2019年6月5日水曜日

株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場
本文より~

父も母もアマチュアオーケストラの奏者。

「らーめん」には顔があるといったら、「何をいってんだ、こいつ」と思われるかもしれないが、不思議とそう思ってしまう。とくに旨いらーめんは、いい表情をしている。
今回もまた、いい表情のらーめんと出会った。「焼きあご塩らー麺 たかはし」のホームページのメニューを観れば、私が言っていることも理解いただけるだろう。
品があるといったら失礼か。器もいい。具材もいい。いい、彩をしている。
この「焼きあご塩らー麺 たかはし」を経営しているのが、株式会社ヒカリッチアソシエイツの代表取締役、髙橋夕佳氏だ。
髙橋氏は、新潟市出身。28歳という若さで、起業している。
「父は、新潟ではそれなりの会社の2代目社長で、アマチュアですが、オーケストラの奏者です。母もおなじアマチュアオーケストラの奏者で、音楽の教師もしていました」。
髙橋氏も両親の影響を受け、小さな頃からピアノを習っている。裕福な家庭で、家族旅行もグアム、バリ、アメリカ、韓国など、海外へでかけている。
「勉強もできたほうです。小学3年から家庭教師がいたわけですから、できないとおかしいですよね。高校は新潟市内の進学校に進みます。大学は、新潟大学の音楽科です」。
最初は、絵に描いたようなお嬢様かと思ったが、そうでもない。骨もある。小・中・高と、応援団で副団長を務めたというエピソードからも想像いただけるだろう。英才教育をうけた音楽の道ではなく、東京にでて、ビジネスの世界に飛び込んだのも骨がある証かもしれない。
ともかく、大学を卒業すると、新潟を脱出。大手デベロッパーに就職する。

3児の母、起業する。

「デベロッパーで大きな仕事をするぞ、キャリアを積むぞって意気込んでいたんです。でも、1年目の10月末で退職します」。
どうして?
「じつは、子どもができたんです/笑」。
葛藤はなかったのだろうか?
「なかったと言えば、どうでしょうね。新潟の田舎の小娘にも、だんだん社会がわかってくる時期でしたから。ただ、わりと早く切り替えられました。23歳でしたし、20代で社会復帰すればいいじゃないかって、思って」。
キャリアウーマンのはずが、妻となり、いっときは新潟にもどっている。おかげで、3人の子宝にめぐまれた。それでも、髙橋氏は起業の道を選択する。
「そういう性分なんでしょうね。たとえば、新潟にもどると、専業主婦として平穏な毎日が続くわけです。それがストレスで、どうしようもなかった/笑。それで、もう一度、主人を説得して東京にきます。そして、28歳で起業。3人のママと、妻と、経営者のスタートです」。
どうして、らーめんだったのかと問うと、「もともと主人がラーメン店で仕事をしていたこともあるんですが、私も主人に連れられていっしょにらーめんを食べ歩いていたんですね。ある時、何かがひらめいて、『関東にないラーメン。これならいける。勝負しようと』と決意したんです。わりと簡単にスイッチが入るタイプなんですかね/笑」。そして、株式会社髙樹食研(現ヒカリッチアソシエイツ)を設立する。

開業が、ままならない。


髙橋氏が「関東にない」といったのは、トビウオから出汁を取った焼きあごのらーめん。新潟や山形にはラーメンの名店が複数ある。「これなら勝負できると思ったんです。もちろん、私自身は、経営も知らない素人なんですが、ひらめきですよね。それを大事にしたいと思いました」。
もっとも潤沢な資金があるわけではなかった。父親に借財を申し込んだが、にべもなく断られる。事業計画書を作成したが、銀行の融資は通らず、物件も決まらない。ご主人の親族が、貸してくれた350万円。軍資金はこれだけだった。
「350万円の軍資金で、開業できるお店を探します。もちろん、生活費でお金はでていくばかりです。だから、お店を探す一方で、派遣に登録し、生計を立てていました」。
1年経ったある日、ようやく低コストで出店できる「茗荷谷」の居ぬき物件に巡り合った。そして、2012年に1号店を開業する。
この1年間はなんだったんだろうか? ひょっとすれば、髙橋氏の思いを試す1年だったのかもしれない。計画通りには進まなかったが、思いは希薄することなく、むしろ、日々、凝縮されていった。1号店がオープンしたその日。髙橋氏は、天にも昇る気分だったのではないだろうか。
・・・続き
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