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2024年4月10日水曜日

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

本文より~

サーファーならだれもが知っている「ジャスティスサーフボード」。

サーフィンを好む人なら誰でも知っているらしい。今回、ご登場いただいた南澤さんの父親が起業された「ジャスティスサーフボード」。日本発祥のブランドではではいちばん有名だとのこと。
もっとも南澤さん自身はサーフィンをしないというから、親子といっても趣味がちがう。本社を地図で探すと、房総半島の付け根にあった。1時間程度で、外房に行けるとのこと。
企業の沿革は以下の通り。
1983年11月「Radix surf shop」オープン。1992年1月「justice surfboard」設立。2001年12月「音波 勝田台店」オープン。2003年9月「音波 千葉富士見店」オープン。2014年11月「音波 船橋店」オープン。2016年1月「日本再生酒場 千葉富士見店」オープン。2018年5月「バイロンベイミートパイファクトリー」スタート。
南澤さんは現在「音波」などの飲食事業に注力している。今後は、基本、飲食をメインに事業を進めるとのこと。ホームページをみればわかるが、主要ブランドの「音波」は「波をイメージした大人の上質な空間」だ。
さて、事業の紹介はこれくらいにして、いつも通り南澤さんにスポットをあて話を進めよう。
南澤さんは1989年6月16日、千葉県の八千代市に生まれる。
中学受験し、東邦大学付属東邦中学に進んでいる。千葉県トップクラスの進学校である。
「いとこに刺激されて私も中学受験をします。東邦大学付属東邦は中高一貫制で医学部に進む生徒が多い学校です」。
「私自身は、医学に進むというよりも」と笑う。
なんでもゲームセンターが南澤さんの中学時代のステージ。ゲームが相棒だった。この頃の体重はすでに80キロ。堂々たる体躯だが、コンプレックスもあったそうだ。原因は「レモンティの飲み過ぎ」といってこちらを笑わせる。
「東邦は進学校だったんですが、私からするとランクを落として受験した学校だったので、1年生の頃は成績も上位だったんですが、2年生の頃からね」。
苦笑するその表情からもなんとなく、南澤さんの青春の1ページが想像できる。

中央大学から東京工業大学大学院へ。

「今は65キロくらいなんですが、高校時代も80キロ。レモンティと言いましたが、中学時代から父親に外食によく連れて行ってもらったので、それも原因の一つのような気がしています」。
好きな食べ物は?と聞くと、「唐揚げに餃子」との答え。とにかく、食べることが好きだった。
大学は中央大学。
「理工学部です。今の体格になったのは大学時代で、めちゃめちゃ痩せました」。甘い恋がダイエットにいい、というようなキャッチフレーズを書いた著名なコピーライターがいたが、もしかすると女子を意識しはじめたからかもしれない。
「大学まではこれといった目標はなかったです。サーフィンが大好きな父親のような趣味もなかったし、どちらかというと将来、大手に就職できればいいなと漠然と思っていたくらいです」。
父親の事業にも、関心はなかった。
「中央大学を卒業したあとは東京工業大学の大学院に進みます。この頃は、ちょっとした学歴コンプレックスがあった気がします」。
中央大学で学歴コンプレックスと言われると、こちらの立場がない。
「当時偏差値でいうと70くらいの高校だったもんですから、私立なら早慶です。私も当然、早慶狙いだったんですが、見事、不合格。1年間、浪人して再チャレンジしたんですが、けっきょく中央だったんで(笑)」。
そう聞くと、わからなくもない。頭のいい人は、いい人なりに悩みがあるんだろう、と納得する。
「大学では、テニスサークルに入って、キャンパスライフを謳歌します。スリムになったことで、春もやってきましたし(笑)」。
<人生の波に乗り始める?>
「そうですね。女性との付き合いも、いい意味で人生の肥やしというか、そういうものになっていますね」。
ちなみに、南澤さん。
ジュノンボーイになり損ねている。
「原宿とかで声をかけてもらうことがけっこうあったりして。ジュノンのオーディションを受けて。残念なことに不合格でした」。
特技を披露することになっていた。頭が真っ白になって、「今でも何をやったか、思い出せない」そうだ。むろん、こちらも青春の1ページ。もっとも人生の勝負は今から。

・・・続き

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏

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2023年3月30日木曜日

株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏登場。

本文より~

中学1年の合唱コンクール。阿部少年、指揮者に任命される。

「小さい頃から恥ずかしがり屋で泣き虫、おとなしい子だったので、『指揮者』と言われて、むちゃくちゃ緊張しました。でも、それがきっかけになって、人前に出るのが、恥ずかしいどころか、楽しくなってきたんです」。
今の阿部氏を知っている人からすれば、「泣き虫、おとなしい」と言われてもぴんとこない。とにかく、快活で、話がうまい。
阿部氏が生まれたのは1974年。
兄妹は2つ離れた妹が1人。お父様はタクシー運転手。「料理人だった頃もあるそうですが、私がものごころついた頃にはもうタクシー運転手でした。だから、母子家庭みたいだったですね」と笑う。
お母様は快活で、頑張り屋さん。
仕事を楽しむ才能がある人で、職場の評価も高かったらしい。「私はどちらかというと母親似」と阿部氏。たしかに、阿部氏の語り口調を聞いていると、そんな気がする。何をするにも一生懸命。そんな性格も似たんだろう。
「小・中は野球。母がバレーをやっていたこともあって、高校でバレーをはじめます。ほんとはラグビーをしたかったんですが、ラグビー部がある高校に落っこちちゃって笑」。
バレー部は、案外、ゆるかった。高校2年時で学級委員を務める優等生だったが、喧嘩がもとで停学になって、学級委員も首になったそう。学級委員長を首にするとは、案外、学校も容赦がない。

帝京大学、ラクロス部。

「現役の時は、すべて合格する予定だったんですが、ぎゃくに全部アウト。1浪して、帝京大学に進みます」。
ラクロスに出会ったのは、その時。
もともと運動神経はいい。
「学生時代はラクロス三昧です。帝京大学は強豪と言われていて、私たちの代はとくに期待されていたんですが」。なんでもチームワークがなく、結果が残せなかったそうだ。
「1人1人はすごいんですが、そのぶん、勝手なプレーが目立って。でも、当時の仲間とは今でも仲がいいですよ」。
ラクロスは、あまりなじみがないので調べてみた。
ウイキペディアによれば、「クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて直径6cm・重さ150gの硬質ゴム製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う球技の一種で、カナダの国技とされている」んだとか。かなりはげしい競技のようだ。まったく違った競技だが、高校でやりたくてできなかったラグビーとどこか似ている気もしなくない。

就職先は、東京トヨペット。

ラクロス三昧の大学生にも就活はやってくる。 「父親の助言がありがたかった」と、阿部氏は就活時代を振り返る。
「就活はまじめにやったんですが、『これをやりたい』というのがなかったんですね。『やりたいこと』を探しても、ぜんぜんなくて焦るじゃないですか。でも、父の『衣食住に関わることなら、くいっぱぐれがない』の一言に救われたんです」。
「くいっぱくれがないなら、それでいい」と肩の荷が下りたのかもしれない。くいっぱぐれがない。いうなら、食べるためにはたらく。はたらく行為の原点でもある。
それで、最終的には、東京トヨペットに進まれるんですよね?
「そう、衣食住にちかいでしょ。トヨタ系のカーディーラーはいくつか受けたんですが、いちばんグレードが高いのがトヨペットだったんです」。
あるディーラーの面接官に「君ならどこでも受かる」と太鼓判を押されている。
当時、飲食の道は全く考えてなかったんですか?
「衣食住の食ということで、ビール会社とかは受けましたが、飲食はまったく視野になかったですね」。
たしかに、そういう飲食経営者も少なくはない。飲食のスイッチが入るタイミングは、人、それぞれ。
「営業成績はトップクラスでした。車を売るのも、飛び込みも好きだったので、マッチしていたんでしょうね。学生時代は『社長になりたい』なんてまったく思ってなかったんですが、この頃から社長業に関心が向くようになりました」。
車種同様、お客様のグレードも高かったから、刺激も受けたんではないだろうか

楽コーポレーション入社。半年で逃亡す。

「ともだちと『独立したいよな』なんて言いながら酒を酌み交わしていたのも、この頃です。もっともこの頃の動機は『ベンツに乗りたい』でした笑」。
青年の志は、酒とともにあったが、真剣だった。それも事実。
「その時、私たちが通っていたのが、楽コーポレーションの卒業生がオーナーのお店だったんです。毎夜、『独立』って話をしていて、『飲食はどうだ?』なんて言っていたので、その話を聞いていたオーナーが『真剣なら、楽コーポレーションを紹介してやろうか』って言ってくださったんですね」。
その時には、もう飲食だったんですね?
「そうですね。飲んで楽しむことが好きだったから。だったら、飲食がいいんじゃないかって思って」。
楽コーポレーションと言えば、何人もの経営者を輩出している。この飲食の戦士たちでも、何度もその名が登場している。代表の宇野氏は現場が大好きな名伯楽だ。
「そうなんですが、最初に言っておくと、せっかくご縁をいただいたのに私は半年で逃げ出しています」。
どうしてですか?
「だって、カップラーメンしかつくったことがないのに、賄の担当になって、毎日、ちがう賄いをつくらなければいけなかったんです」。
8人分だったらしい。「恵まれていた」という一方で、「それが、むちゃくちゃたいへんだった」とも言っている。「たった半年ですが、私の料理の原点は、間違いなく楽コーポレーションです」。
半年だったが濃厚だった証ですね?
「その通りです。つぎに東京海上に転職して、改めてサラリーマン生活がスタートします。でも、いったん、楽コーポレーションで飲食の世界をみちゃいましたからね」。

オーストラリアからの、「い志井」。

「東京海上も退職し、オーストラリアに渡って1ヵ月、自分探しの旅にでます」。なんでも、自宅のトイレに貼ってあった世界地図をみて、オーストラリアのエアーズロックに行こうと思ったそう。
オーストラリアでは、レンタカーを駆っていろんな街をみて回る、もちろん、ゴールはエアーズロック。
「エアーズロックに行って、ベンツなんてアホくさって思って」。
仰げば、吸い込まれるような青空。
「空のなかでは、太陽や月が、いったら主役ですよね。でも、私はそのバックに広がる大空をみて、大空みたいな、人間になりたいなと思ったんです」。
「あれが、間違いなく今につづく道のスタート地点です。帰国して、ふたたび飲食の世界にとびこみます」。
株式会社い志井が、つぎのステージ。
「楽コーポレーションの時も、賄はイヤでしたが、接客は大好きだったんです。もともと、営業は得意だったし、楽しかったですからね」。配属されたのは、「新宿ホルモン」。まだ、ホルモンがポピュラーじゃない頃だったが、月商を伸ばしまくる。
「半年でうちを逃げ出したあいつでも…」と、楽コーポレーションのなかで話題になり始めたのはこの頃だろうか。立ち飲みブームの起点となった「日本再生酒場」の立ち上げにも携わった。店長の前に「カリスマ」という言葉が添えられる。
「楽コーポレーションの時もそうですが、い志井でも、たくさんの素晴らしい人と出会いました。それが、今の私の財産です」。

・・・続き

株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏

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