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2025年10月14日火曜日

株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

本文より~

「やぶそば」オープンと、高校までの話。

茨城県で育ったお父様(現会長)の鬼澤勲さんは、中学を卒業して上京。ワイシャツ1枚、所持金3000円。「神田藪蕎麦」に住込み、丁稚奉公をはじめる。「神田藪蕎麦」は東京・神田にある創業1880年の老舗。
「いわゆる高度経済成長期の金の卵ですよね。神田藪蕎麦さんで7年間、修業して、7年だから21歳かな、1966年に暖簾分けしていただいて、西荻窪に「やぶそば」をオープンします。母がおかみさんで、父が蕎麦職人。今、広島にいる叔父も、蕎麦職人でした」。
蕎麦職人。
その響きがいい。
今回、ご登場いただいた現社長の登坂さんは、父や叔父だけでなく、店ではたらく蕎麦職人さんたちと、小さな頃から暮らしている。
「お店とお家がつながっているタイプだったから。職人さんたちが遊び相手。父が忙しいぶん、キャッチボールの相手も職人さんたちでした」。
初代社長の父は、2019年に会長に就任し、現在は長女の登坂さんが社長を務めている。父から子へ、ここにももう一つの継承の話があるわけだが、先を急ぐことなく、登坂さんの少女時代のお話をもう少し。
登坂さんが生まれたのは1968年。「やぶそば」オープン後、2年目のことである。1968年といえば高度成長期の真っ只中。子どもたちの数も多く、小学校も40人のクラスが4クラスあったという。
「小学校3年までかな。それは、それは大人しい女の子だったんですよ。でも、父親に似て、私も背が高くてね。いじめっ子を、いじめ返すような少女になっていきます」。
「そのころね、テレビで父が好きだった映画「ゴッドファーザー」を観ていて、父に『潰すなら家族全員だぞ』って言われて、いじめっ子のきょうだいまで、いじめ返したの。そしたら、校長先生に『頼もしいけれどちょっとやりすぎだ』って」。
いじめっ子には恐れられたが、彼女の周りにはいつもともだちがいた。中・高は、軽音楽部で部長も務めている。担当はギターだったそう。
「高校は女子高。そこしか受からなかったから」とあっけらかんに、声にして笑う。
高校ではモテた。バレンタインデーには、チョコが山積みになった。
「私の、宝塚時代ね」とふたたび笑う。

リクルート、そして、ルイ・ヴィトンジャパン。進む、エリート街道。

明治学院大学に進学した登坂さん。
「バブルだったんですよ。ディスコブームっていうかね。私も、大学よりディスコ通いがメインだった」。
ディスコのハイテンポなメロディはバブル時代を象徴する狂想曲だった。
「それからね。リクルートさんに就職するの。初めの2年は希望通り求人広告の営業。でも3年目でテレマーケティングの立ち上げへ志願して異動。『え?』って思うでしょ。だって『蕎麦』と関係がないものね。でも3つ下に弟がいたから、家業は彼に任せて、私は、私でやっていかなきゃって思っていたらね。当時からリクルートさんって男女平等。仕事だって先進的で楽しかった。でもね、1998年にフランスでサッカーワールドカップが開催されたときに退職して、フランスまで観戦に行くんです」。
パリ、シャンゼリゼ通り。ルイ・ヴィトン、カルティエ、ゲラン、ディオールと、高級ブティックが立ち並ぶ。
お買い物も楽しみの一つ。
「でもね。ルイ・ヴィトンに行って、ガッカリするんです。だって、接客が傲慢で感じ悪い。でね、帰国してからもモヤモヤしていて。そんなタイミングで、『ルイ・ヴィトン ジャパン』の募集に出会ってね。電話受付の募集。テレマ経験がある私にぴったりでしょ」。
面接では、フランスでの接客の悪さを口にした。
「接客がひどかったって。言ってから、ああ、やっちゃったって思ったんですが、採用されちゃった」。
リクルートを退社して、ルイ・ヴィトン ジャパンに転職。これが登坂さんの色濃いキャリア。ルイ・ヴィトン ジャパンには1998年に派遣スタッフとして就業し、翌年に正社員に登用されている。
「珍しかったんじゃないかな。派遣から正社員ですもんね。その頃には、フランスでの苦い経験は忘れて、『ルイ・ヴィトン』のファンになって、ぞっこんだったんです」。
150年の歴史と、伝統と革新。
「藪蕎麦に通じるものがあるでしょ。たぶん、そこにも惹かれたんでしょうね。けっきょくね。1999年に正式に入社して、2014年まで勤務していました、クライアントサービスの部門で、主にクレーム処理を担当。その部門でサービスマネージャーを務めていました」。

2014年、杉並藪蕎麥、入社。

場面は少しかわり、「神田藪蕎麦」の話。大正時代に建てられた神田藪蕎麦の建物は「東京都選定歴史的建造物」だったが、2013年に火災で焼失してしまう。
翌年、再建され、現在に至るのだが、その再建された真新しい「神田藪蕎麦」に登坂さんの姿があった。
「杉並藪蕎麥は、弟がつぐ予定だったんですが、からだを壊して仕事から離れなくちゃいけなくなったの。それでね。私にお鉢が回ってきたんです。もちろん、大好きなお店ですから断れなかった。それで、ルイ・ヴィトンを辞めて。ちょうど神田藪蕎麦がリニューアルオープンのとき。私は、杉並藪蕎麥をつぐ決意をして、オープン初日から神田藪蕎麦で奉公をはじめます」。
女将さんから藪蕎麦の歴史を直に教わった。
「ルイ・ヴィトンじゃないですが、100年以上の歴史があり、それこそ、伝統と革新です。その歴史を脈々と受け継いで来られた女将さんから、直接、教えていただいて、藪蕎麦の世界に魅了されていきます」。
ルイ・ヴィトンの創業者は14歳で故郷を離れ、パリに出てきて、「トランク職人」をはじめる。蕎麦とトランク。つくるものはちがうが、職人の精神はおなじ。伝統と革新によってはじめて、歴史がつむがれていくのも、また、おなじかもしれない。
「2014年に、杉並藪蕎麥に入社して、社長になったのは2019年です。当時、コロナだったでしょ。代表者名で申請しないといけないことがたくさんあって、とにかくややこしい。父が細かい申請作業はお前のほうが得意だろ、じゃあ、私がっていう話になったんです。ただ、会長の父も代表権をもっていますので、今は2人代表です」。
2014年に杉並藪蕎麥に入社してからの仕事についてもうかがった。
ホームページの写真を指さしながら、「この『赤坂Bizタワー』の『やぶそば』は2018年1月22日にオープンしたんですが、こちらは、私がゼロから手がけました。阪急うめだ本店やミナモア広島駅ビル店も、私が手がけたお店です」と誇らしげにいう。
「赤坂Bizタワー店」の店内は、竹林に囲まれていたやぶそばが現代風にアレンジされている。オープンキッチンとカウンターも、いかにも今風。「伝統」と「革新」といった二つの言葉がうまく融合している。

・・・続き

株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏


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2013年9月24日火曜日

株式会社ビゴ東京 代表取締役 藤森二郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ビゴ東京 代表取締役 藤森二郎氏登場。
本文より~

フランスとパンと。

女優でいえば、カトリーヌ・ドヌーヴ、男優ならアラン・ドロン。中学生時代、フランス映画の世界に憧れた。「あれがフランスというのを意識した始まりかもしれない」と藤森。高校時代にはカナダに半年、留学した。「ホームステイ先の親父さんが、丸太みたいな腕で休みともなればパンを焼いてくれたんだ。あれも格好いいと思ったなぁ」と言っている。
帰国した藤森はカナダの親父さんを真似て土・日になるとキッチンに立ってパンを焼いた。「翌日、焼いたパンを抱えて学校に行って休憩時間に教室の端っこでパンを配ったんです。もちろん、タダ。もちろん、女の子だけ(笑)」。
学校中の人気者になった。
「そうだね。最初はクラスの子だけだったんだけど、いつのまにか全学年の女の子が列をつくっていましたっけ」。褒められれば、悪い気はしない。パンづくりにも熱がこもったことだろう。フランス映画を観てフランスを意識し、女子を意識しパンづくりをはじめ、料理のたのしさを知っていったに違いない。
「でも、そうそう、バレンタインの時のこと。チョコをつくってくれっていうリクエストがあったんでつくってあげたら、なんとそのチョコを男子に渡しているんです。あれには、ちょっと参った。藤森は男子にはつくらない主義。だから、藤森のお店は閉店、となってしまったわけです(笑)」。
タダと言っても、繊細な女の子たちが列をつくるぐらいだから見た目も、味も良かったのだろう。ともあれ、いま考えれば、その時の女の子たちは「世界でも有名な藤森のパン」を最初に食べた幸せな人たちである。

「明治学院大学法学部」入学。

「女の子がたくさんいるところを選択しました」。
大学受験の話である。
「大学はバラ色生活だと思っていたんですね。バラ色に染まるためには、やっぱり女子でしょ。だから女子が多い大学を狙って戦略を立てて、傾向も対策も整えて受験に臨みました。立教も受けたし、そうそう早稲田も受験しました。ただし、早稲田は記念受験。1時間目の英語の長文読解がまるでわからず、それで失礼しました(笑)。立教は惜しくもダメで、結局、明治学院大学法学部に進みました。こちらは結構楽勝でしたから」。
「そうですね。もしこの時、早稲田や立教に合格していたら、いまの藤森はいなかったかもしれません。そういう意味では受験に失敗して良かった。案外、人生とはこういうもんです」。
早稲田や立教なら、就職にも不利ではない。ただ、明治学院だとレベルは下に見られてしまう。それがイヤで、リクルートスーツを着るのもイヤで、就活もせずにツテを頼って、とある横浜のパティスリーに就職した。
学生生活はバラ色だったかどうかは別にして、楽しい時代だったのはたしかである。一方、就職してからは過酷な修業時代が幕を上げる。しかし、そちらのほうが藤森にとっては楽しい時代だったかもしれない。大好きなお菓子やパンづくりに没頭できたからである。
このパティスリーを経て、かねてから憧れていた「フィリップ・ビゴ」の下へと神戸に向かった。
「フィリップ・ビゴ」はいうまでもなく、フランスパンを日本に広めた有名なブーランジェ(パン職人)である。当時、パンと言えばアメリカから来たふわふわしたものが主流だった。フランスパンもあるにはあったが、塩味がきつく、堅いコッペパンと思っていた人が多かったそうだ。
しかし、「フィリップ・ビゴ」が焼いたフランスパンは皮がパリッとして香ばしく、なかはしっとりやわらかいと、それまでのイメージを払しょくするものだった。
「フランス映画には良く、食事のシーンが登場するんです。そのなかで、主人公たちが食べていたフランスパンがそれだったんですね」。中学の頃に憧れたフランス映画と、食卓に上ったパンが一つになる。藤森は、ビゴ氏が焼くフランスパンはもちろんだが、改めてフランスというものに惹かれたのではないか。ともかく、ビゴ氏の下で、新たな修業の時代がスタートする。当然それは、ブーランジェ(パン職人)へと転身を意味する。・・・続き
株式会社ビゴ東京 代表取締役 藤森二郎氏
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