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2026年9月15日火曜日

株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏登場。

 “飲食の戦士たち”で 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏を取り上げました。

本文より~

日本ロケ弁大賞、3年連続金賞受賞。

一つのお弁当のなかに主役級が並んでいる。若鶏のチキン南蛮、肉じゃが、高菜明太、玉子焼き。塚田農場こだわり卵「塚だま」をたっぷり使った特製タルタルソースは隠れた主人公だ。
芸能界のなかにも「塚田農場おべんとラボ」のお弁当のファンは多い。日本ロケ弁大賞では3年連続金賞を受賞している。
「今では塚田農場イコール『居酒屋』ではなく『弁当』という人も少なくないんです」といって白い歯をみせるのは、エー・ピーカンパニー(現:エー・ピーホールディングス)の子会社で、弁当事業を展開している「塚田農場プラス」の代表、森尾さんだ。 森尾さんは、1976年、奈良県の大和郡山市に生まれている。2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台の一つとなる市である。
今回は、そんな大和郡山市の話から。

中学受験と、東京と。

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、弟秀長の居城と言われているのが奈良県大和郡山市にある郡山城だ。2026年6月現在、城近くの「やまと郡山城ホール」には、「大河ドラマ館」もオープンして、にぎわいをみせている。
お城と金魚が有名な大和郡山市。
森尾さんは3人兄弟の長男で、父は市役所の職員だった。もっとも市役所の職員といっても、一般的なイメージとはちがっていたそうで。
「授業参観だったか、球技大会だったか。赤いポロシャツで、パンチパーマ、ブレスレットにサングラスで学校に現れたときは汗がでた」と笑う。
野球が好きで、食にうるさかった。
「外食は、専門店と決まっていた」と森尾さん。
もう一つ、うるさかったのが、教育。教育熱心だからだろう。ときにはパンチが飛んできたそうだ。
「中学受験も父の指令です。勉強しまくって、国立の共学校である『奈良女子大学附属中学校』に進学します」。
生徒は全員、附属の高校に進む。「進学率は高くて、国立に進む生徒も多いんですが、私は東京の私立大学に進学しました」。
一つは指定校推薦で入学できたこと。もう一つは「親元を離れ、東京に行きたかったから」。
「ちょっといろいろあって、高校時代に1年間親戚の家で暮らしていたんです。それも親元を離れて一人暮らしをしたいと思うきっかけだった気がします」。

バイト三昧と、中退と、アパレル会社と。

東京へ向かった森尾さん。<学生生活はいかがでした?>とたずねると、「結論からいうと」と切り出す。
結論からいうと「卒業していない」らしい。
「レストランやカラオケなど、とにかくアルバイトが中心だった」と森尾さん。「夕方からレストランではたらいて、深夜から朝までカラオケでバイト。学校に行く気力は残っていなかった」と苦笑する。
「服好きだったから、大学を辞めてから、外資系のアパレル会社に就職しました」。
就職といってもアルバイトでスタート。ただ、3ヶ月程度で社員昇格を果たす。異例のことで「今も記録保持者かも」と笑う。
「社員にもすぐになれましたし、評価もいただいていたんで楽しかったんですが、中途入社組のキャリアは、いくら評価されてもストアマネージャー止まり。それがわかってテンションが下がったとき、タイミングよく先輩が『独立するから一緒にやらないか』と声をかけてくれたんです」。

福島県の郡山へ、そして、ふたたび東京へ。

今度は、福島県の郡山市へ行く。「郡山で、アンティークなカフェをオープンしたんです。3人でスタートするんですが全員、未経験で、けっきょく空中分解してしまいます」。
 サービスのイロハも、F/Lコストもみんなわかってなかった。数ヶ月経つと、給料が支給されるかどうかもわからなくなった。
「それで『オレは東京に帰る』っていうんです。初めての挫折です。でも、感謝はしているんです。挫折はしましたが、飲食が好きになったし、社会人としてゼロから出直しだと、はじめて心を決めることができたんです」。
「飲食×社会人やりなおし計画」が始動する。求人誌をひらいて目にとまった会社があった。「リンク・ワン」だった。

原価…ショウキャク?

「外食産業向けの人材派遣やコンサルティングを行っていた会社です」。
当時は急成長の真っ只中だったそう。
「採用した人材を『プロ店長』に育て、派遣する。絶好調だったから、週に5~10人は採用していたんじゃないかな。当時は、『銀のさら』が絶好調で、私も最初は『銀のさら』だったんです」。
「でも、免許がないとバイクに乗れないでしょ。それじゃ、宅配の『銀のさら』ではだめだってことになって」。
関西で『牛角』を支援する事業がスタートするタイミングだったので、『じゃぁ、森尾はそっちだ』と」。
「そんなわけで、福島の郡山から東京にもどって2週間で、大阪です」。
森尾さんは、関西にできた研修センターで「プロ店長」を育成するトレーナーの仕事を開始する。
「今でも笑えない」といって、当時の様子を語ってくれた。
「トレーナーとか、コンサルなんですが、じつは『げんかしょうきゃく』がわからなかった。漢字もわからない(笑)。でね。『原価』って書いて、ちょっと止まって『ショウキャク』ってカタカナで」。
ノートに書かれた文字をみて、当時の上司に真顔で心配された。
郡山で頭を打ったが、それでもオレはできると心のどこかで思っていた。しかし、レベルが一つあがると、ほんとになにもできなかった。
「何も知らないし、何もできない。コンサルの相手はオーナーでしょ。人生経験で敵うわけありません。それに、周りに、そりゃぁ雲の上のような優秀な人がたくさんいて」。
<それでも前に進めたのはなぜ?>と聞くと、「猛烈な危機感」と森尾さんはいう。ビジネス書にかじりついた。F/Lコスト、P/L、利益計算、減価償却…先輩たちが会議で語っていた専門用語が、だんだんとわかるようになる。
「あの時があったから、今がある」と森尾さんは隠さずいう。のちに牛角を展開するチームの責任者になり、リンク・ワンは4年在職。その後、当時の役員の独立に伴って転職。そこでも同じ仕事をしていたので合計9年、コンサルの仕事をしていたことになる。

エー・ピーホールディングスへ。

「コンサルの仕事は、やりがいがありましたが、その一方で、オーナーさんの喜ぶ姿や、数多くの素敵なお店をみてきたからでしょうね。支援だけじゃもの足りなくなって」。
コンサルから、実業へ。森尾さんは舵を切った。
「最初は知人の紹介で、業務委託からのスタートです。業績は悪くなかったんですが、オーナーと意見が食い違うようになって。それで、つぎに就職したのが」。
<エー・ピーホールディングスですね?>
「そう。勉強のつもりだったので、じつはもう少しスケールの小さな会社がいいと思っていたんですが」。
エー・ピーホールディングスの「生販直結」のビジネスモデル、独自のビジョンに惹かれて転職したそうだ。
「みなさんご存知と思いますが、米山久社長(現株式会社エー・ピーホールディングスの代表取締役会長 兼 社長)の片腕といっていい、大久保伸隆さん(現株式会社ミナデイン代表)という方がいらして。私は大久保さんをサポートするチームで主に人事系の仕事を担当します」。一度に100名以上採用したこともあったそう。
転職して1年後、エー・ピーホールディングスは上場を果たし、メインブランドの「塚田農場」はブームとなり、テレビにも何度も取り上げられた。
「居酒屋のバイトが就職に役立つ」という切り口を設けたのも塚田農場だった気がする。  
「パッションもあったし、ピュアだったし。私は採用だけじゃなく教育、マネジメントまで担当していましたので、それはやりがいがありました」。
「でも」と言って森尾さんは続ける。

・・・続き

 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏



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2022年7月24日日曜日

株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏登場。

本文より~

ピッチを駆けた少年時代。

サッカー少年だった。
「2つ上の兄に影響されて始めました。父親の転勤で小学校の2~3年間、石川県で暮らしていたんですが、その時に全国大会に出場しています」。
ポジションはフォワード。本人いわく、目立ちたいから。
「子どもの頃は結構わがままで、自信家だった気がします。人見知りもしないタイプでしたし、明るいキャラでクラスでも目立っていたと思います」。
勉強よりスポーツというタイプ。サッカーは中・高でもつづけている。中学での成績は県大会ベスト4。背番号は10。サッカーが盛んな千葉でベスト4だから悪くはない。
複数の高校からスカウトが来る。いずれプロのサッカー選手に、それが目標になる。
「でも、高校で初めて挫折を味わいます」。
どういうことだろう?
「私は修徳高校に進学します。サッカー部員だけで150人くらいいました」。
田久氏もそうだが、県外からスカウトされた選手が集まる強豪校だ。そのなかでも早くからAチームに入る。自信が確信にかわる。ただ、対戦相手にとんでもない奴がいた。
「今もプロでやっています。オリンピック代表にも選ばれるくらいですから、そりゃ、巧いわけです(笑)。私より小柄なのに足も速いし、簡単にまた抜きもされてしまう。プライドもずたずた。その時、初めて上には上がいることを知って。そう、人生初の挫折です」。
試合があると、決まってご両親が駆けつけたそう。「父母が私のいちばんのファンです(笑)。父は毎週、試合にきてビデオを撮ってくれました」。
高校時代にはオランダにも海外遠征している。ただ、プロはもうあきらめた。

飲食が好きだったんだと気づいた、就活時代。

「大学は東京経済大学に進学します。飲食に出会ったのは学生時代です。サッカーはやめていましたし、大学より、飲食の世界が私の居場所でしたね。錦糸町の居酒屋で、4年間バイトをしました。ただ、就職は親の目もあって飲食以外のつもりで不動産や金融の会社を検討していました」。
ただ、意外なことで進路が決まる。
「就職活動を行っていくなかで、だれもがおなじスタイルで、おなじ問答を繰り返すことに、なんでだろうと思っていました。そんなある日、バイト先が倒産してしまうんです」。
日課が日課でなくなる?
「そうですね。アルバイトは、生活の一部でしたから。あの時、店に立つことができなくなって、初めて飲食が好きだったんだと気づくんです」。
就活の羅針盤が、視野になかった飲食に傾く。とはいえ、飲食には様々な業態があり、会社も、店も様々。どうしてエー・ピーカンパニーだったのだろうか?
「じつは、アルバイトをしていた店の、同じビルに塚田農場があって、とんでもない業績をたたき出していることはうわさで知っていました。実際、飲食のなかでは、いちばん勢いがあった。それもあって、受けるならここだと」。
面接もそれまでの会社とはまるでちがった。衝撃的だった、と言っている。「選考を通過するたびに、会社のことが好きになっていきました」。
飲食というカテゴリーだからではなく、エー・ピーカンパニーという会社そのものに惹かれる。「けっきょくは、人なんですね。いっしょに働きたい人がたくさんいたことが、いちばんの理由です。また、6次産業という斬新な発想はもちろん、アルバイトを含め、スタッフの思いをかたちにするオペレーションなど、いままでにないアイデアに心を動かされました。ただのアイデアではなく、生産者、それを提供する人、そしてお客様がすべてつながっているんです」。
「私はこのあと、鹿児島で店長になり、生産者の人たちと接することができるんですが、作り手の思いをつぐ、それが、今の私の、経営指針の一つになっています」。

社長、一番乗り。

田久氏は新卒4期生で、エー・ピーカンパニーに入社している。同期は、40人程度。
「私が入社したのは上場する前です。当時の営業時間は平日24時、金土日25時まで。当時の店長がミーティングを大事にする人で、店が終わってからミーティングがスタートします。店に泊まり込んだことも少なくなかったです。そのお店で経験を積み、そこから鹿児島です」。
鹿児島で店長に就任されたんですよね。
「そうです。鹿児島県、初出店の時です。当時は宮崎に1店舗あったくらいで、知名度もなかったのでアルバイトを確保するのもたいへんで、私も大学にビラをもっていき配りました。結構、たいへんでしたが、初月から目標の700万円はクリア、立ち上げ隊の使命は果たしたんですが、結局、3年、向こうにいました」。
この3年は、エー・ピーカンパニーにとっても、田久氏にとっても貴重な3年となった。
「向こうにはともだちもいない。だから休みの日はヒマで(笑)。休みのたびに生産者さんたちをまわって話を聞きました。地鶏の農家、酒蔵、焼酎をつくっているところ、野菜の農家にも何度もおじゃましてお話をしました。作り手を知ると、それだけで売り方もぜんぜんかわってきます。もちろん、キズナもできます。エー・ピーカンパニーの強みである生産者さんとのつながりを直に体験できたのは、今も私の最大の武器になっています」。
その後、東京にもどった田久氏は、複数店舗を管轄するマネージャーに昇進する。
「新宿、池袋からスタートし、埼玉の店も担当しましたし、事業部長になってからは神奈川エリア全域11店舗を管轄していました」。
飲食と田久氏。サッカー少年の時とはむろん異なるが、フィールドを駆けまわる姿は同じなのかもしれない。
「ある日、突然、CEOの米山さんに呼び出されて、ドアを開けると役員が勢ぞろい。え? 何で? オレなにか悪いことでもしたのかなって焦りまくりです(笑)。はい、その時に思いもしなかった社長就任の話をいただいたんです」。
「おめでとう、新卒で君が社長一番乗りだ」というCEOの米山久氏からの一言は今も頭に残っている。新卒4期生でありながら、新卒初の社長就任。
「特別、出世しようと思っていたわけではありません。正直にいうと産地との連携は私がいちばんでしたし、塚田農場イコール、オレ!って思っていましたら、そういう意味でも関連会社の社長というのは意外なオファーでした。ただ、昔から『言われたことはやろう、受けよう、それがオレの価値だ』と思っていたので、その時も、あれこれいわずに、『わかりました』と。ただ、それが試練の始まり(笑)」。

・・・続き

株式会社リアルテイスト 取締役社長 田久翔太氏

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