういうわけにもいきませんしね/笑」。
ただ、この時の不安は、「1人じゃできない」という発想になって、プラス方向にはたらいたのではないか。ひょっとすれば、この思いがいまをかたちづくっているようにも思うからだ。
「1人じゃできない。でも、だれかといっしょならできる」。
このあと松村氏は、次々と出店を重ねていく。2013年には法人化も実現した。2019年、現在、福岡では、絶対的な人気を博している。
「COMATSU kitchen & bar」「Comatsu imaizumi」「cave de comatsu Imaizumi」「Comatsu Premier」「リバーサイド コマツ」「ニューコマツ」「地下のニューコマツ」「欧風酒場食堂 パーラーコマツ」「China Stand 二兎(ニト)」。
じつは、ここまでが、福岡の店。そして、2019年7月段階で残す1店が、都内に出店した「コマツ神田西口商店街」である。
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2019年9月24日火曜日

セガフレード・ザネッティジャパン株式会社 代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にセガフレード・ザネッティジャパン株式会社代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場。
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祖父は、高等小学校出の木こり。稼ぐためオーストラリアへ

和歌山県東牟婁郡古座川町。はるか太平洋を望む位置にはあるが、古座川町は山間部の、人口2700人の過疎の町だ。父は高校教師。祖父は山仕事を生業としていた。人生でもっとも影響を受けた人は?と質問すると、森氏はすぐさまこの祖父を挙げた。
「祖父は木こりでした。当時、給与は11銭だったそうです。ところが、オーストラリアの北岸にあるアラフラ海で真珠を採る仕事の話があって、こちらは給与が12銭。それを聞いて遥かオーストラリアへ。当時は、祖父同様、仕事をもとめ海外へ行く人が多かったそうですが、良く言えば旺盛なるバイタリティ、或いは当時はそれほど生活が苦しかったとう事でしょう。明治が終わった翌年、つまり1913年の話です。その次の年に第一次世界大戦がはじまります」。
幼少の頃の森氏は祖父っ子で、毎晩、祖父といっしょに風呂に入って、当時の話を聞かされた。祖父が語るオーストラリアの木曜島での体験談を、目をランランとさせながら聞いていた森氏の姿が浮かび上がる。この森氏が尊敬する祖父は、99歳まで生きておられたそうだ。「炭焼き、丸太切り、大八車引き、饅頭屋、家族を食べさせるために何でもやったんです」と森氏は笑った。

大学教授になる夢が挫折。

高校生の頃には、なんとなく大学教授をめざすようになっていた。「田舎者ですから、親父が高校教師なので、大学教授になろうと、ただ単純にそう思いました」。神戸大学で英語学を専攻。これも将来、教授になるための選択だった。
学部の4年間が終わると奨学金をもらい、アメリカのオレゴン大学大学院に進んだが挫折。25歳でしぶしぶ社会に出る。ところが、自分がビジネスに向いていることに気付いたのもこの頃。
「向こうでは、29歳までシティ・バンクで勤めていました。最初の離婚で日本に帰ることになり、そのタイミングで退社し、パソナに転職しました。シティ・バンクで勤めていた時に南部さんにお会いしていて、それが縁でお世話になったんです」。
森氏が南部さんというのは、いうまでもなく現パソナグループの代表 南部靖之氏のことである。
「ただ、こちらも31歳までの2年間だけでした。ただ、もっと在籍していた気がします。ホントに濃厚な2年間でしたね」。
南部氏の下での2年。すべてが新鮮で、学ぶことが多かった半面、人生簡単じゃないなと悩んでもいた。

人生は成り行き。7回の転職を経験。


思い切って、パソナから転職した森氏は「1年はファイナンス、もう1年はマーケティング」と次に転職したディズニーストア時代を語る。そして、3年目は競合のタイムワーナーへ転職。このワーナーの在籍期間も5年とけっして長くはないが、この時がいちばん大事なキャリアを積んだ時期だったという。ワーナーブラザーズスタジオストアをフランチャイザーとして管理する日本の責任者。実質、トップの仕事が任され、「精神的にもタフになった」という。
まだまだ転職はつづく。次には、セールストレーニングを展開する英国企業に入り、こちらでも実質、トップの仕事を任される。外資の車のインポーターが顧客だったとのこと。
「ディーラーセールスやプロダクツ、マネジメントなどのトレーニングを行う会社でした。イギリスにモデルがある事業なのですが、目に観えないものを商品化して販売するわけですから、ある意味、想像力や発想力も鍛えられました」。
こうしてみると、転職を通して、その度に新たなキャリアに挑戦しスキルアップを図っていることがわかる。インタビューの冒頭、私の話は良い意味でも悪い意味でも転職のいいケーススタディになるかもといったが、その言葉にも頷ける。
結局、森氏の転職回数は7回におよび、そのうち、3社で代表取締役社長を務めている。
そして、現在が、2011年に就任したセガフレード・ザネッティジャパン株式会社の社長というわけだ。「結局、人生は成り行き。いろいろ考えてもしょうがない。」と森氏は述べた。
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2019年9月20日金曜日

株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場。
本文より~

はじまりは、「甘党ゆかり」。

大阪には、いくつものお好み焼の店がある。老舗もあれば、モダンな造りの店もある。「ゆかり」が創業したのは昭和25年だから、むろん老舗である。もっとも山下氏に言わせれば少し様子が異なる。
「じつは、うちは最初、<甘党ゆかり>としてスタートしてるんです。その後、昭和40年に<パーラーゆかり>をオープンし、昭和44年に洋食業態<グリルらん>をオープン。いまのお好み焼専門店としてスタートしたのは昭和47年。ですから、ほかの有名なお好み焼店と比較するとずいぶん後発なんです」。
なるほど。
たしかに、創業は古いがお好み焼店としてスタートしたのは、1972年のこと。それだけに限れば、マクドナルドやケンタッキーより新しい。「そうですね。だから、たいへんだったと思います」。お好み焼店へのリニューアルを進めたのは、先代の社長。むろん、山下氏の父親だ。

原価率40%のお好み焼。

「いまでも、そうなんですが…」と言って、山下氏は、当時のことを話だす。
「当時といっても、私はまだ生まれていませんから聞いた話です。後発だから、『とにかく差別化しないといけない』ということで、食材にお金をつぎ込みます。いまもそうなんですが、たまごも高級鶏卵「ヨード卵」を使用し、小麦粉も特等粉で、きめ細かくケーキにも使用できるグレードです。むろん、ほかの食材もおなじ。だから、原価率は40%にもなっています。『粉もんは、儲かる』っていいますが、あれは、うちには当てはまらない話です/笑」。
もともと、パーラーやグリルだったから、コック出身のスタッフもいた。「だから、うちだけのメニューもつくることができました。たとえば、『塩焼そば』や『オムそば』は、うちが先駆けなんです」。
旨いからファンはついたが、利益はなかなか上がらない。
「それでも、私の父親が3代目となってから、3店舗から13店舗まで拡大します」。
とにかく関西人はお好み焼が大好きだ。
梅田の、たとえば東通りとお初天神に向かう道が交差した点に立てば、半径300メートルくらいに数店舗のお好み焼の店がある。
「ゆかり」だけで、4店舗。
東通りを東に進めば、左手に1つ。地下に入り、ホワイティを進めばそこに、もう1つ。お初に向かおうとすれば、右手にすぐあり、横断歩道を渡り、お初天神に向かいまっすぐ進めば、さらにあと1つ、といった具合だ。むろん、これだけあるにもかかわらず、行列ができる日もある。
すごいもんだ。原価率40%と大声でうたわなくとも、人は、それを見抜いているのだろう。ただし、老舗の「ゆかり」の社長が、まだ35歳とは、さすがに関西人でも想像できないだろう。

4代目候補が、栄養失調?

4代目となる山下氏が生まれたのは、1983年。高校の頃から音楽にハマる。
「高校1年の時の文化祭ですね。生演奏を聴いて、こりゃすごいや、と。それから音楽にハマり、勉強どころじゃなくなったから、入学当時は学年7位だったのが、卒業時は後ろから3番目と、勉強は散々でした/笑」。
ライブハウス、スタジオ…、異空間と音楽が、山下少年のこころを離さない。
「それで大学にも進学せず、音楽関係の仕事を始めます。ライブハウスだったり、スタジオだったり、レーベルの仕事をしたこともあります。給料は…、あれが雀の涙って奴なんでしょうね」。スーパーに行って、やすくなった麺を買い、すする日々。
「それでも音楽からは、離れられなかったですね」と苦笑いをする。「じつは、音楽を辞めたのは、ドクターストップがかかったからなんです。栄養失調です/笑。なんにも食べてないですからね」。
ストイックなところがある?
「そうですね。わりと没頭してしまうことはありますね。食いもんやの息子が栄養失調って、笑い話もなりませんが、そのおかげで、食べることの難しさや、たいへんさをからだで知りました。2代目、3代目の社長さんで、こういう経験しているのは、私くらいじゃないですかね?」。
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2019年9月19日木曜日

株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場。
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結婚相手は、焼肉店の令嬢だった。

「親父が香港に転勤になったもんですから、中学3年間は香港です」と木原氏。
小学校までは津田沼だそう。
「高校から日本にもどって、千葉英和高校に進みます」。中学までは野球部で、高校時代はいわゆる帰宅部。「大学に進学するつもりはなかったですね。業種とかは決めていなかったんですが、とにかく社長になりたいと思っていました。ただ、まさか飲食で社長になるとは/笑」。
「じつは、この業界に入ったのは離婚した前妻がきっかけなんです。彼女の父親が焼肉店を経営していたもんですから。そうです。20歳で結婚し、21歳で2代目候補に就任です」。

7年目の決断。

7年間は向こうの親父さんとずっといっしょ。ずっと仕事の話ですね。思えば、その7年間があるからいまがあるんです。感謝しかないですよね」。
「かなりフリーハンドに仕事もさせてもらっていました。
しかも、まだ若い。意欲もある。
「7年つづけるわけですが、店舗拡大したい気持ちが強くなり、独立をします」。

開業…、だが。

「そうですね。仕事もないし、できることもない。ただ、独立しようと思っても、金がない。ただ、あの時は、独立しか頭になかったもんですから、母に頼み込んで、なんとかお金を用意することができました。会社を設立したのが、2010年。<「将泰庵」船橋本店>をオープンしたのが、2011年の6月のことです」。
「出店コストは、ぜんぶで1500万円くらいですね。初月ですか? だいたい300万円くらいでした。ぜんぜんよくないですね。それが1年間くらいつづきます」。
「月商が400万円あれば」と思っていた。100万円の差はでかい。
18坪、26席。11時~23時まで。アルバイト代がもったいなくて1人でキッチンも、ホールもした。客が少ないから、できたことだから、じつはシャレにもならない。
「1日も休みません。というか、休めない。いつまでつづくんだろ。そういうのは、頭のどこかにはあったと思います」。

選択肢は、「やる」、だけ。

「思っていたようにはいきませんが、むろん、『やるしかない』というか、『やらない』という選択肢はありませんでした。だからでしょうね。何ヵ月経ってもモチベーションは高かったですね。だいたい10ヵ月、経った頃からでしょうか。だんだんと観たことがあるお客様がいらっしゃるようになって。そりゃ、全力投球です」。
「いらっしゃいませ」。声のトーンもいちオクターブ上がる。
「2号店をオープンしたのは、2013年5月。本店をオープンして2年経った頃ですね。今の<「肉バルSHOUTAIAN」渋谷店>です。こちらも最初は苦戦します。とくに最初はアッパーな価格でしたから、ぜんぜんでした/笑」。
「浮上のきっかけはTVですね。あと肉フェスに参加したりして。最初のきっかけがないと。焼肉ですからね。おかげ様で、いまでは船橋本店で月商1300万円をキープしています」。
なんと、当初の4倍強だ。
TVはつよい。しかし、TVにでても、リピーターはつくれない。「そうです。スタッフもみんながいっしょになって頑張ってくれたおかげですね。1号店をオープンした時は、私1人で、キッチンも、ホールもやっていた時もあるくらいですからね。とにかく、感謝です」。

飲む? ハンバーグを?


木原氏が、メディアでも話題をさらったのは、「飲むカレー」じゃなく「飲めるハンバーグ」専門店をオープンしてからだろう。ネーミングが斬新だ。いくらやわらかいと言っても、飲むのをイメージできるのは「カレー」くらいまでだろう。 「あらびきハンバーグってあるでしょ。あれの逆をやってみようという発想です」。
これがヒットする。
2017年11月に「飲めるハンバーグ専門店」高田馬場店がオープン。マスコミも、黙っちゃいない。ハンバーグが飲める? 好奇心旺盛な消費者も、ほうっておくはずがない。
「話題狙いのオーバーな表現かも?」と思いつつ、ひとくち食べた人は、アレ?いま、食べたんじゃなく、飲んだ?と思うはずだ。じつは、それほどやわらかい。だから、ナイフやフォークじゃなく、スプーンでいただく。
「もともとは、お肉を余すことなく利用したいという思いで開発をはじめました。ええ、このハンバーグもA5ランクの国産黒毛和牛100%です」。
・・・続き
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2019年9月12日木曜日

新たな業務の柱を立てるために・・・。

新たな業務の柱を立てるため新規事情の構築でいろいろ動いております。
次世代を担ってくれる平均年齢28歳の営業メンバーたちにうまくバトン繋がれたら…。
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