2019年9月24日火曜日

セガフレード・ザネッティジャパン株式会社 代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”セガフレード・ザネッティジャパン株式会社代表取締役社長 アジア地域統括責任者 森 聡郎氏登場
本文より~

祖父は、高等小学校出の木こり。稼ぐためオーストラリアへ

和歌山県東牟婁郡古座川町。はるか太平洋を望む位置にはあるが、古座川町は山間部の、人口2700人の過疎の町だ。父は高校教師。祖父は山仕事を生業としていた。人生でもっとも影響を受けた人は?と質問すると、森氏はすぐさまこの祖父を挙げた。
「祖父は木こりでした。当時、給与は11銭だったそうです。ところが、オーストラリアの北岸にあるアラフラ海で真珠を採る仕事の話があって、こちらは給与が12銭。それを聞いて遥かオーストラリアへ。当時は、祖父同様、仕事をもとめ海外へ行く人が多かったそうですが、良く言えば旺盛なるバイタリティ、或いは当時はそれほど生活が苦しかったとう事でしょう。明治が終わった翌年、つまり1913年の話です。その次の年に第一次世界大戦がはじまります」。
幼少の頃の森氏は祖父っ子で、毎晩、祖父といっしょに風呂に入って、当時の話を聞かされた。祖父が語るオーストラリアの木曜島での体験談を、目をランランとさせながら聞いていた森氏の姿が浮かび上がる。この森氏が尊敬する祖父は、99歳まで生きておられたそうだ。「炭焼き、丸太切り、大八車引き、饅頭屋、家族を食べさせるために何でもやったんです」と森氏は笑った。

大学教授になる夢が挫折。

高校生の頃には、なんとなく大学教授をめざすようになっていた。「田舎者ですから、親父が高校教師なので、大学教授になろうと、ただ単純にそう思いました」。神戸大学で英語学を専攻。これも将来、教授になるための選択だった。
学部の4年間が終わると奨学金をもらい、アメリカのオレゴン大学大学院に進んだが挫折。25歳でしぶしぶ社会に出る。ところが、自分がビジネスに向いていることに気付いたのもこの頃。
「向こうでは、29歳までシティ・バンクで勤めていました。最初の離婚で日本に帰ることになり、そのタイミングで退社し、パソナに転職しました。シティ・バンクで勤めていた時に南部さんにお会いしていて、それが縁でお世話になったんです」。
森氏が南部さんというのは、いうまでもなく現パソナグループの代表 南部靖之氏のことである。
「ただ、こちらも31歳までの2年間だけでした。ただ、もっと在籍していた気がします。ホントに濃厚な2年間でしたね」。
南部氏の下での2年。すべてが新鮮で、学ぶことが多かった半面、人生簡単じゃないなと悩んでもいた。

人生は成り行き。7回の転職を経験。


思い切って、パソナから転職した森氏は「1年はファイナンス、もう1年はマーケティング」と次に転職したディズニーストア時代を語る。そして、3年目は競合のタイムワーナーへ転職。このワーナーの在籍期間も5年とけっして長くはないが、この時がいちばん大事なキャリアを積んだ時期だったという。ワーナーブラザーズスタジオストアをフランチャイザーとして管理する日本の責任者。実質、トップの仕事が任され、「精神的にもタフになった」という。
まだまだ転職はつづく。次には、セールストレーニングを展開する英国企業に入り、こちらでも実質、トップの仕事を任される。外資の車のインポーターが顧客だったとのこと。
「ディーラーセールスやプロダクツ、マネジメントなどのトレーニングを行う会社でした。イギリスにモデルがある事業なのですが、目に観えないものを商品化して販売するわけですから、ある意味、想像力や発想力も鍛えられました」。
こうしてみると、転職を通して、その度に新たなキャリアに挑戦しスキルアップを図っていることがわかる。インタビューの冒頭、私の話は良い意味でも悪い意味でも転職のいいケーススタディになるかもといったが、その言葉にも頷ける。
結局、森氏の転職回数は7回におよび、そのうち、3社で代表取締役社長を務めている。
そして、現在が、2011年に就任したセガフレード・ザネッティジャパン株式会社の社長というわけだ。「結局、人生は成り行き。いろいろ考えてもしょうがない。」と森氏は述べた。
・・・続き

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