コロナ禍の次はウクライナ情勢で原価高騰等もあり益々飲食業界にとって厳しい状況が待ってます。
少しでもキイストン発信で、いろんな飲食企業様の認知、価値高めていけたらと考えて、ネタ仕込んでます。
さあもう直ぐ4月。2022年度も全力でスタートダッシュし頑張るぞ!
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。
本文より~小・中学は地元、中野区の学校に通学。剣道をやっていた父の「武道を嗜むべし」とのすすめで、幼稚園の頃から剣道をはじめ、中学卒業までずっと続けて3段を取得。様々な大会で優秀な成績をおさめる。他には水泳を習わせてもらうなど、兄弟全員の教育に投資を惜しまなかった親には、大人になった今となってはとても感謝している。
高校は親元から離れた木更津の暁星国際高校に進学し、日本全国から集まる、個性の強いメンツにかこまれた寮で寮生活をはじめた。家に帰れるのは月に1度だけだった。
中学3年まで続けた剣道。高校でもまずは剣道部入部を考えたのだが、残念ながらあまり強い学校ではなかったので躊躇していたところ、たまたまラグビー部の顧問が中学時代の先輩で、有無を言わせずのラグビー部入部となった。未経験のラグビーだったが、50名いる部員の中で1年からレギュラーを獲得できたのは、その俊足のおかげ。千葉代表で国体選手に選ばれた経験を持つ。
「学校も剣道も途中で何度もやめようと思ったけど、父親が怖くて辞められなかったですね」。
何かを「辞めたい」なんて言おうものなら、拳が飛んできたそうだ。
高校時代は「辞められないのなら問題をおこして停学を重ね、退学になってやろう」と、わざと問題をおこしたこともあった。父親は家では絶対の存在で、体格が父親を上回る年齢になっても、勝てる気がしなかった。
小さい頃から「親父には勝てない」と思い込んで育ってきたこともあるし、親との喧嘩で「これ以上やっちゃいけない」という気持ちもあった。それほど、威厳のある父親だったのだ。
大学は國學院大學に指定校推薦で進学した。水上スキーに熱中し、アルバイトに明け暮れ、毎晩飲み歩き……つまり、あまり学校へ行っていなかった沖原氏。
4年の終わり、留年の可能性が濃厚になって来た頃にアルバイトをしていたのが、世田谷区三宿にあるハンバーガー専門店「FUNGO」。
「ダブるくらいなら大学を辞めてどこか適当に就職してしまおう」と思ったのを止めてくれたのは、これまで進路の決定権を握っていた父ではなく、そこで出会った店長だった。その店長に憧れ、「この人と働きたい」という気持ちが強くなっていくのは当然だったのだろう。親の反対を押し切って、卒業後「FUNGO」を運営する(株)ファンゴーにそのまま入社したのが、人生の転機となった。
この時、父親には「飲食業をやるなら、独立しかないからな?」と強く言われたそうだ。3年勤めていた間に、ハンバーガーだけでなくイタリアンやアップルパイ専門店など、ファンゴーが展開する別業態でも修行をさせてもらったのは、その後も飲食業界で泳いでいく沖原氏の力となった。
ファンゴーを辞めた後は、国内飲食店をメインとした売上アップのコンサル業務に3年ほど携わる。
ファンゴー、コンサル業などを経て、五反田にある個人経営のそば居酒屋「まほろば」に入ったのが、「個人店の在り方や魅力」を学ぶ良い機会となり、独立への大きな足掛かりとなった。
「まほろば」の社長は蕎麦の修行をして独立した職人で、調理の基本だけでなく、「お客様に対する考え方」などを学ばせてもらった。これまでの自分とは真逆で、店にも生き方にも華やかさを求めない生き方に大きな衝撃を受けたそうだ。
いずれ独立した暁には、アジア中心の海外出店を考えていた沖原氏。うどんが流行の兆しを見せはじめていたこともあり、まだ普及していない「そば」にもっと大きな可能性を感じ、「まほろば」で2年の修行をつんだ。
出来れば25~26歳、遅くとも28歳までには独立したいと漠然とした目標を持っていた。
下北沢に自社1号店である「CAZILO(カジロ)」をオープンしたのは、29歳。だいたい計画通りである。29歳まで利用できる政策金融公庫の融資も賢く利用した。
「まほろば」での修行を生かし、蕎麦バルと銘打って蕎麦業態で開業を果たしたのは、15坪の1/2階、家賃は30万ほどの小さな店。シェフとアルバイトの3人でのスタートだった。
月250~300万円ほど売り上げればやっていける規模で、スタートから軌道にのった。
開店から3ヶ月もすると、取材の申し込みが入りはじめ、その取材を全部受け、メディアがメディアを呼び、テレビで紹介されることもあった。中でも週刊文春の覆面店舗調査企画に高評価で掲載された際には店の中がぐちゃぐちゃになるほど賑わったそうだ。下北沢周辺が地元の裕福な客層に支えられ、順調に人気店へと成長していくことになる。
1号店開店から約1年。たまたま下北沢で出会った人から「一緒にお店をやりませんか?」と持ちかけられ、2号店となる天麩羅居酒屋を目黒にオープン。ここでも蕎麦屋での修行が物を言い、好スタートを切った。世間で串カツが人気なら、天麩羅も人気が出るという予想も、当たった。
しかし、店が順調なほど、プライベートは反対の方向に進んでいった。仕事中心の生活で「妻を安心させることより、従業員に楽しく働いてもらう」ことを優先し、仕事で酒を飲むこと…「仕事=酒」という考え方の溝が夫婦間で埋まることはなく、離婚という苦い経験をしたのが31歳。独立して2年、2号店を開店してすぐのことだった。
「プライベートと仕事のバランスのとり方がわからなくなってしまった」という沖原氏も、コロナ禍を経て今では考え方もずいぶん柔軟になったそうだ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
3月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はコロナ禍で逆風をチャンスと考えておられる『JYUPPO』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏登場。
本文より~はじめて知ったが、釣った魚をはく製にする人がいるそうだ。「すごい魚が釣れた時には魚拓じゃ物足りないんでしょうね」と笑うのは、今回ご登場いただいた「霞町 三〇一ノ一」のオーナー、渡辺 ひと美氏。
「ただし、魚拓のようにはいきません。だから、父に連絡がきます。私の父は、はく製づくりの名人だったんです」。
渡辺氏の父は秋田県大曲出身。花火で有名な町だ。
「父は建設会社を経営するかたわら趣味が高じて、当時、日本に3人しかいない魚のはく製づくりのマイスターになっちゃったんです」。
釣り雑誌でも度々、紹介されていたらしい。
「毎日のように『はく製にしてください』って立派なお魚が送られてくるんです」。
だから食卓には、いつも新鮮な魚がならんだそうだ。
父親は、はく製づくりも得意だが、料理も十八番。
「はく製をつくるくらいですからね。プロの料理人に負けない位に巧かったんじゃないでしょうか。ただ、なんでも食べちゃう人で、虫とか、そう狸もたべさせられました」。
「注意しておかないと何をたべさせられるかわからない」と渡辺氏は笑う。
はく製づくりは、繊細な作業にちがいないが、「何でもござれ」の食材からはワイルドな性格が浮かび上がる。「そうですね。野性的でアクティブな人でした。家族は毎週のように山、川、海に連れていかれたんです」。
言葉の端々から、当時をなつかしむ響きが伝わってくる。
「おひつに残っているごはんで、おにぎりをむすんで。車で道なき道を行く訳です」。
アスファルトから、砂利道に。いつのまにか、砂利もなくなっている。からだは、上に、下に、右に、左に。
「魚釣りは、夜が明ける前から竿をさすでしょ」。
だから、夜明け前まで。移動は月明かりの下。暗闇のなか、崖を下らされたこともあったそう。
「でも、たのしかったですね」。
ちなみに、渡辺家は4人家族。2人姉妹で、渡辺氏は次女。次女は父親のワイルドさをもろに受け継いだのか、とにかく、昔は運動が大好き。
小学校から始めた卓球では、小・中と都大会で上位入賞している。もっとも本人は、テーブルじゃないほうのテニスで、コートを軽やかに駆けたかったようだが。
渡辺氏は、卓球で推薦をもらった「東海大相模高校」に進学する。ただし、推薦は蹴り、通常の受験生に混じり試験を受け入学している。
「なんで東海大相模高校かっていうと…、じつは野球部のマネージャーになりたかったんです」と渡辺氏。理由を聞くと、当時、流行っていた漫画の名が挙がる。ヒロインはたしか、南。
「だから、私も甲子園に行ってみたいと思って。東海大相模は常連校でしたから。ただ、私がいけないんですが、当時の野球部は女子禁制。マネージャーも男子だったんです」。
それは、残念というか。
「でしょ。ちゃんと調べておけばいいのにね」といって茶目っ気たっぷりに笑う。
しかし…、卓球部からのお誘いはなかったんだろうか?
「ありましたよ。休み時間毎にしょっちゅう。ただ、こちらも私がいけなかったんです」。
入学早々、球技大会があったそう。
「じゃんけんに負けて私の出場種目が卓球になっちゃったんです。最初は目立たないようにしていました。でも、相手は素人。あれよ、あれよって勝ち上がってしまって」。
ついに、相手は卓球部の選手。勝手にからだが動く。
「現役選手の強烈なスマッシュがきたら、習性なんでしょうね。ついに踏み込んでしまって」。
ラリーが始まる。
ラケットが卓球ボールを打つ乾いた音が観客を集める。結局、勝利してしまう。
渡辺氏の華麗な勝利にいちばん驚いたのは卓球部の部員たちかもしれない。休み時間になるたびにお誘いがあったのもうなずける。だから、「私もいけなかった」と渡辺氏は言っている。
しかし、渡辺氏は頑なに拒みつづけ、結局、茶道部に入部。裏千家の御免除を取得している。
改めて、父親の印象を聞くと「厳しくも優しい。誕生日も同じということもあってか双子の様な存在で理解者でした」という。
大学では、ロシア語を勉強した。
「ロシア語は難しかったですね。あの頃は、1日6時間は机に向かっていたんじゃないかしら。じつはモスクワの大学の交換留学生にも選ばれたんです。ただ、ロシア国内の情勢が不安定で私たちの学年は行くことができませんでした。仕事も本来であればロシア語の通訳としてロシア大使館で、と思っていたんですが、こちらもあきらめなければならなくって。真剣に勉強していたので悔しくて、少しだけやさぐれていた時もありました」。
でも結局、世界のトヨタに就職されたんですよね?
「やりたい事がやれないのであれば、だったらお給料が高いところにしよう!と思って、資料請求を出したトヨタ様からお返事があって。まさか、採用されるなんて思ってなかったです」。
渡辺氏がトヨタ自動車、正確には、トヨタエンタープライズに入社したのは1995年のこと。
「人生のターニングポイントは、3回」と渡辺氏。1回はトヨタに入社したこと。立ち振る舞いなど、様々なことを勉強させてもらったと言っている。
2回目は、むろん、そのあと。
「トヨタは3年半で退職しています。そのあと、セント・フォースというアナウンサーのマネジメント事務所の方に声をかけていただいて、私の、第二の人生の幕が上がります」。
最初は、日テレの「お天気お姉さん」でブラウン管デビュー。朝3:30に迎えが来て、朝6:00からオンエア。夕方からはニュースプラスワンの冒頭で今日の主なニュースを読み上げた。
「報道のニュースキャスターです。あの頃は、報道フロアなどに朝から朝までいたような気がします。他にも、様々な料理人や料理家、タレントの方と料理番組も担当していました」。
それが、今につながっているわけですか?
「いえいえ、私がお店をやろうと思ったのは、4歳の頃。その思いを温めて、温めて、33歳の時にやっと念願かなって私のお店をオープンします」。
最初から、ゴッコじゃなかった。だから、4歳の記憶が鮮明に残っているんだろう。
「じつは、最終目標はずっとそれだったんです。トヨタの時も出張で全国に行きました。仕事前に早起きをして各地の朝市に行って食材を勉強したり、アナウンサー時代もロケの前後で蔵元様に伺って日本酒の造りを学びました」。
渡辺氏は唎酒師の資格まで取得している。
それも準備の一環だった?
「いえいえ、もともとお酒はまったく飲めなかったんです。あの頃はトヨタの役員といっしょに日本のいたるところに仕事でご一緒する機会があったのですが、少しでも酔ってしまうと会社を首になってしまうので、接待の席でも絶対お酒はいただかなかったんですが。青森に行った時です。地酒で『田酒』というブランドをお客様にお勧めいただいて。どうしてもとおっしゃるので、じゃあ、お口をつけるだけと言って」。
どうなりましたか?
「ほんの一口、含んだだけなのに、おいし~ぃってなって。お相手の方も喜んで下さって、コミュニケーションの潤滑油的な役割になる日本酒をもっと知りたくて唎酒師になり、今では日本酒が大好きです」。
このあたりやはり、お父様に似ている。
日本酒の妖精が、お店をはやくやらないの?と、ささやきにきたのかもしれない。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
仕事はリクルートにバイト職からスタートした人材ビジネスの仕事を今もやっております。
急速凍結機のテクニカン様を伝えるのに、この「カンブリア宮殿」はスゴく伝わってきます。
飲食企業様が導入することで、販路拡大の可能性はもちろん、何よりもフードロスを減らし、作れる時に作り込みすることで人件費の削減にもつながります。
キイストンがお繋ぎますよ。
コロナ禍で激変したものの1つに、冷凍食品の需要がある。コンビニやスーパでは、冷凍食品売り場の拡充が進み、デパ地下で行われた“冷凍食品のみを扱う催事”は、連日行列が出来る盛況ぶりを見せたという。実は、この冷凍食品ブームの陰には、知られざる仕掛け人の存在が!それが横浜にある冷凍機メーカー『テクニカン』の創業者・山田義夫だ。山田が作り上げた凍結機「凍眠」は、冷凍機の常識を覆す「液体凍結」という方法で食品を凍らせる。使えば、魚や肉などの食材はもちろん、高級レストランの料理や新鮮なフルーツ、そして銘酒『獺祭』も、独自の液体に漬け込むだけで、あっという間に凍らせることができるのだ。しかも、この凍結機で凍らせた食品は、解凍しても…“出来たての味”がキープできるという。これまでの常識を覆した驚きの液体凍結の技術を、たった1人で生み出した山田だが、実は、冷凍技術や機械の知識がゼロというズブの素人。しかし、その素人が生み出した「凍眠」は、食のプロを驚かせるオンリーワンの凍結機に成長し、今では業界を超えて相談に来る人が後を絶たないという。冷凍技術の素人だった山田は、なぜ食のプロが大絶賛する冷凍機を作り上げることが出来たのか?知られざる冷凍革命の舞台裏に迫る! 【革新的な冷凍技術で“食のプロの困りごと”を瞬間解決!】 テクニカンの創業者・山田が作り出した液体凍結機『凍眠』の最大の特徴は、冷気で凍らせる一般的な方法と比べ、20倍速く冷凍できる点にある。しかも、冷凍する際に食品の細胞を壊さないので、解凍した後の肉や魚からドリップが出ず、冷凍前の“生”に近い味と食感が保てるという。テクニカンが誇る、こうした高い技術力を聞きつけ、いまや、鮮魚の仲卸業者やレストラン経営者などの“食のプロ”が連日のように相談にやってくる。つまり、テクニカンは“食のプロの駆け込み寺“とも言える存在になっているのだ。これまでの冷凍技術の常識を打ち破る「凍眠」とは、一体どんな凍結機なのか?知られざる冷凍機メーカーの躍進の秘密に迫る! 【苦節10年!“知識ゼロ”からの大逆転を実現させた諦めない男の執念】 学生時代の山田は、勉強はほとんどせず、毎日のように遊び回っていたという。あきれた母親に高校を中退させられ、父親の経営する食肉卸の会社に無理矢理入社させられてしまう。しかし、山田は入社後もダイビングや釣りなど、仕事の合間を縫っては趣味に没頭する日々を過したという。その山田が35歳の時…人生を変える転機がやってくる。そのころ、すかいらーくなどのファミリーレストランが急成長し、山田が身を置く食肉卸業にも注文が殺到。ところが、大量の注文を受けても・・・肉の冷凍が間に合わず、結局、納品が滞る事態に陥る。その状況を目にした山田が思いついたものこそ、冷凍の常識を打ち破る「液体凍結」という手法。そして、山田は液体凍結を使った凍結機メーカーを設立し、大々的に売りだしたのだ。しかし、技術は画期的ではあったものの、実際にはほとんど売れず・・・山田は多額の借金を背負うことになったという。遊びを大切にしてきた男が、なぜ、世の中にない新たな冷凍方法を生み出すことができたのか?そして、どん底から、いかにして成功に至ったのか?苦節10年、“諦めない男”の開発秘話を紐解く。