“飲食の戦士たち”で青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏を取り上げました。
アルキメデスと、ソフトテニスと、東北大学。
今回ご登場いただいたのは、青木フルーツ株式会社の青木会長。1947年生まれ。ご実家は福島県郡山市。創業は1924年(大正13年)。初代から数えて3代目。なんでも、青木家60年ぶりの男子だったそう。
会長に言わせると、「中学生になるまで一貫して引っ込み思案だった」とのこと。
―――意外ですねというと、「アルキメデスのおかげ」と笑う。
聞けば、小学6年生の時「アルキメデスの原理」をすぐに理解できたことで、先生にかわいがってもらい自信がついたそう。
「もう一つ勲章のような話をするとね。高校生でソフトテニスをはじめて3年生の時にインターハイに出場しているんです」。
結果は惜しくも、3回戦敗退。でも、勲章はそのあとの話。
「高校から始めてインターハイに出場できたんですから、それで十分なんですが悔しくて、納得できない。だから、受験もあったし、ふつうはその大会で引退するんですが、私は勉強もそっちのけで、10月10日開催の次の大会をめざします」。
―――結果はいかがでしたか?
「今度は、最後までコートに立っていた」とニコッと笑われた。
「ただ、優勝したのは喝采ものなんですが、気づいた時には大学受験がもうそこで(笑)」。
戦略を練り、勉強方法、今風にいえば独自のメソッドをつくり、難関大学の受験を突破。目標だった東北大学の経済学部に進学する。
「おそらくですが今まで経済学部に進んだ先輩はいなかったのに、私が合格した翌年からはつぎつぎと受験するんです。たぶん『あいつが受かったんだから、案外ハードルが低いんじゃないか』って。先生たちが、そう思い始めたんでしょうね」。
そう言ってこちらを笑わせてくれる。
―――いい指標になったってわけですね、というと、会長は「そうそう」と言って大笑いされた。
昭和43年。1ドル360円時代の世界一周。
世界一周の旅にでたのは、大学3年生の11月。
「当時はドル/円が360円。外貨持ち出しは500ドル=18万円まで。シベリア鉄道で北欧に行って、それから南下。エジプトからスペインのマドリード。アメリカには大西洋を渡ってニューヨークでしょ。そして、西海岸からハワイに寄って帰国です」。
「これはね。岡崎って、ちょっとかわった奴がいて、そいつと途中までいっしょだったんですが、途中で別れて。お金がないから宿泊はユースホステルや夜行列車です。そうそう、ローマのテルミニ駅でその岡崎と待ち合わせをしていたんですが来なくて、その旨を日本への手紙に書いたら、心配した母親によって行方不明騒ぎが起きたこともありました。バルセロナの近郊じゃ、不審な2人組にホテルに連れて行かれて。机3台でドアを押さえて一夜を過ごした。北欧のおばさんは親切だった(笑)」。
―――当時、アメリカやヨーロッパは、今よりずっと遠かったんじゃないですか?
「そうだけど、行くか行かないかは、今もいっしょ。出発前の準備なんて、英語学校に2週間行っただけ」。
文字通り世界一周。異文化や異邦人との交流。東洋の小さな島国は、まだ世界に知られていなかった頃の話である。
その頃、青木フルーツも、大きな冒険を開始する。
「私が大学を卒業する1970年。万博があった年です。父が新しく整備された郡山市中央卸売市場に入場を決断するんです。青果卸業への挑戦です。フルーツショップを開業したのは祖父で、父は2代目。勤勉で、実直な人でした」。
初代のお祖父様は、郡山駅前・柳町商店街の会長として尽力された方で、東北初の天蓋式アーケードの建設計画を主導された方だったそうである。
さて、その青木フルーツと3代目の会長の話のつづき。
バナナと、担当スーパーと。
大学を卒業した会長は、業界では有名な『水信』に就職し、修行を開始する。水信は、1915年創業、横浜の老舗果物店であり、伝統あるバナナ加工卸売業者だ。
「ちょうど関西で勢いをつけていたスーパーマーケットが関東に進出してくるタイミング。私は運良くそのスーパーの担当になります」。
立川と八王子に巨大なスーパーがオープンする。会長が担当するスーパーだ。
「私の担当はバナナです。『関東の店舗のバナナはすべて水信で』という契約が交わされていたんです」。
―――当時、バナナは高級品でしたね?
「そう、高価なフルーツだったんですが、そのスーパーはほかより3割安く販売されていました。ちょうど自由化が進んだ頃で、スーパーのなかでも目玉商品だったんです」。
土曜に5トン、日曜には10トン。
「運ぶのも、たいへんだった」と笑われる。
その後もスーパーの出店はつづき、2年間の間に合計15店舗、そのすべてを会長が担当していたそうである。
会長も、土日となれば店にでた。まだ20代前半。あらゆるものを吸収する。「実体験で、小売のノウハウを勉強できた」とおっしゃっている。
「それでね。担当していたスーパーとの関係を軌道に乗せて、昭和47年の2月、24歳で水信を退社して実家に戻ります」。
フルーツの流通量の減少とライフスタイルの変化。
会長がもどってからの30年。青木フルーツの業績は拡大をつづけ、8000万円だった年商が30年目には60億円になった。ただし、会長は満足されてはいなかったようだ。
「たしかに大きな成長なんですが、いっても60億でしょ」と会長。
「それに気になることもあったんです」。
「その30年で、昭和は平成になって、人々のライフスタイルも変化をつづけているんです。そんななかで、農水省がフルーツの流通量を発表するようになって、それをウォッチしていたんですが、その資料だと年々、流通量が減っているんです」。
「人口が減っているわけじゃないのに、毎年、減っている。『なんでかな?』って、頭をフル回転させて、考えました。答えはね…」。
話は飛ぶが、2026年9月現在、青木フルーツはフルーツショップを5店舗、生搾りジューススタンドを190店舗、フルーツタルト&カフェを19店舗、オープンしている。
この成長は、当時の会長の疑問がスタートライン。
回答が気になる。
「私の回答は、こうでした」と説明してくださった。
「流通量が減っているのは、家庭で時間をかけて調理する時代から、すぐ食べられるものを買う時代に変化したからなんです。魚で想像してみるとわかりやすいんだけど、下処理がたいへんで時間がかかる。だから、刺身を買ってきて、パッパと食卓に並べるほうが楽で速い。パックの魚を買う人をみて、『そうか』って。当時、フルーツのパック詰めなんてパイナップルやメロンぐらい。だから、切ったり、皮を剥いたり。そういう時間がもったいないから手がのびないんだって」。
「要するに、魚じゃないけど『フルーツを食べやすく加工すればいい』って。発見ですよね。でも、どうすればいいか思案している時に『ジュースがいいんじゃない?』って、天の声が聞こえてきたんです」。
「それを聞いて。これ、じつはうちの妻の一言なんですが、いいアイデアだって思って。縮小するBtoBから、拡大するBtoCへ。そんな思いで『ジューススタンド』をオープンしたんです」。
「最初にオープンしたのは郡山のうすい百貨店。2002年6月1日の土曜日です。今でも忘れないです。オープン初日、レジを閉めたら170杯、5万4000円だったんです。これには驚きました。だって、よくいって50~60杯だろうって計算していましたから。その後も売上があがって、2号店は郡山のショッピングセンターに出店するんですが、そちらは日曜日には20万円。店員さんも目を回しただろうけど、経営者の私も目を回しました(笑)」。
「これでいける」と確信した会長は、一大勝負にでる。東京への出店だ。
「ショッピングセンターのバイヤーにね。『青木さん、郡山でこれだったら東京だともっとすごいことになりますよ』って一言に背中を押されてね」。
都内に複数のスタンドを次々とオープンさせた。
1杯400円。缶コーヒーの4倍。それでも、飛ぶように売れていくはずだった。
冗談はいうなよ。嬉しい誤算。
「商売っていうのは、ほんと難しいよね。ぜんぶだめだった(笑)」。
ふたたび「なんで?」と頭を抱えたそう。
郡山や仙台は計算通りだった。しかし、東京は、まったく計算外。
「なにがいけないんだろう。なにがちがうんだろうって。ところが、そんな時も出店のオファーがあって、つくばに『駐車場4000台の大型ショッピングセンターをオープンするから、出店しませんか』って。東京でお金を使いはたしていましたから、とてもじゃないが無理だって最初は断っていたんです。でもね、担当者が熱心に誘ってくれてさ。それで、出店を決めるんです」。
「また、お金をかき集めた」と会長は笑う。
300億円の大型ショッピングセンター、その一角に、ジューススタンドがオープンしたのは2008年11月3日。
「そりゃもうシーズンはとっくの昔に終わってます。だって、寒いんです。凍えて買物に来たお客さんは冷たいジュースを飲まないでしょ」。
―――「だめだ」と思っていたんですね。
「そうです。春にならないと売れないと思っていました。ところが、本社に電話をかけてきた担当者が興奮気味なんです」。
「会長、たいへんだって。『50万円売れた』っていうんです。『悪い冗談はやめてくれ』っていうと、『ほんとに、1700杯いったんです』って」。
「『よくやった』って言いたいでしょ。でも、また計算外で、余計にわからなくなった。それに『なんで東京はダメだったのに』って」。
―――答えはみつけられたんですよね?
「はい、答えはロケーションだったんです。東京は、駅前です。1人で買物に来て終わって、ジュースをのんびり飲んでいる時間なんてないんです。こっちは無料の駐車場があって、車に乗ってきた家族全員で買物を楽しめます。そこに、美味しいフルーツジュースがあったらどうです?」。
―――ちょっと飲んでみたくなります。
「そうでしょ」。
会長は、つぎつぎと難問を紐解いていく。
「それから、広域の商圏をもつイオンモールなどに出店を重ねていきます。ただね。全店がうまくいったわけじゃない。今はスクラップアンドビルドを繰り返していて。190店舗くらいになっています」。
その一方で、もう一つの柱になっている「フルーツタルト」の話も聞いた。
「こっちはね、逆転の発想なんです。たとえば、ショートケーキって、苺がのっかっているけど、苺がメインじゃないでしょ」。
「ショートケーキが悪いとは言わないけど、私らからしたら、そりゃ、フルーツをメインにしてほしいよね。だから、逆転の発想で、『フルーツメインのケーキをつくろう』ってスタートしたんです」。
「こっちも色々あったんですが、2010年11月3日に郡山郊外にフルーツショップとフルーツタルト&カフェの複合店をオープンしたら、これがうまくいったんです」。
「ジュースは衝動買い」だけど、「タルトは目的買い」だと、会長はいう。フルーツメインのケーキのカフェとショップの複合店。
「フルーツショップやカフェが一体となった世界観。行列をみて、『これだったんだ』って」。
会話がつづく。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)


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