2019年6月16日日曜日

経営革新計画進めています。

業務の幅広げるため、経営革新計画進めています。
新たな業務もコツコツと実績作って、大きな柱になれば…。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年6月12日水曜日

ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 佐藤治彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 佐藤治彦氏登場
本文より~

野山と虫取りと。

1961年、大分県大野市三重町(現/豊後大野市)に生まれる。野山を駆け回り、虫取りにハマり、虫かごはいつも一杯だった。今回、ご登場いただいたジローレストランシステム株式会社、代表取締役社長、佐藤治彦氏の子どもの頃の記憶である。中学から軟式テニスをはじめ、郡でもそれなりに有名になった。
「高校は30キロ離れた竹田というところの高校に進学します。電車通学ですが、ときにはバイクでも通学していました。距離があるから許されていたんです」。
むろん、テニス部に入ったが1年でテニスを辞めた。テニスに集中できる環境でなかったことが理由である。おかげで、ぷくぷくと太り、体重は21キロ増になった。大学は、一浪して、明治大学へ。
農学部というから、野山を駆けた子どもの頃とだぶったりもする。
もちろん、この頃、「飲食の戦士」になるとは想像もしていなかった。「父が公務員、母が看護師だったからでしょう。弁護士や教師をめざすように言われていました。内心、いやだなとは思っていたんですが、まさか、飲食会社で社長になるなんて。たしかに想像外ですね/笑」
とはいえ、料理人をめざしたこともあったそう。「両親がいそがしくて。うちは料理が当番制だったんです。ええ、私の番もあって。料理って楽しいなとも思っていたんです」。
めざしていただけではなく、じつは大学時代、一度、アルバイトだが面接にも臨んでいる。「たぶん、いきがってパーマをかけていたのがアカンかったんでしょうね。ハイ、すんなり不合格です」。
だから、スイッチはまだ入らない。

小田急電鉄。

味の素などの食品メーカーを狙っていた。就活の話である。
「農学部ですからね。食品メーカーがいいかな、と」。しかし、実際に就職したのは、まったく異分野の鉄道会社、小田急電鉄株式会社である。
「たまたま、うちの学部に求人が来ていたんですね。ためしにエントリーしたところ、創業者が大分出身ということもあったんでしょう。無事、内定をいただきました」。
ただし、電鉄といっても採用されたのは園芸関係の総合職。実は、この仕事、定員はたった1名。佐藤氏が第1号で、それ以来、募集が行われたこともないらしい。「そうなんです。私が最初で、最後です/笑。もっとも、フラワービジネス自体は以前からつづいていて、本店の年商は4億円超。業界ではトップクラスです」。
以来、16年間、「花」のセールスをしていたという。どこに、どんな風に営業していたんだろう。「市場にも行ったし、海外から仕入れもした」そうだ。
「17年目から、電鉄の営業推進部に3年在籍します。むろん、大事な仕事ではあったんですが、私には性に合わなかったんでしょうね。商品を生み出す仕事に興味がわきました。そんな頃からですね。飲食をやってみたいなと思いだしたのは…」。

出向先は、ジローレストランシステム。

「食べることが好きだから」と佐藤氏はいう。多少のコネもなくはなかった。「当時、すでにジローレストランシステムは、小田急の子会社だったんです」。調べてみると、1994年に、小田急電鉄が筆頭株主になり、子会社化している。
「当時の社長が、荒井さんといって、電鉄からの出向者です。昔から知っていて良くしていただいていたんです。私なりの貢献方法として、ジローレストランシステムの店舗に足を運んではレポートを書いてお送りしていました。素人の意見ですが…。そういう積み重ねを経て、荒井さんに相談させていただいたんです」。
「たたかう準備ができました」。佐藤氏は、荒井氏を相手に、そう呟いたかもしれない。
むろん、小田急電鉄という大組織で生き残るのは難しい。それは、間違いない。ただ、飲食は、それ以上と言ってもいいのではないか。たたかわない者は、生き残ることすらできないのだから。
「ハイ、私も、出向です。でも、もう15年。出向というには長すぎますね/笑」。

2019年、社長就任3年目。


ジローレストランシステムに出向して15年というから、辞令が下りたのは2004年くらいのことだろう。
ホームページで調べてみると、<2004年、マ・マーフーズ株式会社を吸収合併し『サンレモ』4店舗を直営店とする。ピッツェリア『マッテオ』オープン/2005年、リストランテ『アベーテ』、豚肉料理専門店『豚道楽』オープン/2006年、カフェ『カフェ イル モ』、ピッツェリア『インテルヴァッロ』、パスタハウス『ラ コルタ』『トマティーナ』オープン、2007年/イタリア トスカーナのワイナリー・リストランテ『バディア ア コルティブォーノ』と業務提携し、1号店をオープン>とつづいている。
2019年5月現在で、社長に就任し、3年目を過ごしている。
「就任1年目は苦労しました。ただ、昨年の決算では、既存店が前年比100%をクリアしたんです。これは、過去30年くらいはなかったことじゃないかな、と。既存店の数字は、なんといっても営業努力の表れですからね」。
佐藤氏は、誇らしげに笑う。
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株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏登場
本文より~

オヤジは、星一徹。

「星一徹みたいな親父」。村岡氏は、父親のことをこう表現する。食事のときに正座しないと殴られる。左官職人として、中学卒業時より丁稚奉公に出ており、昔ながらの頑固一徹、その環境下の中で育ったそうだ。
「私は、山口県のコンビナートの街、徳山市(現/周南市)で生まれました。1968年ですから、当時の徳山市はコンビナートに囲まれ、街の中心地はデパート、商店街と活気づいてた時代でした。徳山市は、山あり、海あり、川あり、と中心地から外れるとド田舎で、野球や、「アアァ~」って、そうターザンごっこもしました。」。
とにかく、幼少期は遊び盛り。勉強には目もくれない問題児だった。
「小学2年生の頃、母が乳がんで入院していた時期があり、その時ですね、おやつを食べたくて料理のマネ事というか、焦げたホットケーキを作った覚えがあります」。
むろん、料理人になるとは思ってもいない。
ただ、源流は案外、ここかもしれない。
中学生になってからは、テニスに没頭。学業は万年ビリから2番目だったが、幸か不幸かキャプテンに選ばれた。高校もかろうじて公立高校へ進学し、テニス部に入部。
「高校でも勉強はしませんでしたがというより、中学以上に勉強が分からなくて、毎日放課後マンツーマンでの課外授業が毎日の日課でした/笑」。
青息吐息で、卒業する。

「センスがある」とほだされて。

「高校時代のもう一つの思い出が、高校2年生から始めたアルバイトです。ええ、そのバイト先がその後の人生を左右する『中国料理 敦煌』です」。村岡氏によれば、当時から街で有名な中国料理店だったそうだ。
部活が終わると自転車をこぎ通う。当時の時給は450円、月2万円くらいにはなった。
「職場ですか? そうですね、当時の職人同士の喧嘩はしょっちゅうでしたが、バイトには優しいんですよ。当時私は16歳、大人の世界を始めて垣間見た瞬間でした」。
「バイト始めた半年は鍋洗いだったんです。でも、だんだん仕込みや、デザートまでさせてもらって、良く厨房の方に「センスあるな」なんて、みんなからヨイショされていい気になってね。考えてもみなかった料理の世界へと足を踏み入れたんですよ/笑」。
ただし、「センスがある」といった先輩は、あながちヨイショだけでいったのではないかもしれない。なにしろ、村岡氏はやがて総料理長を務めるようになるのだから。

いきなりの宣言。「今日から会社がかわります」。

もう一度言うと「敦煌」山口県中心に展開する老舗中国料理店である。歴史を少しだけ追ってみる。創業は1956年「五平太食堂」を開業したことに始まる。1966年に「株式会社五平太」を設立して法人化。1995年には、広島証券取引所に上場している(当時の社名は株式会社パオ)。その当時で中国料理敦煌は13店舗まで拡大。村岡氏は1986年新卒で入社している。当時の初任給は10万円、手取りで8万円くらいで、入社した初めの月だけ残業手当がつき、手取りで18万円もらえたが、その後は残業もつかなくなり、しばらく手取り一桁が続いたそうだ。
「当時はお金がなく、休みのたびに近所の魚屋へ魚をさばきに行っておこぼれをもらったり、近隣の敦煌へ賄いの時間を狙って「手伝いに来ました!」と賄いをごちそうになったりもしました」。
ジー・コミュニケーショングループ入りしたのが2006年。その時村岡氏は30歳。突然「本日よりジー・コミュニケーショングループ」となります」と宣言されたそうだ
そう、М&Aである。当時厳しい状況に置かれてた株式会社パオは、ジー・コミュニケーショングループとなり、会社が変わったのである。その時、社長に就任されたのが阿久津氏である(現株式会社ジー・テイスト代表取締役)。
たしかに、不安にならないほうがおかしいだろう。「翌日から改革ですと言われても。。。」。
改革の嵐はすさましく、結果もすさましかった。赤字続きの会社が翌年から右肩上がりのように増収増益で黒字化、現場はとにかくFLの徹底。無駄な経費の洗い直しの日々。現場は耐えきれず、去っていく人も多数。
村岡氏自身も日々変革の波に飲み込まれ様々な葛藤が続いたとのこと。従来の職人の勘に頼った経営から、綿密な計画の基に経営手法が変わったことで職人もきちんと数字が見れるようになったそうだ。

総料理長村岡氏、社長になる。

村岡氏も気づけば、総料理長の立場となり現場に立っていた。
この子会社、株式会社敦煌の社長に抜擢されたのが、総料理長だった村岡氏だった。肩書も料理長→エリアマネージャー→ゼネラルマネージャー→営業部長兼総料理長と、役職を重ねて行った。
ところがある日、来期から社長に就任させるから・・・と。
耳を疑った。「どういうこと?」
子会社にし、代表取締役として旗を振ってほしいと打診が来たのが2017年12月。3か月後には株式会社敦煌として設立するとのこと。
こうして2018年4月2日【株式会社 敦煌】が生まれ、村岡氏も代表取締役兼総料理長として就任した。
ここまでの道のりは平たんなものでは無い事は言うまでもない。経営悪化による、閉店、同じ釜の飯を食った同僚たちのリストラ等…
「ときには荒行もやった」と語るとき、唯一、言葉が乱れた。
・・・続き
株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏
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2019年6月9日日曜日

身体をフル充電!

土日の休みにしっかり身体の充電。
ハイチャージNEOと酸素カプセルでフルチャージ!!
そして天然温泉に…。


2019年6月5日水曜日

株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場
本文より~

父も母もアマチュアオーケストラの奏者。

「らーめん」には顔があるといったら、「何をいってんだ、こいつ」と思われるかもしれないが、不思議とそう思ってしまう。とくに旨いらーめんは、いい表情をしている。
今回もまた、いい表情のらーめんと出会った。「焼きあご塩らー麺 たかはし」のホームページのメニューを観れば、私が言っていることも理解いただけるだろう。
品があるといったら失礼か。器もいい。具材もいい。いい、彩をしている。
この「焼きあご塩らー麺 たかはし」を経営しているのが、株式会社ヒカリッチアソシエイツの代表取締役、髙橋夕佳氏だ。
髙橋氏は、新潟市出身。28歳という若さで、起業している。
「父は、新潟ではそれなりの会社の2代目社長で、アマチュアですが、オーケストラの奏者です。母もおなじアマチュアオーケストラの奏者で、音楽の教師もしていました」。
髙橋氏も両親の影響を受け、小さな頃からピアノを習っている。裕福な家庭で、家族旅行もグアム、バリ、アメリカ、韓国など、海外へでかけている。
「勉強もできたほうです。小学3年から家庭教師がいたわけですから、できないとおかしいですよね。高校は新潟市内の進学校に進みます。大学は、新潟大学の音楽科です」。
最初は、絵に描いたようなお嬢様かと思ったが、そうでもない。骨もある。小・中・高と、応援団で副団長を務めたというエピソードからも想像いただけるだろう。英才教育をうけた音楽の道ではなく、東京にでて、ビジネスの世界に飛び込んだのも骨がある証かもしれない。
ともかく、大学を卒業すると、新潟を脱出。大手デベロッパーに就職する。

3児の母、起業する。

「デベロッパーで大きな仕事をするぞ、キャリアを積むぞって意気込んでいたんです。でも、1年目の10月末で退職します」。
どうして?
「じつは、子どもができたんです/笑」。
葛藤はなかったのだろうか?
「なかったと言えば、どうでしょうね。新潟の田舎の小娘にも、だんだん社会がわかってくる時期でしたから。ただ、わりと早く切り替えられました。23歳でしたし、20代で社会復帰すればいいじゃないかって、思って」。
キャリアウーマンのはずが、妻となり、いっときは新潟にもどっている。おかげで、3人の子宝にめぐまれた。それでも、髙橋氏は起業の道を選択する。
「そういう性分なんでしょうね。たとえば、新潟にもどると、専業主婦として平穏な毎日が続くわけです。それがストレスで、どうしようもなかった/笑。それで、もう一度、主人を説得して東京にきます。そして、28歳で起業。3人のママと、妻と、経営者のスタートです」。
どうして、らーめんだったのかと問うと、「もともと主人がラーメン店で仕事をしていたこともあるんですが、私も主人に連れられていっしょにらーめんを食べ歩いていたんですね。ある時、何かがひらめいて、『関東にないラーメン。これならいける。勝負しようと』と決意したんです。わりと簡単にスイッチが入るタイプなんですかね/笑」。そして、株式会社髙樹食研(現ヒカリッチアソシエイツ)を設立する。

開業が、ままならない。


髙橋氏が「関東にない」といったのは、トビウオから出汁を取った焼きあごのらーめん。新潟や山形にはラーメンの名店が複数ある。「これなら勝負できると思ったんです。もちろん、私自身は、経営も知らない素人なんですが、ひらめきですよね。それを大事にしたいと思いました」。
もっとも潤沢な資金があるわけではなかった。父親に借財を申し込んだが、にべもなく断られる。事業計画書を作成したが、銀行の融資は通らず、物件も決まらない。ご主人の親族が、貸してくれた350万円。軍資金はこれだけだった。
「350万円の軍資金で、開業できるお店を探します。もちろん、生活費でお金はでていくばかりです。だから、お店を探す一方で、派遣に登録し、生計を立てていました」。
1年経ったある日、ようやく低コストで出店できる「茗荷谷」の居ぬき物件に巡り合った。そして、2012年に1号店を開業する。
この1年間はなんだったんだろうか? ひょっとすれば、髙橋氏の思いを試す1年だったのかもしれない。計画通りには進まなかったが、思いは希薄することなく、むしろ、日々、凝縮されていった。1号店がオープンしたその日。髙橋氏は、天にも昇る気分だったのではないだろうか。
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2019年5月31日金曜日

5月29日、青山学院大学の堀内ゼミにて火の魂カンパニーの野沢社長に講義していただきました。

5月29日今期最初の講師として、火の魂カンパニーの野沢社長に朝イチ9時の講義にも関わらず、宇都宮から来て頂きました。
 2012年から飲食経営者と学生をつなぎ、飲食業界の奥深さを知ってもらおうと青山学院大学の堀内先生にお願いして始まった飲食経営者によるゼミ講義ですが、
堀内先生がご定年ということで、2019年度をもって最後のゼミ講義となりました。
(堀内先生と野沢社長 正門前にて)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年5月29日水曜日

阪神食品株式会社 代表取締役 檜谷 進氏登場。

本文より~

島根県益田市匹見町。

「昔は、雪も1メートルは積もった」と、今回ご登場いただいた檜谷進氏は笑う。1949年生まれ。出身は島根県益田市匹見町。檜谷氏いわく、「中国山脈のど真ん中」。
地図で調べてみると益田市は島根県の西部で一部が山口県と接している。海にも面しているが、中国山脈のど真ん中というから、檜谷氏が育ったのは山間部のほうなのだろう。
「うちは、檜谷板金工作所っていう看板を掲げていました。もっとも堂々たる看板を掲げていても、社員は、社長の親父とお袋と、私です」。
檜谷氏は、7人きょうだい。「兄もいたんですが、兄は勉強ができたから、そっちは兄に任せて、私はうちの手伝いです/笑」
坂道を駆け上がったり駆け下りたり、海や川での素潜り山での収穫物体験自然のいとなみを十分堪能していました、記憶は曖昧と言いながらも、そのいくつかの思い出は、今も檜谷氏の財産だ。
「貧しかったですが、それを苦に思ったことはなかったですね。やがて、地元の工業高校に進むんですが、うちの手伝いは高校になってもつづけます。だいたい昼の3時くらいに学校が終わるでしょ。走って帰って、6時くらいまで仕事をしていました。手先は器用ではなくやらなければならないのでやっていました。
いま、益田市を写真でみると地方都市という風情だが、当時は檜谷氏がいう通り片田舎だったのだろう。高校を卒業した檜谷氏は、集団就職で都会にでる。「昔は、集団就職っていうのがあってね。文字通り、集団で都会に出て就職するんです。会社は予め決められています」
蒸気機関車。ボーと汽笛が鳴る。益田を離れる同級生と2人、何をしゃべって就職先がある大阪に向かったのだろう、覚えている事は「一旗上げんと帰れんのうと!!」。

プロボクサー。生涯ファイトマネー、4000円。

「ボンベに水素ガスなどを充填する仕事に就きました。2年くらいその仕事をつづけて、つぎはカフェでアルバイトです」。
「じつは、私、プロのボクサーだったんです」とこちらを驚かす。
「もっとも、リングに上がったのは25歳の時。ただ、それ一回きり。そう、一戦で、引退です。ファイトマネーは4000円でした/笑」。
奥様と出会ったのは、21歳の頃。リングを下りた檜谷氏、すでに子どもがいた。
「正直いうと、怖かったんです。後輩の顎が割れたのも、観ていましたし。でも、男の子どももいたでしょ。だから、一回は、プロのリングに上がらんと親としての格好がつかんと。で、上がったもんだから、もういいだろうって。それで、当時のバイト先だった株式会社加ト吉(現テーブルマーク株式会社)に就職します」。
「マネキン」といったそうだ。
「じつは、加ト吉でエビフライの試食販売の売り子(これがマネキン)のバイトをしていたんです。案外、これがうまくいって。アルバイトの時から一目置かれていました。その加ト吉を8年半で退職します。理由ですか?転勤できなかったんです。転勤したら、大好きなソフトボールを辞めなければならなかったから/笑」。
ジョークかとも思ったが、そうでもないらしい。ソフトボールは29歳から56歳までつづけ、「なみはや国体」にも出場されている。つまり、筋金が入っていたわけだ。
「そうですね。子どもの頃から勉強は苦手だったけれど、スポーツは万能でしたね。何しろ、中国山脈を根城にした野生児ですから/笑」。

「6年4組」。

会社は辞めたが、加ト吉との付き合いはつづいた。「取引先として、独立させていただくんです。独立1年目に1億円の売り上げを上げることができました。現在、39期目です」。
余談だが、1年目1億円をあげたときは、奥様と2人。売上額は異なったが、まるで昔の父親と同じだ。翌年、奥様の弟が参加。以降1年に1人は採用したが、じつは赤字つづきだったそう。
「交際費を年に300万円くらい使っていました。給料はちゃんと支給しました交際費が原因だってわかっていましたから。でも、10年間、そんな具合だった」。
数年経てば、社員は辞めた。つづかない。檜谷氏のかみなりが落ちるからだ。「私の問題です。ついつい、いらないことまでいってしまって創業者にある共通点です。今は、もうぜんぜん違うんですがね」。
まだまだ校長になれていなかった頃の話だ。
さて、今回、飲食の戦士たちにご登場いただいたのは、メディアなどにも度々取り上げられている「6年4組」のお話しもお伺いしたかったからである。
「これはね。親と子が教室で食事をするイメージで出店した居酒屋です。ノスタルジーというのか、小学生の頃にもどって楽しめるわけです」。
モデルは12歳のとき、父親の仕事を手伝いながら休憩時間に眺めていた益田市の岩倉分校だという。調べてみると、もう、廃校になっていたが、たしかに、昭和の温もりがあった。
ちなみに、「6年4組」は東京、大阪、名古屋、福岡にも分校がある。ホームページにある「皆さんの通学区域にあわせて、分校がたくさんあります」という一文も、なかなか気が利いている。
じつは、今、飲食事業も、阪神食品グループの一つの柱だ。
「6年4組」以外にも、「元祖343鮨」「割烹焼肉 松永牧場」「堺筋本町給油所(注意/ガソリンスタンドではない)」島根県浜田市と提携した「山陰浜田港」などユニークな店を展開されている。
・・・続き
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