2024年4月17日水曜日

クリーンライフ大野宗社長が、タイトル『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍を出版!!

私どもが応援してる完全ゴキブリ駆除の掲げ「駆除技術日本一」へ邁進されている“クリーンライフ”大野宗社長が、『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』を出版されました!!

【各プレスからのニュースリリース】
「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

本文より~

社名に込めた想い~出会いを大切にしたい!

2017年に設立した“株式会社スターティングオーバー”。
同社は現在、チャーハン専門店“炒王”の炒王事業(4店舗内1店舗は休業中)、鶏料理専門店“鶏千”の鶏千事業(5店舗)に加え、カレーうどん専門店“千吉”の千吉事業(10店舗)の三事業20店舗を展開している。
今回は、社長の荒木裕伸社長に、今日にいたるまでの歩みを振り返っていただき、併せて将来の事業展望を語っていただいた。
―“スターティングオーバー”という社名にされた意図、どのような想いを込めて命名されたのですか?―
「とてもシンプルな英語ですが、直訳すると“新しい始まり”を意味する名詞です。別段特殊な言葉ではなく、日常生活やビジネスシーンなど、さまざまな場面やシーンで使用されているようですが、“新しいスタートを切る”“初めからやり直す”という使い方もあるようです」。
―“新しい始まり”とは?―
「より多くのお客さま、従業員や加盟店さまなどの多くの仲間、多くの取引さまとの出会いをスタートさせ大事にしたいという想いから命名しました」。
―吉野家ホールディングス傘下だとのことですが……―
「そうなんです。わたくし、吉野家に勤務していたのですが、『吉野家ではできないことをやって行こう』というプロジェクトで始まった事業なんです」。
荒木氏が吉野家に入社するまで、そして入社後から“スターティングオーバー”立ち上げまでの足跡を辿ってみよう。

目立ちたがり屋とひっこみ思案とが同居した性格。

「広島県三次市で生まれました。周りは山と田圃だけの田舎です。位置的にいえば島根県との県境になるんですが、冬は腰のあたりまで雪が積もることもありました」。
中国地方のほぼ真ん中に位置し、北部は中国山地、南は平坦な農業地帯が占める三好市。
当地は、内陸性の気候のためか夏の日中は気温が上がりやすいが熱帯夜になることは少ないが、冬は雪が積もり東北地方の県庁所在地、仙台や福島に匹敵するほどの寒い土地のようである。
―どんな街なんですか?―
「住んでいた当時、近くにコンビニはなかったですし、ジャスコのようなショッピングセンター内にマクドナルドではなくドムドムバーガーがあった程度でした」。
小学校は1クラス、中学校は2クラスと小規模な学校で、徒歩で30分かけて通学していたとのこと。
「学科では数学が好きでしたが、小学校の頃には料理も好き出したね……」。
―料理が好きだった?―
「はい!カレーのスパイスを買ってきて、勝手に作っていましたしパンやシュークリームなどを作ったりしていました。やっぱり好きだったんですね」。将来、飲食業で生計を立てることになるとは思わなかっただろうが、小さな芽が吹き出していた。
―どんな子どもでした?―
「相矛盾することが同居していたというか、表裏一体のように備わっていたのか、目立ちたがり屋でしたが、反面、引っ込み思案でしたね。だんだん恥ずかしさを自覚し表には立たなくなりましたが……」。

[初]吉野家体験の先に進みたい路が浮かび上がってきた。

高校は広島市内の城北学園に進学。実家を離れて寮生活を送ることになった。
「先ほども言いましたが数学が好きでした。受験は5科目だったのですが、中学のときに受けた模擬試験では数学以外はほとんどダメで、受からないと思っていたんですが、受かりました。校則はありましたが、髪色や服装に一定のルールがある程度で、比較的自由な校風でした」。
―高校時代の思い出ってありますか?―
「二つの大きな思い出があります」。
―ひとつは?―
「数学以外はまるでダメ。その数学も嫌いになってしまい勉強は挫折しましたが、自転車競技部に入って、自転車競技~トラック競技ですが~に没頭しました。インターハイにも出場しました」。
―二つ目は?―
「全寮制ではありませんでしたけど、寮生活ですね。部屋は個室でした。当時のことですから今と違って上下関係が厳しく、連帯責任でビンタを喰らうこともありましたよ」。
現在であればパワハラやコンプライアンス問題などに匹敵するような理不尽なことも体験した寮生活だったが、結果として集団のなかでの人間関係を学んだし暴力否定派になったと振り返る。
頬に受けた痛みは無駄ではなかった。
高校卒業、そして大学進学。近畿大学・和歌山キャンパスにあった理工学部に入学したのだが……。
「一年で中退したんです。理由は吉野家の牛丼を初めて食べたことなんです。そぅ、高校までは吉野家を見たことがなかったんですが、感動しましたね」。

吉野家は天職だ!19歳にスタートした吉野家人生。

吉野家に魅せられてアッサリ中退。19歳だった。その決断に驚愕するばかりだが、驚くのは、現在にいたるまでファースト・コンタクトの衝撃が刻んだ“吉野家愛”を貫きとおす荒木氏のブレのなさだ。
「退学して、吉野家でアルバイトを始めました。業種は関係なくアルバイトをすることが初めてでして、接客も楽しかったですし、自由になるお金が手に入ることも社会人の仲間入りしたようで嬉しかったですね。新鮮でした」と振り返る。
―せっかく入学した大学を中退すること。アルバイトとはいえ吉野家で働くことに関してご両親には相談、あるいは報告されたのですか?―
「大反対はなかったように記憶しています。決め手は“吉野家の仕事は天職だ!”ということで説得したんです」。
“天職”とまで言える人は決して多くはない。吉野家で働くということが荒木氏の性格、考え方、価値観などとフィットしたのだろう。人間と仕事の最良の関係が生まれた。羨ましい限りだ。
「当時、アルバイトの店長はいませんでしたから、社員になるより店長になりたかったですね」。
「お世話になった店長やSV(スーパー・バイザー)の方々が23歳くらいの方が多く、大卒で新卒入社なら自分も同じようになれるという思いがあり頑張り、1年間、アルバイト店長を務めました」。
―若い店長ですが、苦労しませんでしたか?―
「年上の従業員も多く、若かったこともあり苦労はしましたが、虚勢を張りながら対応してきました」。察するにあまりある。
そして2001年、アルバイトから吉野家HDグループに入社、晴れて社員になった。22歳のときだった。
やがて大きな転機が訪れた。

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2024年4月10日水曜日

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

本文より~

サーファーならだれもが知っている「ジャスティスサーフボード」。

サーフィンを好む人なら誰でも知っているらしい。今回、ご登場いただいた南澤さんの父親が起業された「ジャスティスサーフボード」。日本発祥のブランドではではいちばん有名だとのこと。
もっとも南澤さん自身はサーフィンをしないというから、親子といっても趣味がちがう。本社を地図で探すと、房総半島の付け根にあった。1時間程度で、外房に行けるとのこと。
企業の沿革は以下の通り。
1983年11月「Radix surf shop」オープン。1992年1月「justice surfboard」設立。2001年12月「音波 勝田台店」オープン。2003年9月「音波 千葉富士見店」オープン。2014年11月「音波 船橋店」オープン。2016年1月「日本再生酒場 千葉富士見店」オープン。2018年5月「バイロンベイミートパイファクトリー」スタート。
南澤さんは現在「音波」などの飲食事業に注力している。今後は、基本、飲食をメインに事業を進めるとのこと。ホームページをみればわかるが、主要ブランドの「音波」は「波をイメージした大人の上質な空間」だ。
さて、事業の紹介はこれくらいにして、いつも通り南澤さんにスポットをあて話を進めよう。
南澤さんは1989年6月16日、千葉県の八千代市に生まれる。
中学受験し、東邦大学付属東邦中学に進んでいる。千葉県トップクラスの進学校である。
「いとこに刺激されて私も中学受験をします。東邦大学付属東邦は中高一貫制で医学部に進む生徒が多い学校です」。
「私自身は、医学に進むというよりも」と笑う。
なんでもゲームセンターが南澤さんの中学時代のステージ。ゲームが相棒だった。この頃の体重はすでに80キロ。堂々たる体躯だが、コンプレックスもあったそうだ。原因は「レモンティの飲み過ぎ」といってこちらを笑わせる。
「東邦は進学校だったんですが、私からするとランクを落として受験した学校だったので、1年生の頃は成績も上位だったんですが、2年生の頃からね」。
苦笑するその表情からもなんとなく、南澤さんの青春の1ページが想像できる。

中央大学から東京工業大学大学院へ。

「今は65キロくらいなんですが、高校時代も80キロ。レモンティと言いましたが、中学時代から父親に外食によく連れて行ってもらったので、それも原因の一つのような気がしています」。
好きな食べ物は?と聞くと、「唐揚げに餃子」との答え。とにかく、食べることが好きだった。
大学は中央大学。
「理工学部です。今の体格になったのは大学時代で、めちゃめちゃ痩せました」。甘い恋がダイエットにいい、というようなキャッチフレーズを書いた著名なコピーライターがいたが、もしかすると女子を意識しはじめたからかもしれない。
「大学まではこれといった目標はなかったです。サーフィンが大好きな父親のような趣味もなかったし、どちらかというと将来、大手に就職できればいいなと漠然と思っていたくらいです」。
父親の事業にも、関心はなかった。
「中央大学を卒業したあとは東京工業大学の大学院に進みます。この頃は、ちょっとした学歴コンプレックスがあった気がします」。
中央大学で学歴コンプレックスと言われると、こちらの立場がない。
「当時偏差値でいうと70くらいの高校だったもんですから、私立なら早慶です。私も当然、早慶狙いだったんですが、見事、不合格。1年間、浪人して再チャレンジしたんですが、けっきょく中央だったんで(笑)」。
そう聞くと、わからなくもない。頭のいい人は、いい人なりに悩みがあるんだろう、と納得する。
「大学では、テニスサークルに入って、キャンパスライフを謳歌します。スリムになったことで、春もやってきましたし(笑)」。
<人生の波に乗り始める?>
「そうですね。女性との付き合いも、いい意味で人生の肥やしというか、そういうものになっていますね」。
ちなみに、南澤さん。
ジュノンボーイになり損ねている。
「原宿とかで声をかけてもらうことがけっこうあったりして。ジュノンのオーディションを受けて。残念なことに不合格でした」。
特技を披露することになっていた。頭が真っ白になって、「今でも何をやったか、思い出せない」そうだ。むろん、こちらも青春の1ページ。もっとも人生の勝負は今から。

・・・続き

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏

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2024年4月9日火曜日

株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

本文より~

子どもの頃、料理人になることをぼんやりと考えていた。

今回ご紹介する馬場氏は、幼い頃の夢を実現したひとりだ。22歳でイタリアに渡り5年間の修業を重ね27歳で帰国。現在、 “Tharros(タロス)”(東京都渋谷区)など3店のイタリアン・レストランを運営している株式会社OBIETTIVOの社長である。
「生まれたのは1971年、新潟県長岡市です。正確には長岡市から20㎞ほど離れている油揚げで有名な栃尾市ですが……」。
「1971年ですから、第二次ベビーブームの年にあたります。世代論でいえば“団塊ジュニア世代”に相当します」。ちなみに1971年生れの人口は、約200万人だそうだ。
いずれにしろ子どもの多い時代に生まれ、育ち、生きてきた。
―料理人になることが、夢にみた職業のひとつだったとか……―
「祖母が保育園の給食担当だったことも影響したのか小さい頃から料理を作ったりしていました。ぼんやりですけれど将来、料理の世界で生きていくことも考えていましたね。ただし、料理を作るといっても“ママゴト”の延長のようなものですが……」と馬場氏は語る。

初めての料理は、テキスト片手に見よう見まねで作ったホットケーキ。

―先ほど、小さい頃から料理に関心があったと仰いましたが……―
「祖母の影響もあるのでしょうが、NHK“きょうの料理”という料理番組があり、番組のテキストがありました。今でもこの番組、続いていますよね」。
―最初に作った料理、覚えていますか?―
「ホットケーキです。テキストを読んでみると創造力がかき立てられ、見よう見まねでホットケーキを作ったのが最初ですね」。
―初料理以後、作る種類、メニューは拡大したのですか?―
「拡大したというほどではないですけど、その後は、みそ汁やカレーなど、時々、手伝ったりしていました。ただ、こうした経験を重ねて調理することの楽しさを覚えたことが、振り返ってみれば飲食の世界に飛び込んだ根源だったと思います」。
小さいながらも、しっかりした萌芽が形作られていた。

“モノを作る仕事”に就く。その候補の一つが料理人。

「実は中学校入学と同時に転校したんです。友人も少なく新しい環境へ溶け込む術や一人でいることの術を転校を経験したことで習得したのかも知れませんね」。
「“孤独”というとちょっとカッコイイですが、“孤立”しているわけではないので苦にはならなかったですね。ある意味、“孤独は美徳”と思っていた節がありますね」。
―たったひとり、ということですが“ひとりの思い出”ってありますか?―
「高校最後の夏休み“ひとり卒業旅行”と題して日頃愛用していたロードレーサーで長岡から北海道・札幌まで自転車で行きました。走行距離にして約1000㎞でした」。
“孤独”を愛した馬場少年も卒業後の進路を選ばなければならなくなった。
第一義的には大学進学。試験に合格する保障も確証もない。不合格だった場合の身の振り方も考えておかなければならない。そこで候補に挙がったのが、“自動車の整備士”“理工系の大工”“料理関係”の三つ。共通しているのはどれもが“モノを作る”職業ということだった。
結果的に受験は失敗、そして三つのなかの一つ、子どもの頃から漠然と考えていた料理人になるため調理師を目指し大阪へ。

長岡から大阪、そして東京へ。料理人の階段を昇りはじめる。

「高校生の頃、将来就きたいと思っていた職業から料理人になることに絞り込み、大阪の調理師学校に入学しました。寮生活でした」。
―料理人といっても和食もあれば洋食もあると思いますが……―
「入学した学校はフランス料理専門カレッジでしたし、このフランス料理を目指していました。学んだ期間は1年間でした」。
―学校時代の思い出ってありますか?―
「フランス料理店でアルバイトをしていました。忘れられないのは寮のおばさんです。なにかと気を配ってくれましたし、卒業後、就職先の紹介もしてくれました。ただただ感謝ですね」。
おばさんの紹介で就職したのは、東京・松濤にあったフランス料理“シェ松尾”。 長岡から大阪へ、そして東京へ。プロの料理人という夢の実現に向けての第一歩だった。

仕事に専念できない自分がいた。これではダメだ!

―実際に料理人になった感想は?―
「仕事は拘束時間が長くおまけには薄給で大変でした。反面、拘束時間が長かったことで却って貯金することの術を学びました」。
ただ、ここで悪い癖が出てしまう。
「雪国の長岡市で暮らしていましたから、当然のごとく中学・高校の頃はスキーを楽しんでしていたんです。そうした環境で育ったためか、秋になるとスキー熱に襲われ、どうしてもスキーがしたくなり、いても経ってもいられずに8カ月で退職、スキー・インストラクターの道を目指し山に籠ってしまいました。場所は妙高高原です」。
―かなり大胆な選択、決断ですねー
「とは言え、春には当然のごとく雪は溶けてなくなってしまうわけですから、春になると下山して東京へ戻り、フランス料理店“ビストロダルブル”に勤務しました。3~4年は働くつもりでいたんですが、雪の便りを聞くと、またまた“スキー熱”が……」。
―またスキー病ですか?―
「そうなんです。身体の奥底に根づいているんでしょうか、また山籠もりをしました」。
夏場は料理人として東京で働き、冬はスキーのインストラクターとして妙高高原で働く生活が3シーズンほど繰り返していたが、このまま継続するか疑問を抱いてもいた。
「中途半端だと思いだしたんです」。
こうした繰り返しのなかで偶然とはいえ、馬場氏の運命を変えてしまう出会いがあった。

イタリアに行こう!本格的なイタリア料理を学ぼう!

「イタリアに出会ったんです。出会ったというのは大袈裟かもしれないなぁ。でも魅力を感じたことは事実ですね」。
―どんなきっかけだったんですか?―
「イタリアに詳しい方にで出会ったんです。現地のスキー事情やイタリアの食文化などを聞いているうちに、未知の世界だったイタリアへの興味がフツフツと湧いてきたんです。それと……」。
―別の理由も?―
「フランス料理もいいけれど、もっとシンプルにできるものはないかな、イタリア料理をやってみたいなと思っていたことも背景にありました。また当時、都内にはイタリア料理店が少なかったことも要因でした」。
こうしてイタリア、イタリア料理への関心が強くなり、“イタリアへ行く”ことを考え出したのだが、観光旅行でも物見遊山な旅でもない。生きるために、学ぶために行くのだ。常套句になってしまうが、馬場氏の胸中にあったのは“不退転の決意”“覚悟”だ。
―準備に邁進した?―
「覚悟して決めてしまえば行動するのみです。当然ですが資金がなければコトは始まりません。それと最低限の会話ができるくらいの語学力も必要です」。
馬場氏は、(スキー熱を断ち切って?)東京に戻り恵比寿のイタリア料理店、同じく広尾のイタリア料理店でもアルバイトを始めた。昼はキッチン、夜はホールと休む暇なく働き、さらにイタリア語教室でイタリア語を学ぶ生活に明け暮れた。明確な目的、動機、さらには若かったから、過酷な日々にも耐えられたのだろう。
こうして貯めた資金と会話力を身に付け、1993年5月26日、イタリアへ旅立った。22歳のときだった。

差別的な扱いも受けたイタリア武者修業の日々。

南ヨーロッパ、地中海に面した長靴のような形状で南北に長い国、イタリア。イタリア料理は素材を生かした素朴な料理が特徴で、地中海に面する地域では魚介類を使用した料理が、北部や内陸の地域では肉や乳製品を使った料理が多いという。またイタリア料理は、フランス料理の原型になったとも言われている。
馬場氏が修業第一歩に選んだのは、トスカーナ州のシエナ。この街は中世の雰囲気に溢れ、大聖堂やピサの斜塔で名高い街である。
―いよいよ念願のイタリア料理を学ぶことになったのですが、最初の職場は?―
「“カーネエガット”というシエナ・トスカーナ料理店でした。この店のオーナーの奥様がつくる母の味に感動しましたね」。
「その後、シエナ料理“フオーリポルタ”などで勤務し、女性シェフが作るトスカーナの古典料理を学びました」。
―シエナで3年学び、1996年にはサルデーニャ島(イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島)に移動なさったようですが……。ここでは、どんな料理を学んだのでしょうか?―
「“サンディーラ”という料理店に勤務し、魚介を中心としたサルデーニャの地方料理を学びました。同じ年、シチリア島の魚介漁師レストラン“ラ ムチャーラ”勤務したのですが、この店は目の前が漁港で新鮮な食材を扱えることに感動しました」。
―翌年の1997年には一旦帰国されていますが……―
「ええ、東京・竹芝のナポリ料理“マーレキャーロ”に勤務して、当店のシェフから伝統的なナポリ料理を伝授されました。1年後の1998年、再度、イタリアに渡りました」。
―サルデーニャ島の料理店に勤務されたようですが……―
「リゾートレストラン“ラ グリッタ”に勤務しました。ここは、ヨーロッパのバカンスの雰囲気に溢れる岬に先にあるレストランで、魚中心の料理を学びました」。
―翌年には、同じサルデーニャ島 レストラン“コルサーロ”とサルデーニャ島の南西側に浮かぶ五番目に大きな島サン.ピエトロ島の“トンノ ディ コルサ” に勤務されていますが……―
「コルサーロ”は島一番の三ツ星レストランです。“トンノ ディ コルサ”はマグロ専門料理店でマグロ料理のレパートリーを学びました」。
―料理を学ぶほかにイタリアでの思い出、ありますか?―
「給料は少なかったですね。それと人種差別を受けたこともありましたね」。
―人種差別って?どんな?―
「根拠はわかりませんが、日本人というだけで暴言を吐かれたり、子どもが中指を立ててきたり、この街から出ていけみたいなことはありましたよ。でも、学ぶことも大きかったですね」。
1999年、辛いことも差別されたこともあったけれど、イタリア料理人としての5年間の修業が終わった馬場氏。イタリアの味を携えて帰国した。27歳になっていた。

・・・続き

株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏

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2024年4月2日火曜日

株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。


本文より~

高校をたった3ヵ月で卒業したやんちゃ少年の就職先。

ひょうきんで明るい少年だった。
「どちらかというと落ち着きがない、そんな小学生だった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた京都の名店「すぎうら」の代表取締役、杉浦茂樹さん。
「小学校ではサッカーをしていたんですが、中学校では帰宅部です。帰宅部といっても当時は不良がたくさんいて。私もどちらかというとそちらのグループにいました。その結果、高校は通学時間がめちゃくちゃかかる、遠く離れた学校の農業科です。とてもじゃないが、普通科に行けるレベルじゃなかったです(笑)」。
ただ、入学しても高校に通ったのは、たったの3ヵ月。
「遊び呆けて、父親に家を追い出された」とも言っている。
「私も家をでたいと思っていましたからね。これ、幸いです。ただ、お金もないし、寝床もない。それで、求人誌を買って、駅のホームで片っ端から電話をして仕事を探します」。
公衆電話しかない。10円玉がすごいスピードで落ちていく。
「なんでもよかった」と杉浦さん。
「とにかく、住まいと、お金」と笑う。
次から次に断られるなかで、面接をすると言ってくれたのは、宇治の仕出し屋さんだった。無事、採用され、兄弟子と5人の寮生活がスタートする。兄弟子といっても年は離れている。最年少の杉浦さんは、玄関でからだを丸めて眠った。
面接のその日にパンチパーマは刈られている。

料理人、杉浦、スタート。

「初任給ですか。今のみなさんには想像できないと思いますよ。額面6万円、手取りはたった3万円です(笑)」。
遊ぶ暇もなかったから、それでもなんとかなった。
「お世話になった会社は仕出し屋、活魚料理屋を経営されていました。社長さんには可愛がっていただいて、ヨットで和歌山から沖縄まで、1ヵ月かけ連れて行ってもらったこともありました。船酔いがひどくて。経営も、ヨットもおなじで、いったんスタートしたら簡単にはもどれないってことを身をもって教えていただきました」。
器用だった。仕事をすると、それがわかる。21歳、兄弟子を抜いて店長になる。料理もする、仕入れもする。店長というより、店主。「13坪、月商500万円くらいのお店でした」。これが、人生、初めて任されたお店。ただ、「昨日までの先輩が部下になったので、やりにくかった」と苦笑いする。
実家との関係はどうなっていたんだろう?
「就職が決まった時に、連絡をして出入りが解禁されました(笑)」。
「とにかく、父親は褒めず、母親はからだを心配してくれていました」。
たぶん、どちらも愛の証。

京味で「修業」。26歳で、独立。

「7年ほど勤め、独立する専務について退職します。ただ、専務の下ではたらいたのは1年くらいでした。給料が出たり、出なかったりで。こちらを辞めたあと、京都の有名な料亭で仕事を始めます。この料亭での3年間勤務するんですが、私を料理人に育ててくれた3年間でした」。店名は、京味。名前を聞いただけで、3年間が想像できる。
独立には、お父様も一役買っている。
大手企業を早期退職し、開業資金をつくってくれたそうだ。
「父の援助もあって、独立したのは26歳の時です。平成6年。四条烏丸に『すぎうら』をオープンします」。
物件の取得価格を聞いて、驚いた。さすが、四条烏丸。「土地・建物込みの居ぬき物件で4000万円だった」と杉浦さん。大きな投資である。
「客単価で言うと6000~7000円を想定していました。居酒屋以上、割烹未満がコンセプトです」。
<いかがでしたか?>
「それが、なかなかうまくいかず、苦戦しました。京都は認めていただくまでがしんどいですね。とにかく、知っていただこうとビラを撒いて、チラシのポスティングもしました。ただ、風景がかわるきっかけは、ランチです。700円で1種類の日替わりです。原価率50%。一つの賭けだったわけですが、そのおかげでだんだんと『すぎうら』が認知されて行きます」。
<軌道に乗るわけですね?>
「そうです。でも、実は一波乱あります。私は料理に専念して、ほかすべて家族に任せていました。父親も経理のような仕事をしてくれていました。新たに出店したい私と、堅実な父親は、やはり衝突してケンカが絶えませんでした。最終的には、両親に出ていってもらいます」。
今度は、杉浦さんが、お父様を追い出す格好になる。ただそれは、息子である杉浦さんの成長の証だったのかもしれない。

・・・続き

株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏

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株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏登場。

本文より~

飲食店を経営するようになるとは思いもよらなかった?

ヒトは、子どもの頃、あるいは成長してからも思い描いた職業に就けるとは限らない。むしろ、考えもしなかった職業を選ぶ、就くことのほうが多いかもしれない。
―飲食業には、さほど興味はなかったようですが……―
「そうなんです!20歳代半ばまで飲食業だけはやらない!って思っていたのですが……」と語るのは、都内を中心に“炭火焼ホルモン ぐう”“もつ焼よし田”“焼肉冷麺 てっちゃん”など17店を展開する株式会社ユニバーサル・ダイニングの代表取締役 呉 成煥氏。その呉氏に、紆余曲折を経て飲食店を運営するに至るまでの顛末を伺った。
―飲食業になりたくなかったのには、何か特別な理由でもあったのですか?―
「特別というほどのことではないですね。実家の母親がお好み焼き店を経営していまして苦労していたんですね。その苦労を間近で見ていましたから……。将来、どんな職業に就くか分かりませんでしたけど、飲食業は考えなかったですね」。
呉氏が生まれたのは東京都台東区。
「両親とも在日韓国人なんです。ですからボクも小学校から高校まで朝鮮学校に通っていました。兄弟は二人、2歳上の兄がいます」。兄は日本の大学を卒業し、23歳の頃からアメリカ、ドイツで暮らし、現在はパキスタンで生活しているとのこと。
「小学校5年のときかなぁ、両親が離婚したんです。兄とボクは母親に引き取られ育てられました」。
父親との別れ、お好み焼き店を経営している収入で二人の子育てに全力を傾注した母親との生活。
「衣食住には困りませんでしたけど、貧困家庭でした」。また在日韓国人であるがゆえに味わった辛さ、差別など多くを語ることはない。
―差別的なことって?―
「就職では不利でした。たとえばパチンコ店、朝鮮韓国系の金融機関、不動産業など仕事の道が狭く限られていました。現在は改善されたのかも知れませんが、いわゆる大手企業や公務員、金融機関などでは就職試験を受けることすらできなかったですから」。
子どもの頃は、どんな子だったのだろう。
「勉強は嫌いでしたね。大体、勉強した記憶がないですよ、頭悪かったし……」と語るが、“頭が悪い”というのは謙遜で、真に受けるわけにはいかない。また、勉強が嫌いで学業成績が芳しくないからといって卑下する必要もない。
「学校は友だちに会いに行く場所でしたし、暴走族を相手に喧嘩ばかりしていましたね。 
それと、小遣い稼ぎを目的にアルバイトをしていましたね」
―ところで、サッカーが好きだったということですがー
「ええ、好きでした。サッカー選手になりたかったですね。ただ、高校生にもなると自分の実力が分かってくるんですね。いつのまにかサッカー選手になるという夢は消えました」。
高校卒業後、勉強嫌いでサッカー選手の夢が消えた呉氏が次に選んだのは、大学受験のため予備校に通うこと。
「サッカーに熱中していたばかりに基礎的な学力がなく、ついて行けなくなってしまいました」。半年で予備校を中退。知り合いの会社が経営していたビリヤード屋では働くことになった。

不動産会社経営から考えもしなかった飲食業経営に。

ビリヤード屋で働くことになった呉氏に迷いが出た。「このままでいいのか……」
「2年ほどアルバイトしていたのですが20歳くらいになったとき、“ちゃんと就職しなくては”と考えるようになりました。ビリヤード屋が嫌だとか、続けられそうにないとか、そんな気持ちではないんですけれど……」。
―ある意味では揺れていたようですが、どなたかに相談されたのですか?―
「職場の先輩に包み隠さず相談しました」。
―先輩はなんと?―
「“今は不動産の景気がいいから不動産をやれば”と……。時期としてはバブル全盛期か、その少し前、バブルの兆候が見えだした時期です」。
―いわゆるサラリーマンですか?―
「まぁ、スーツを着て仕事がしたかったという気持ちもありましたね」。
こうした経緯を経て不動産屋に就職するのだが、就職にあたってちょっとした試練があった。否、理不尽な扱いを受けた。
「先ほど、在日朝鮮人ということで差別的な扱いを受けたことがあったと言いましたが、あからさまな差別を受けたんです」。
―どういう差別ですか?―
「B-ing(ビーイング)という就職専門誌があり、その中から選んで応募したのですが、朝鮮人というだけで7連続、落とされたんです。ところが日本人の友人の履歴書内容で応募したら一発で受かったんです。世間の風は冷たく露骨な差別ってあるもんだと知りました」。
高校を卒業してビリヤード屋から不動産屋。今度は、不動産屋が倒産してパチンコ屋と予期せぬ転職が続いた27歳のとき、不動産事業に本腰を入れる覚悟で「アセット・インベスター」という社名の不動産会社を2003年9月、友人と立ち上げた。後日、この会社が株式会社ユニバーサル・ダイニングの母体となった。
この時点では飲食業の「い」の字も考えたことがなかった、むしろ忌避していた感さえあった呉氏が、皮肉なことに不動産業に取り組んだことで飲食業に進むことになった。

・・・続き

株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏

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2024年4月1日月曜日

4月1日、今期がスタートしました。

4月1日、キイストン33期目の2024年度がスタートしました。前期も昨年に続き、おかげさまで黒字で終わりそうです。

今期は各部署で目標決め、自分たちで考えていけるように頑張ってくれてます。

『「キイストンだからこそ」を追求し続け飲食業界になくてはならない企業になる~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~』

営業マンを最低2人、理想では3人くらいほしいです。

営業マンが少なくてもちゃんと売上は作れるようになってきましたが、若くて次世代を担う人材を採るぞ!!

「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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