2015年3月3日火曜日

株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏場。
本文より~

少年、鎌田氏の話。

「整列するたび、どこかに行ってしまう子だった」と鎌田氏は幼稚園時代を回顧する。理由は単純だが、子どもにとっては切実で、何でも「背が低く、並ぶと後ろにいる体の大きな奴にいじめられるからだ」そうだ。だが、先生にも理由を話していなかった。あるとき先生が、それに気づき声をかけたが「神様が見ているからいいんだよ」と取り合わなかったそうである。鎌田は1949年に埼玉で生まれている。まだまだバンカラな時代で、当時は子どもといえども骨太な少年が多かったのかもしれない。
兄とは違って「親に反抗するタイプでもあった」とも言っている。仕事と家庭を見事に両立させた父親に今は敬意あるのみだが、父への反抗期は長かったそうだ。
ちなみに父の充夫氏は埼玉銀行に勤め、立て直しのために八欧電機株式会社(現富士通ゼネラル)に出向している。「父の転勤で、私も一度、大阪で暮らしました。小学3年生の時に埼玉にUターンし、6年から埼玉大学教育学部付属小学校に編入。中学は、そのまま付属中学に進みます。そのまま県立浦和高校に進むのが埼玉ではエリートコースです(笑)」。
しかし、鎌田氏本人は「高校でコースから離脱した」といって笑う。外れたといっても「慶應義塾志木高等学校」に進んでいるのだから、何の問題もないような気がするのだが。

「皆中」。すべての矢を的に当てる。

「皆中」という言葉があるそうだ。「的に向け射た20本の矢が全部当たるのを『皆中』と言うんですが、これがなかなかできない。うちの学校では、1年先輩の1人と私にしかできなかったんです」と鎌田氏は高校時代を語り始める。高校に進学した鎌田氏は、人がやらないことをしようと弓術部に入部。もともと才能があったのだろうか、主将まで務めている。むろん、大会にも何度も出場した。
「当時のバイブルは『弓と禅』という本でした。これは、弓聖とも称される阿波研造範士という伝説の弓道家の下で修業したドイツ人哲学者、オイゲン・ヘリゲル氏という人が書いた本です」。
鎌田氏は音楽にも造詣が深い。のちドイツに留学した鎌田氏は、ベートーベンの生家を何度も訪れている。そのとき、このオイゲン・ヘリゲル氏の奥様と一緒に氏のお墓参りをしたそうだ。それだけ、この本の印象は強かったということだろう。

ドイツ、そしてイスラエル。

高校を卒業した鎌田氏は、多くの生徒がそうするように自動的に「慶應大学」に進学する。しかし、こちらは稀といっていいだろう、7年間も在籍した。うち3年は休学。インターン生として海外に渡っている。そのときのお話も伺った。
「初めてドイツに渡ったのは、1970年のことです。アイセック(AIESEC)という世界組織の海外研修制度を利用しました。ドイツではインターン生としてドイツ銀行と、小さな日本の商社で合計18ヵ月くらい勤務しました」。
当時の心境を鎌田氏は、寄稿文のなかで次のように、語っている<「今ならできる。今しかできない。行くか?行く!」と運命の女神の前髪を掴んで大学4年の時に渡独した>。揺れる学生の気持ちが、良く表れている。
ドイツで2年、それからイスラエルで1年。合わせて3年。大学を休学した年数だ。
ところで、ドイツは分からなくもないが、どうしてイスラエルだったのだろう?
「イスラエルに行ったのは、ユダヤ人の研修生と出会ったからです。彼から中東戦争の話を聞いて、その事実を確かめたくなったんです」。学生とはいえど、なんとも旺盛な冒険心だ。
「といっても、ですね。みなさんが想像されるように爆弾が飛んでくるような状況ではなく、農業共同体の『キブツ』というところで、衣食住すべてタダという快適な生活を送っていました。この『キブツ』には世界中からいろんな学生がやってきました。言葉は、ヘブライ語です。『キブツ』では、ヘブライ語を学ぶコースをとり、試験ではつねにトップの成績をおさめていました。『日本人は、なかなかやるもんだ』と世界の学生に発信できた気がしています(笑)」。
ドイツとイスラエル。なかでもイスラエルは、やがて鎌田氏のもう一つのふるさとのような存在になる。

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