2013年8月22日木曜日

『新たなる都市伝説』、“刀削麺 唐家” !!


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in-職hyper 飲食業経験者版の求人冊子、本日届きました!!

昨年に続き、今年も24日(土)東京都の調理師試験会場2ヶ所で求人冊子を配布します。
許可承諾も取り、求人冊子も本日届きました。
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昨日21日、東京MXテレビに尾前オーナーシェフのお店“プレート”(西麻布)が出ました。

東京MXテレビの“アンナの美Viスタッ”に出ました。
(尾前武オーナーシェフ)
【オーナーシェフ 尾前武】
「レストランタブローズ」総料理長、「レストラン森本XEX」料理長などを歴任。
2008年からは「レストラン尾前XEX」総料理長を務められました。
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2013年8月20日火曜日

株式会社IKD 代表取締役 笹間 章氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社IKD 代表取締役 笹間 章氏登場。
本文より~

1951年、生まれ。

1951年10月16日、笹間は、港区の六本木に生まれる。2人兄弟の長男。母方の祖父は九州から東京にでてタイプライターの輸入、販売で財を成した敏腕経営者。父もまた祖父同様、タイプライターの輸入・販売で独立したが、ワープロの普及とともに経営が悪化する。
記憶では笹間が小学2、3年生になったあたりから、きびしい経営状況が子どもたちにもわかるようになったとのことである。
それ以前、つまり笹間がまだ幼い頃は、会社もまだ好調で「六本木の高級レストラン」や「有名なホテルのレストラン」にしばしば通っていたそうだ。
一方、「小学生の頃はコマ劇前の広場が遊び場だった」と笹間がいうように、いまと違って当時は新宿もまた子どもたちの喧騒が聞こえる街だったようだ。

両親の離婚。育てられた偏見のない視点。

「父の事業が傾き始めたのは、私が小学2、3年生の頃。かなりの借金を抱え、家族4人で夜逃げ同然で町を離れたこともあります。親たちは暗澹たる気持ちだったんでしょうが、私たち兄弟はまだ子どもだったんで『貧乏だろうとそれはそれで別に構わない』という心境でした」。
家族4人の生活は、そう長くつづかなかった。笹間が中学生になったとき、両親が離婚したからだ。兄弟2人は、父の下に引き取られた。
多感なときの両親の離婚だったが、笹間はけっして非行には走らなかった。母を恨むこともない。「もう少し大きくなってからは、母とも、母の再婚相手とも自然と付き合っていました。いま振り返れば、人を色眼鏡でみることなく、また偏見を持つこともなく、どのような人ともフランクに付き合えるような性格になったのは、あの頃の経験があったからだと思います」と笹間は語っている。
「偏見を持たない」。これは経営をするうえでも大事な視点である。ちなみに辞書によれば「偏見」とは、<かたよった見方・考え方。非好意的な先入観や判断>のことを言うらしい。

ホテル業、志望。

「ホテル業」に興味を持ったのはいつ頃からだろうか。高校時代には「大学生だ」と嘘をついて、いろんなホテルでバイトをさせてもらった。高校卒業後は「ホテル部門」がある観光専門学校に進学。卒業後は「はとバス」直営のキャピタルホテルに就職した。
ところで、笹間が就職した1970年は、大阪府吹田市で万国博覧会が開催された年である。翌年には「マクドナルド」や「ケンタッキー」の1号店がオープンする。またチェーンストア理論をひっさげ、多くの「ファミリーレストラン」が誕生するのも、この頃である。
食文化という一点でみれば、日本の大衆のなかで洋風化が進み始めたのが、1970年代であり、その突端の年に、笹間は社会に出たことになる。
ホテル業に興味を持ち、ペンションで起業しようとも考えていた笹間であったが、あることがきっかけで、「飲食」で独立しようと心を定めることになる。これが21歳のとき。社会に出てわずか1年で「キャピタルホテル」を退職し、「飲食の戦士」の一歩を踏み出すことになった。・・・・続き
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株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。
本文より~

ピカソに魅せられた少年。

絵を描くのが好きだった。小学3年生の時、県のコンクールに入選した。美術教室に飾ってあったピカソの絵に触発され「画家という職業」を意識しはじめたのは、中学生の時。高校1年で、「芸大」に進むことを決意。夏休みには東京の親戚宅で寝泊まりし、芸大・美大受験予備校の夏期講習に通い詰めた。めざすは最難関の「国立東京芸術大学」。父は四男坊のために金を工面し応援した。だが、「東京芸大」のなかでも堀口が受験した油絵学科の競争率は約50倍。ライバルは、全員、才能にあふれた画家の卵たちである。
高校時代の3年間は夏休みのたびに東京に向かい、予備校に通った。それでも願いかなわず、1年目は失敗。もう一度、と再チャレンジするものの、芸術系大学では唯一の国立で、日本最高峰の芸術系大学である。予備校時代にはコンクールで上位を何度も獲得した堀口にとってもハードルは高かった。挫折。そこから堀口の新たな人生がスタートする。

堀口家の話。

堀口は1955年、佐賀市で鉄工所を営む父の下に4男坊として生まれた。「男5人兄弟の4番目です。全員、3歳ずつ離れていたものですから、入れ替わり立ち替わり中学に進んでいくわけです。兄が卒業し、弟が入る。そういう感じでしたから、先生も3年ごとにお前が堀口の弟かと(笑)」。しかし、4番目の堀口は、3番目までの堀口と少し違っていた。たしかに兄たち同様、テニス部に入りキャプテンも務めるのだが、その一方で4番目の堀口には、あふれんばかりの「絵」の才能があった。テニス部に所属しながらも絵を描きつづける。
一方、家庭のほうは、いつもにぎやかだった。幼少の頃は、家業も順調。船を貸し切るなど年2回は社員旅行も行われていた。堀口は「子どもでも『堀口』と言えばタクシーに乗れたほど」と当時の裕福な暮らしぶりを語っている。だが、堀口が小学校に上がってしばらくして、業績に陰りが見え始める。長男が大学に進学する頃には業績は目に見えて悪化し、秀才と言われた兄が進学を断念するまでになった。・・・・
http://in-shoku.info/foodfighters/vol385.html
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