2019年9月20日金曜日

株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場
本文より~

はじまりは、「甘党ゆかり」。

大阪には、いくつものお好み焼の店がある。老舗もあれば、モダンな造りの店もある。「ゆかり」が創業したのは昭和25年だから、むろん老舗である。もっとも山下氏に言わせれば少し様子が異なる。
「じつは、うちは最初、<甘党ゆかり>としてスタートしてるんです。その後、昭和40年に<パーラーゆかり>をオープンし、昭和44年に洋食業態<グリルらん>をオープン。いまのお好み焼専門店としてスタートしたのは昭和47年。ですから、ほかの有名なお好み焼店と比較するとずいぶん後発なんです」。
なるほど。
たしかに、創業は古いがお好み焼店としてスタートしたのは、1972年のこと。それだけに限れば、マクドナルドやケンタッキーより新しい。「そうですね。だから、たいへんだったと思います」。お好み焼店へのリニューアルを進めたのは、先代の社長。むろん、山下氏の父親だ。

原価率40%のお好み焼。

「いまでも、そうなんですが…」と言って、山下氏は、当時のことを話だす。
「当時といっても、私はまだ生まれていませんから聞いた話です。後発だから、『とにかく差別化しないといけない』ということで、食材にお金をつぎ込みます。いまもそうなんですが、たまごも高級鶏卵「ヨード卵」を使用し、小麦粉も特等粉で、きめ細かくケーキにも使用できるグレードです。むろん、ほかの食材もおなじ。だから、原価率は40%にもなっています。『粉もんは、儲かる』っていいますが、あれは、うちには当てはまらない話です/笑」。
もともと、パーラーやグリルだったから、コック出身のスタッフもいた。「だから、うちだけのメニューもつくることができました。たとえば、『塩焼そば』や『オムそば』は、うちが先駆けなんです」。
旨いからファンはついたが、利益はなかなか上がらない。
「それでも、私の父親が3代目となってから、3店舗から13店舗まで拡大します」。
とにかく関西人はお好み焼が大好きだ。
梅田の、たとえば東通りとお初天神に向かう道が交差した点に立てば、半径300メートルくらいに数店舗のお好み焼の店がある。
「ゆかり」だけで、4店舗。
東通りを東に進めば、左手に1つ。地下に入り、ホワイティを進めばそこに、もう1つ。お初に向かおうとすれば、右手にすぐあり、横断歩道を渡り、お初天神に向かいまっすぐ進めば、さらにあと1つ、といった具合だ。むろん、これだけあるにもかかわらず、行列ができる日もある。
すごいもんだ。原価率40%と大声でうたわなくとも、人は、それを見抜いているのだろう。ただし、老舗の「ゆかり」の社長が、まだ35歳とは、さすがに関西人でも想像できないだろう。

4代目候補が、栄養失調?

4代目となる山下氏が生まれたのは、1983年。高校の頃から音楽にハマる。
「高校1年の時の文化祭ですね。生演奏を聴いて、こりゃすごいや、と。それから音楽にハマり、勉強どころじゃなくなったから、入学当時は学年7位だったのが、卒業時は後ろから3番目と、勉強は散々でした/笑」。
ライブハウス、スタジオ…、異空間と音楽が、山下少年のこころを離さない。
「それで大学にも進学せず、音楽関係の仕事を始めます。ライブハウスだったり、スタジオだったり、レーベルの仕事をしたこともあります。給料は…、あれが雀の涙って奴なんでしょうね」。スーパーに行って、やすくなった麺を買い、すする日々。
「それでも音楽からは、離れられなかったですね」と苦笑いをする。「じつは、音楽を辞めたのは、ドクターストップがかかったからなんです。栄養失調です/笑。なんにも食べてないですからね」。
ストイックなところがある?
「そうですね。わりと没頭してしまうことはありますね。食いもんやの息子が栄養失調って、笑い話もなりませんが、そのおかげで、食べることの難しさや、たいへんさをからだで知りました。2代目、3代目の社長さんで、こういう経験しているのは、私くらいじゃないですかね?」。
・・・続き
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