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2022年11月1日火曜日

株式会社otto  代表取締役 八須玲香氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社otto  代表取締役 八須玲香氏登場。

本文より~

仙台でもトップの女子高に進学する才女。

仙台駅から少し離れた丘陵にひらかれた街がある。仙台でも有名な泉パークタウン。美しい自然に包まれた杜の街だ。八須家がこちらに引っ越したのは、お父様の転勤がきっかけそう。
「母がこの街を気に入って、お家を買って、仙台で暮らすことになります。でもね、父は割とすぐに東京に戻っちゃうことになるんですが」。そういって笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社otto代表取締役の八須 玲香氏。様々なブランドを東京、大阪、姫路で展開されていて、2022年8月10日には、お台場に24店舗目となるオイスタバーをオープンされている。 「昨日、プレオープンだったんですよ」とのこと。たまたまだがインタビューの前日にお披露目が行われたようだ。
八須氏が生まれたのは1985年5月14日。本人は、もうそんなに若くないとおっしゃるだろうが、今だ37歳の若き経営者だ。しかし、経験値でいえば、もうベテラン域。
「子どもの頃に仙台に移り、高校を卒業するまで仙台が私のホームグラウンドでした。小学校の頃ですか? そうですね。そこそこ目立つ女の子だった気がしますね」。
話をうかがうと、学業にも秀で、スポーツも万能。目立たずにいるほうが無理というものだ。100メートル走が得意で、小学校からはじめたテニスでは県大会にも出場している。
勉強は要領良く出来るタイプらしく、仙台でもトップの女子高に進んでいる。
「勉強は好きじゃなかったです。だから、高校に入学した時点で学業からは早々と卒業しちゃいます笑」。
中学生時代も、とくに勉強したわけではないそう。
「3年になって周りの子に刺激されて、やるんだったら県でいちばんの学校だと思って」。
たった1年でトップ校に。頭がいいというのは簡単だが、たぶん、スイッチが入ると別人になるんだろう。ギアが一段あがると表現してもいいかもしれない。

プロポーズが転機をよぶ。

「私にとっては、高校に進学することがゴールでした。だから、まぁ、勉強しなかったですね。学校も自由な校風だったので」。
「学校にも行ってなかった」といたずらっ子のように笑う。かわりにガソリンスタンドには通った。「車が好きで、高校に進学するなり、『バイトさせてください』ってスタンドに乗り込んで。そんな女の子、あんまりいないですよね笑」。
それだけ車が好きだった。大人になった今も、カーマニア。ただ、乗っている車、こちらは内緒らしい。
「私自身、そんなに前にでるタイプじゃなかったんですが、あの頃、八須玲香は、ちょっと有名な存在だったかもしれませんね」。
高校を卒業するとチヤホヤされる、うっとうしさから逃れるように東京へ向かった。
「最初はともだちのところに転がり込んで。ええ、これといったツテもなく、美容室で仕事をさせてもらっていました」。
美容室と飲食は、おなじサービ業でも距離がある。飲食に入るきっかけは何だったんだろう?
「当時、お付き合いしていた人から結婚のお話をいただいて。まだ20代になったばかりだったこともあって、主婦という仕事より、1人で生きていくほうを選択させてもらいました。じゃぁ、どうやって生きていくのかと考えた、その先に飲食があったんです」。
スイッチが入ったわけですね。
「そうです。その時、雑誌で、あるお店にひとめぼれしちゃうんです。ネットで社長の連絡先を調べて、お電話して。雑誌でみかけた翌々日くらいには、そのお店に立って、『いらっしゃいませ』って」。
大胆さにも驚かされる。
「もちろん、独立前提。社長にも『1年ですべて盗んで卒業させていただきます』って。今思うと、無鉄砲な一言ですよね。でも、そこも気に入ってくださって、アパートも貸していただけました」。
「ボロアパートでしたけどね」と、笑う。

23歳、若き経営者、取材を拒否す。

しばらくして、八須氏は、2号店である恵比寿店の店長に抜擢される。経営のセンスにも恵まれていたんだろう。こちらを繁盛店に育てあげる。ただ、在籍は1年と少し。
「思い描いていたことがひとつ実現して満足しちゃったんでしょうね。独立のことを忘れて、いったん飲食から離れます」。
経営にもかかわっていたから、飲食の表裏をつぶさにみたことが原因かもしれない。
「でも、じつは23歳の時に、またスイッチが入ったというか。再度、人生の選択に迫られた時に、たまたますごくいい物件のお話をいただいて。今度も、そっちにいっちゃいました笑」。
最初のブランドは串カツ。
「居酒屋のつもりだったんですが、経験がなかったので、14年前の当時、串カツや立ち飲み居酒屋が気楽に楽しめるところが都内にも入り始めたこともあり、なんとかなるんじゃないかなと思って。でも、それもたまたまなんですが、ある人が腕のいい串カツの職人さんをご紹介してくれるんですね。その人のおかげもあって、初月から想像以上の結果を残すことができたんです」。
23歳の若き女性経営者。カフェじゃなく、串カツというのも渋い。
しかし、不安はなかったんだろうか?
「ぜんぜんないといえばウソになりますが、私は経営者が真面目に頑張れば少なくても潰れることはないと思っていました。だから、そこがセーフティネットになると思って、割と不安なくスタートすることができました」。
たしかに、その理に間違いはない。では、逆に、いきなり連日連夜、客であふれる繁盛店になったことについて、戸惑いはなかったんだろうか?
「アルバイトの子もがんばってくれたんで、オペレーションには問題がなかったんですが、雑誌の取材とかが来るじゃないですか。まだ若かったし、女の子ですしね」。
23歳の女の子が、お客さんでパンパンに膨れ上がった店の経営者。取材対象としてはもってこいだ。
「やっかみじゃないですが、いろんなことを言う人がいるじゃないですか。だから、じつは取材とかは、ぜんぶお断りしていたんです。私も接客をしていましたから、『オーナーはどこにいらっしぃいますか?』って何度も聞かれたんですが、そのたびに、『さぁ?』ってしらばっくれて笑」。
目立ちたくない?
「そうですね。今も、できるだけ表にはでたくないし、目立ちたいがためにこの仕事をしているわけじゃないですから」。
今回、取材を快諾いただけたのは、どうやらかなりレアなことのようだ。

・・・続き

株式会社otto  代表取締役 八須玲香氏

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2022年9月21日水曜日

株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏登場。


本文より~

父に内緒で買ったファミリーコンピュータ。

炎をまとった翼で時空を飛翔する。手塚治虫氏の「火の鳥」。初期の作品「黎明期」は、1954年から連載がスタート。ロングセラーだ。この「火の鳥」を筆頭に、ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」、星新一の「ショートショート」、そして大友克洋の「AKIRA」を挙げたあと、「私のからだの成分は、子どもの頃から読みつづけた、それら、数々の物語からできています」といって笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社エルティーアールの代表取締役社長、谷 丈太朗氏。
「私は1974年八王子に生まれます。父親は大手電気メーカーで半導体事業の責任者をしていました。祖父は国鉄に勤務し、柔道の普及に貢献したようで、小渕さんが総理だった時に表彰されています。母親はピアノ教室や合唱団等の音楽活動を今も精力的に活動しています。兄弟は弟が1人です」。
うろ覚えの記憶ですが、谷家にはテレビは1日に1時間だけというルールがあった。本に傾倒するのは、この1時間ルールのおかげかもしれない。ちなみに、最初に「火の鳥」を読んだのは小学生の頃。本の虫だが、家のなかでじっとしているタイプではなかった。
「一番好きだったのは自転車。何時間もペダルをこいでいました」。
片道2時間のチャリ旅に出かけたこともあるそうだ。余談だが、当時の中学校は、荒れに荒れていた。校舎のなかを、爆音を轟かせながらバイクが走る。まるで漫画の世界。校舎のなかはまさにカオス。
「人間の原点ってそういうシーンが記憶に刻まれていって、かたちづくられるんでしょうね。話はちがいますが、私が中学生くらいの時に、『このままでは俺たちは一生、ファミリーコンピュータをもてないぞ』と弟と話し合って、お年玉を出し合って、父親に黙ってファミリーコンピュータを購入します。バイクで校内を駆ける奴らと比較すれば、なんともかわいい話ですが、私らにとっては、これは大革命でした」。
高校もチャリ通学。楽そうだからと、バトミントン部に入るが、とんでも勘違い。母親の影響もあるのか、音楽に傾倒。イギリスや香港などディープな世界にも憧れた。将来、音楽系の仕事に就きたいと思うようになったのは、この頃。「大学に進学するつもりはなく、音楽系の専門学校へ進学したかったんですが、父親の許しがでません。しかたなく1年浪人して大学に進みます」。
物語の世界とリアルな世界。ちがいはどこにあるのか。「果てしない物語」を映画化した「ネバーエンディング・ストーリー」は、リアルと物語の境界線があやふやで、面白い。ただ、社会人になれば、リアルな世界の比重が大きくなるのは間違いのない事実。兄弟の革命の象徴だった、ファミリーコンピュータも、もう押し入れのなかだったのではないだろうか?

株式会社レッグス入社。

「大学3年の時にインドネシアのバリ島に行きます。これも私の、ターニングポイントの一つです。バリにはそのあとも何度も行きます」。
こちらはリアルな世界。ただ、その世界は、まるで物語のような美しさだったのではないだろうか?「1998年、大学を卒業した私は、セールスプロモーションなどを行う株式会社レッグスに就職します。株式を上場する以前の話です。業績を評価いただき、部長職も経験したあとの2008年、初めての海外進出としての中国事業立ち上げのため、上海現地法人の社長として赴任します」。
整理すると、1998年大学を卒業し、株式会社レッグス入社。営業部長を経て、2008年、上海現地法人の社長に就任。シンガポール在住を経て2015年に帰国する。
「合計7年間の海外赴任と、向こうでのコンテンツビジネスを通して、改めて日本の漫画やアニメの力を再確認します。漫画やアニメは簡単に国境も越え、人の心を鷲掴みにします。言葉のカベすらないかもしれません。帰国後、日本のキャラクターやアニメ作品のライセンスビジネス事業を推進していくことになる背景の一つです」。
ちなみに、その当時、中国で読まれていた漫画は?と質問すると、『NARUTO-ナルト-』、『ドラえもん』、『名探偵コナン』、『美少女戦士セーラームーン』など、いくつかのメジャーな作品が挙がった。
中国時代の話をもう少し。
「中国でビジネスをしようと思ったときに、はじめて経営者になろうと考えました。それまで経営者というのは頭になく、クリエイティブな世界を追求し、楽しんでいるだけでいいと思っていたんですが…」。
クリエイティブを突き詰めれば、それは人づくりであり、会社や文化をつくることじゃないかと思うようになったそう。
「そういうクリエイティブをやろうとすれば、ゼロイチを経験しないといけない。それが、中国で社長をやろうと思った理由です。もともと文化や習慣も違いますから、なかなか大変でした。私を入れ、4人で会社を立ち上げたんですが、3000万円あった資本金が、あれよあれよ、となくなっていきます。これはもう、3ヵ月でゲームセットじゃないか、と(笑)」。
運よく、と谷氏はいうが、むろん、谷氏たちの奮闘があり、中国でのビジネスは軌道に乗る。ちなみに2008年には、リーマンショックが世界を襲う。ナショナリズムが中国で叫ばれていた時代ではなかっただろうか。

本家本元。

「中国からシンガポールに渡り、こちらでも新規事業を立ち上げます。中国の事業を通し、ライセンスと同時にコンテンツのちからに心底ほれ込んでいましたから、このちからでもっと世の中を楽しく明るくしたいと思い、日本のアニメと掛け算したスマートフォンアプリのビジネスをスタートします」。
ただ、こちらのビジネスは、うまく軌道に乗らなかった。
「だからといって、コンテンツやライセンス事業が否定されたわけではありません。私は、日本との距離を想像しました。今更、日本もないだろうと思っていたんですが、やはりここはもう一度、本家本元の日本で本流を知るべきだと帰国します。もちろん、7年も外国暮らしですから、浦島太郎です」。
たしかに、浦島太郎だった。谷氏は、日本にもどって一つのビジネスに出会い衝撃を受ける。「それが、今のカフェビジネスです。アーティストやキャラクター、アニメと飲食体験を掛け算し、ファンたちが集う空間をプロデュースするのがカフェビジネスのミッションです。たとえば、私たちはK-POPの展開が多いのですが、アーティストって人ですよね。本人がいないと、なかなかファンビジネスは成立しません。ただ、その一方でファンたちが集うだけなら、アーティストがそこにいなくても成立します。むしろ、そういうファン同士の交流を実現していくことで、よりアーティストを好きになる場を提供していきたいと思っています」。
2021年には、様々なカフェをプロデュース・運営してきた「TRANSIT GENERAL OFFICE」と共同で、現在、谷氏が代表を務める株式会社エルティーアールを設立。
「こういうビジネスは、元々は秋葉原などにあったわけですが、私たちは表参道や原宿といった、感度の高い女子たちの聖地でビジネスを展開し、成功しています。実は、ヒルトンお台場のIPを掛け算したスイーツビュッフェもプロデュースし、コロナ禍の下でも大成功しています」。
今までの仕事をいくつかピックアップすると、2019年、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社とフード領域におけるライセンス契約を締結し、専用店舗である「OH MY CAFE TOKYO」を東急プラザ表参道店3階にオープンする。
2022年、株式会社TBSホールディングスが展開する「赤坂エンタテインメント・シティ計画」の一環として、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』が開幕されることに伴い、ワーナー ブラザース ジャパン合同会社とのライセンス契約を締結し、専用店舗である『Harry Potter Cafe』を赤坂Bizタワー1階に期間限定オープンしている。

・・・続き

株式会社エルティーアール 代表取締役社長 谷 丈太朗氏

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2022年3月29日火曜日

株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。

本文より~

高校から親元を離れる。

小・中学は地元、中野区の学校に通学。剣道をやっていた父の「武道を嗜むべし」とのすすめで、幼稚園の頃から剣道をはじめ、中学卒業までずっと続けて3段を取得。様々な大会で優秀な成績をおさめる。他には水泳を習わせてもらうなど、兄弟全員の教育に投資を惜しまなかった親には、大人になった今となってはとても感謝している。
高校は親元から離れた木更津の暁星国際高校に進学し、日本全国から集まる、個性の強いメンツにかこまれた寮で寮生活をはじめた。家に帰れるのは月に1度だけだった。
中学3年まで続けた剣道。高校でもまずは剣道部入部を考えたのだが、残念ながらあまり強い学校ではなかったので躊躇していたところ、たまたまラグビー部の顧問が中学時代の先輩で、有無を言わせずのラグビー部入部となった。未経験のラグビーだったが、50名いる部員の中で1年からレギュラーを獲得できたのは、その俊足のおかげ。千葉代表で国体選手に選ばれた経験を持つ。

厳しい父親。

「学校も剣道も途中で何度もやめようと思ったけど、父親が怖くて辞められなかったですね」。
何かを「辞めたい」なんて言おうものなら、拳が飛んできたそうだ。
高校時代は「辞められないのなら問題をおこして停学を重ね、退学になってやろう」と、わざと問題をおこしたこともあった。父親は家では絶対の存在で、体格が父親を上回る年齢になっても、勝てる気がしなかった。
小さい頃から「親父には勝てない」と思い込んで育ってきたこともあるし、親との喧嘩で「これ以上やっちゃいけない」という気持ちもあった。それほど、威厳のある父親だったのだ。

大学卒業後、飲食の道へ。

大学は國學院大學に指定校推薦で進学した。水上スキーに熱中し、アルバイトに明け暮れ、毎晩飲み歩き……つまり、あまり学校へ行っていなかった沖原氏。
4年の終わり、留年の可能性が濃厚になって来た頃にアルバイトをしていたのが、世田谷区三宿にあるハンバーガー専門店「FUNGO」。
「ダブるくらいなら大学を辞めてどこか適当に就職してしまおう」と思ったのを止めてくれたのは、これまで進路の決定権を握っていた父ではなく、そこで出会った店長だった。その店長に憧れ、「この人と働きたい」という気持ちが強くなっていくのは当然だったのだろう。親の反対を押し切って、卒業後「FUNGO」を運営する(株)ファンゴーにそのまま入社したのが、人生の転機となった。
この時、父親には「飲食業をやるなら、独立しかないからな?」と強く言われたそうだ。3年勤めていた間に、ハンバーガーだけでなくイタリアンやアップルパイ専門店など、ファンゴーが展開する別業態でも修行をさせてもらったのは、その後も飲食業界で泳いでいく沖原氏の力となった。
ファンゴーを辞めた後は、国内飲食店をメインとした売上アップのコンサル業務に3年ほど携わる。

蕎麦の可能性。

ファンゴー、コンサル業などを経て、五反田にある個人経営のそば居酒屋「まほろば」に入ったのが、「個人店の在り方や魅力」を学ぶ良い機会となり、独立への大きな足掛かりとなった。
「まほろば」の社長は蕎麦の修行をして独立した職人で、調理の基本だけでなく、「お客様に対する考え方」などを学ばせてもらった。これまでの自分とは真逆で、店にも生き方にも華やかさを求めない生き方に大きな衝撃を受けたそうだ。
いずれ独立した暁には、アジア中心の海外出店を考えていた沖原氏。うどんが流行の兆しを見せはじめていたこともあり、まだ普及していない「そば」にもっと大きな可能性を感じ、「まほろば」で2年の修行をつんだ。

29歳、独立。31歳、離婚。

出来れば25~26歳、遅くとも28歳までには独立したいと漠然とした目標を持っていた。
下北沢に自社1号店である「CAZILO(カジロ)」をオープンしたのは、29歳。だいたい計画通りである。29歳まで利用できる政策金融公庫の融資も賢く利用した。
「まほろば」での修行を生かし、蕎麦バルと銘打って蕎麦業態で開業を果たしたのは、15坪の1/2階、家賃は30万ほどの小さな店。シェフとアルバイトの3人でのスタートだった。
月250~300万円ほど売り上げればやっていける規模で、スタートから軌道にのった。
開店から3ヶ月もすると、取材の申し込みが入りはじめ、その取材を全部受け、メディアがメディアを呼び、テレビで紹介されることもあった。中でも週刊文春の覆面店舗調査企画に高評価で掲載された際には店の中がぐちゃぐちゃになるほど賑わったそうだ。下北沢周辺が地元の裕福な客層に支えられ、順調に人気店へと成長していくことになる。
1号店開店から約1年。たまたま下北沢で出会った人から「一緒にお店をやりませんか?」と持ちかけられ、2号店となる天麩羅居酒屋を目黒にオープン。ここでも蕎麦屋での修行が物を言い、好スタートを切った。世間で串カツが人気なら、天麩羅も人気が出るという予想も、当たった。
しかし、店が順調なほど、プライベートは反対の方向に進んでいった。仕事中心の生活で「妻を安心させることより、従業員に楽しく働いてもらう」ことを優先し、仕事で酒を飲むこと…「仕事=酒」という考え方の溝が夫婦間で埋まることはなく、離婚という苦い経験をしたのが31歳。独立して2年、2号店を開店してすぐのことだった。
「プライベートと仕事のバランスのとり方がわからなくなってしまった」という沖原氏も、コロナ禍を経て今では考え方もずいぶん柔軟になったそうだ。

・・・続き

株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏

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