2019年9月19日木曜日

株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場
本文より~

結婚相手は、焼肉店の令嬢だった。

「親父が香港に転勤になったもんですから、中学3年間は香港です」と木原氏。
小学校までは津田沼だそう。
「高校から日本にもどって、千葉英和高校に進みます」。中学までは野球部で、高校時代はいわゆる帰宅部。「大学に進学するつもりはなかったですね。業種とかは決めていなかったんですが、とにかく社長になりたいと思っていました。ただ、まさか飲食で社長になるとは/笑」。
「じつは、この業界に入ったのは離婚した前妻がきっかけなんです。彼女の父親が焼肉店を経営していたもんですから。そうです。20歳で結婚し、21歳で2代目候補に就任です」。

7年目の決断。

7年間は向こうの親父さんとずっといっしょ。ずっと仕事の話ですね。思えば、その7年間があるからいまがあるんです。感謝しかないですよね」。
「かなりフリーハンドに仕事もさせてもらっていました。
しかも、まだ若い。意欲もある。
「7年つづけるわけですが、店舗拡大したい気持ちが強くなり、独立をします」。

開業…、だが。

「そうですね。仕事もないし、できることもない。ただ、独立しようと思っても、金がない。ただ、あの時は、独立しか頭になかったもんですから、母に頼み込んで、なんとかお金を用意することができました。会社を設立したのが、2010年。<「将泰庵」船橋本店>をオープンしたのが、2011年の6月のことです」。
「出店コストは、ぜんぶで1500万円くらいですね。初月ですか? だいたい300万円くらいでした。ぜんぜんよくないですね。それが1年間くらいつづきます」。
「月商が400万円あれば」と思っていた。100万円の差はでかい。
18坪、26席。11時~23時まで。アルバイト代がもったいなくて1人でキッチンも、ホールもした。客が少ないから、できたことだから、じつはシャレにもならない。
「1日も休みません。というか、休めない。いつまでつづくんだろ。そういうのは、頭のどこかにはあったと思います」。

選択肢は、「やる」、だけ。

「思っていたようにはいきませんが、むろん、『やるしかない』というか、『やらない』という選択肢はありませんでした。だからでしょうね。何ヵ月経ってもモチベーションは高かったですね。だいたい10ヵ月、経った頃からでしょうか。だんだんと観たことがあるお客様がいらっしゃるようになって。そりゃ、全力投球です」。
「いらっしゃいませ」。声のトーンもいちオクターブ上がる。
「2号店をオープンしたのは、2013年5月。本店をオープンして2年経った頃ですね。今の<「肉バルSHOUTAIAN」渋谷店>です。こちらも最初は苦戦します。とくに最初はアッパーな価格でしたから、ぜんぜんでした/笑」。
「浮上のきっかけはTVですね。あと肉フェスに参加したりして。最初のきっかけがないと。焼肉ですからね。おかげ様で、いまでは船橋本店で月商1300万円をキープしています」。
なんと、当初の4倍強だ。
TVはつよい。しかし、TVにでても、リピーターはつくれない。「そうです。スタッフもみんながいっしょになって頑張ってくれたおかげですね。1号店をオープンした時は、私1人で、キッチンも、ホールもやっていた時もあるくらいですからね。とにかく、感謝です」。

飲む? ハンバーグを?


木原氏が、メディアでも話題をさらったのは、「飲むカレー」じゃなく「飲めるハンバーグ」専門店をオープンしてからだろう。ネーミングが斬新だ。いくらやわらかいと言っても、飲むのをイメージできるのは「カレー」くらいまでだろう。 「あらびきハンバーグってあるでしょ。あれの逆をやってみようという発想です」。
これがヒットする。
2017年11月に「飲めるハンバーグ専門店」高田馬場店がオープン。マスコミも、黙っちゃいない。ハンバーグが飲める? 好奇心旺盛な消費者も、ほうっておくはずがない。
「話題狙いのオーバーな表現かも?」と思いつつ、ひとくち食べた人は、アレ?いま、食べたんじゃなく、飲んだ?と思うはずだ。じつは、それほどやわらかい。だから、ナイフやフォークじゃなく、スプーンでいただく。
「もともとは、お肉を余すことなく利用したいという思いで開発をはじめました。ええ、このハンバーグもA5ランクの国産黒毛和牛100%です」。
・・・続き
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