“飲食の戦士たち”で株式会社食べる 代表取締役 木下準也氏を取り上げました。
刀と、木下さん。
ホームページを開くと、真剣で竹を切る木下さんの写真が現れた。木下さんが武道に出会ったのは、独立したのちのこと。
今ではどこに行くにも真剣をもっていく。エネルギーを生むツールである。
刀を手に「これは幕末期、会津で使われた日本刀です。刀には日本の精神性が詰まっています」と説明してくれる。
武道の達人ではない。日本古来の武道によって気の流れをコントロールして、人がもつエネルギーを経営に活かす経営の達人である。
「今では武道を経営に活かすコンサルタントをしていますが、じつは40歳を過ぎるまで、そういった精神世界とは無縁だったんです」と表情を緩める。
「みなさんそうだと思いますが、どれだけ働いたか、それが結果を生むと信じていたんです」。
バスケットボールと、バイクとバイト。
木下さんは1981年、練馬区に生まれる。
中学校で入部したバスケットボール部は練馬区で最強だった。
「いちばん練習していたんですが、いちばん休んでいました」と笑う。
「休まず練習するもんですから、何度もケガをして、その結果休みが多かったんです」。
「当時は、そうは思っていませんでしたが、休まないといけないケガの多くは、きつい練習から逃げたいという心の表れだったんです」。
わからなくもない。
高校は自由な校風の「都立井草高校」に進学する。
「高校ではバスケットボールはしませんでした。お恥ずかしい話ですが、耳にでっかい穴を開け、ピアスをして、ヴォオンヴォオンと音がするバイクで街を駆けていました」。
「ご近所さんに迷惑だから、家の近くではエンジンを切れ」と言われていたそうだ。
高校時代を一言でいうと?と質問すると、「バイクとバイト」との回答。「ピザや蕎麦の配達、引越しなど、時給が高いバイトを狙って片っ端からやってました」。
バイト代はバイクと服に消えていった。
「将来の道は決めていませんでしたが、ファッションが好きだったんで、アパレルで独立したいと漠然と思っていた気がします」。
高校を卒業した木下さんは憧れのファッション業界に進むべく、「文化服装学院」のビジネス科へと進学する。
日本刀とファッション。離れているようで、どこか共通項があるような気がする。しかし、日本刀を手にするのは、まだまだ先の話。
ファッションからインターネットへ。時代がまわる。
「専門学校を卒業して、大手婦人服ブランドに就職します。配属は二子玉川の高島屋さんです。私が入社した頃は、もう全盛期が過ぎていたこともあるんでしょうね。3年くらい経ったときかな。10歳上のマネージャーの冴えない表情をみて、退職を決意しました」。
「マネージャーのようになりたくない」ではなく「なってしまう」と危機を感じたからだそうだ。
「それで、ちょうどインターネットの黎明期ってこともあって、パソコンスキルを独学で高めてインターネットの広告会社に転職します」。
上場会社2社を渡り歩く。
「どちらでも、がむしゃらに働きました。おかげで、給料も、前職とは比べ物にならないほどアップしました。でも、また人をみて思うんです。役員たちは、上場したことで大金を手にしたはずなんですが、まったく幸せそうに見えなかったんです」。
なぜだろう?と、ふたたび悩む。
「一度は、10年経っても今と変わらないと悩み、もう一度は、お金があれば幸福だと信じていたんですが、それも実は違うんじゃないかって悩みます」。
「幸福は、お金じゃない。じゃぁ、なんだ? 一つは好きなことをするだったんです」。
―――それが飲食だったんですか?
「そう」。木下さんは遠くをみる。
「就職したのはスペインバルです。それが飲食のはじまり。先に、そのバルで働いていた知人に誘われて」。
「将来、一緒に独立する」というプランもあったそうだ。志は高かったが、給料は前職の1/3に下がった。
「最初は違うブランドで、業績も下降気味だったんです。だから、そのうちの一つをオーナーチェンジしてもらおうと、そういうプランでした。でも、スペインバルにブランド変更すると、突然、大ヒットして。すぐにFCを含め10店舗まで拡大します」。
「飲食のパワーに驚きました。ただ、独立のプランはなくなった。飲食に惹かれていったので、それは、それで悪くはなかったんですが、結局誰かに使われているだけで、仕事で人生が流されていく気がしないでもなかったんです」。
オフィス街に現れたランチ難民を救うリヤカー。
「その頃です。小学校からの友人が、不幸にも亡くなってしまって。『飲みに行こう』って言ってたやさきです。電話があったんですが、そのときは、忙しくて『またな、』っていっちゃったんです」。
ぽっかりと穴が開いた。
「仕事に流される人生でいいんだろうかって。そのことがあって、真剣に仕事と人生に向き合いました」と木下さん。
「サラリーマンじゃだめ。だれかに寄っかかって生きるんじゃなくて、自分の意志と才能で生きるべきなんだって。それが、社会から解放される方法なんだって。それが私の答えでした。そして、独立を決意するんです」。
これが、2018年のこと。キッチンカーに着想を得て、リヤカーをひく。
―――キッチンカーじゃなく、リヤカーだったんですよね?
「そうです。ランチ難民を救うリヤカーです。サラリーマン時代、ランチといったらコンビニ弁当でした。添加物や保存料が入っていると知っていてもほかに選択肢はありません」。
「添加物や保存料は、けっして良くないんです。その日の朝につくったお弁当がいちばん。だったら、それを食べてもらうことからスタートしようと、移動式のお弁当ショップを始めたんです」。
「やるといっても資金は潤沢にありません。広告も打てないです。オープン、つまり、初日ですね。リヤカーに弁当を積んで港区のオフィス街の路上へと繰り出しました。結果は、お弁当、8個です(笑)」。
警察に追い払われたことも少なくなかったが、8個は、20個、100個となって、スタッフも採用するに至って、複数のエリアに、木下ブランドのリヤカーが現れるようになった。
「ようやく認知されたと思ったときに、オフィス街に人がいなくなったんです」。
コロナだ。
「きつかった。オフィス街に人がいなくなれば、当然、売れないし、ロスもでます。朝から弁当をつくり続けて、夜に破棄する日々が続きました」。
自由を求めて独立したはずが、どこにも自由がなかった。身を削って働いたぶんを、その日に捨てた。
「もう、地獄のようだった」と、木下さんが表現するのも頷ける。
「そのときに、まぁ、今から4年前ですから2022年ですね。武道の力という日本古来の叡智を使ってコンサルティングする人を紹介してもらってたんです。これが絶対的なターニングポイントでした」。木下さんは力を込める。
・・・続き
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