2013年10月8日火曜日

祝 400回は株式会社どん 代表取締役社長 長岡祐樹氏登場。

祝 記念すべき第400回目です。
in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社どん 代表取締役社長 長岡祐樹氏登場。
本文より~

昔ながらの、長岡家の教育。

「『せからしい』と良く怒られた」と、子ども時代を振り返って長岡は笑った。
戦地において約束した2人の祖父は、復員後、約束通り2人の子どもを引き合わせた。それが長岡の父と母。姉が生まれ、そして長岡が生まれた。
「女系家族だったこともあって、私が生まれた時には「でかした」と褒められたと母は言っています。まるで昔のTVドラマそのままで笑ってしまいますよね。私は男と言うだけで期待をかけられ、母にも、祖母にも鍛えられながら育ちました。」「でも、ぜんぜんじっとしていない子だったもんですから、「せからしい」と」。
時代背景もある。長岡が生まれた1964年は復興の足音がいやがうえにも高まっていった東京オリンピック開催の年である。戦前と戦後、教育も変わる。その意味でいえば、長岡家の教育は昔ながらのものだったのだろう。
祖母にすれば、周りの子どもたち全員が「せからしく」映っていたのではないか。だから尚更「せからし」と孫を叱った。
「女性は弱いから手を出してはダメ、年下はいじめるな」は母の躾。
だからケンカ相手はもっぱら上級生。負けて帰ったらきた時には「悔しかったらもう一回やってこい」と息子を送り出したそうだ。
長岡が中学に入学したその日、父は家庭を捨て出て行った。その後離婚に至るのだが、いきなり母子家庭となった。母は、宅建の資格を取るなどし、昼間は会社に務め、夜はスナックで働き、多い時は4つの仕事を掛け持ちし、女手ひとつで長岡を育てることになる。
その言葉を聞いたのはいつだったろうか。酒の弱い母が、酔っ払って帰ってきた時のことである。普段、気丈な母が「死んだほうがまし・・・」と寝言でつぶやいたのである。 母の寝言に聞き耳を立てていた長岡少年は、どんな思いでその一言を聞いていたのだろうか。

少年、長岡に与えられたミッション。

母が仕事を始めると、食事の調理当番が長岡の役割となった。「食費の配分を上手く計算できないから、調理当番がまわってきたんです」。姉は、買い物係。
中学に入学したばかり、そんな少年が、家族のために慣れない料理と格闘する。遊ぶ時間よりも、洗濯物を取り込んだり、部屋の掃除をしたり、家の仕事が自分の責任となる。だが、長岡は、何ひとつ苦にならなかったと言っている。それどころか、嬉々として料理や家事に向かっている。話を伺っていると、そんな風景が思い浮かんできた。
「母がつくってくれた料理を思い出したり、料理の本を参考にしたりして。もちろん、美味しかったかどうかは、わからない。洋食を期待して姉が買ってきた材料で肉じゃがを作ったり、期待も裏切ったと思います(笑)それでもね。疲れて帰ってきた母が、私のつくった料理を「おいしい」と言って食べてくれるんです。それが嬉しくって」
「おいしい」。母の一言が少年にとっては何よりのご褒美だった。
中学2年の時、姉が調理担当に。私は代わりに朝刊の配達を始めます。家族3人のなかで、男は長岡ひとり。男と言うことを意識すれば、女である母も姉も守るべき存在。「男は外で金を稼ぐものだ」と言う祖父の教えを全うした。
その後、長岡は大阪の高校へ進学。しかしそれは長くは続かなかった。何故なら翌年の1月つまり高校1年の冬に高校を退学するからだ。
高校1年の夏、朝夕刊の配達、集金、購読者の勧誘と仕事を増やしていく。仕事で稼ぐことが長岡の生きがいとなっていた。
学校どころじゃない。それが長岡の思いだったに違いない。・・・続き
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