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2026年1月28日水曜日

群馬県みどり市本社の株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏登場です。

“飲食の戦士たち”に群馬県みどり市本社の株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏を取り上げました。

本文より~

『ステーキのどん』オープンまで。

「戦前のことですが、曽祖父は繊維工場を経営する有名な資産家だったということです」。
今回、ご登場いただいたのは、群馬で「ステーキ・ハンバーグどんさん亭」など複数のブランドを展開する株式会社サンフードの代表、籾山大一郎さん。
曽祖父は、日本国内はもとより満州や北朝鮮でも工場を経営されていたというから、かなり手広く運営されていたようだ。
曽祖父は、「ガチャマン(機織り機の音「ガチャン」で「万」のお金が儲かるという意味)」と揶揄されていた。ところが、戦後、農地改革や財閥の解体が行われると、籾山家も事業の縮小を余儀なくされた。
「そこにハーレーダビッドソンにまたがり、自由を謳歌する祖父の登場です。曽祖父が残した財産はかなりあったはずですが、繊維工場も当時の3億円の借金を抱えて倒産してしまいます。もっとも祖父のせいではなく、繊維が斜陽産業になるという時代背景もあったんですが」。
その頃のこと。大手ゼネコンに勤めていたお父様が、実家に戻られている。
「いよいよ倒産するってときになって実家に戻り、財務整理を行ったそうです。父に聞くと、貸借対照表からすべて真っ赤っかだったということです」。
もちろん、倒産はしても、籾山家を潰すことはできない。お父様は、繊維事業とは、まったく異なる飲食店をしようと、計画されたそうだ。
「『うなぎ屋』や『うどん屋』をしようと、家族会議にかけたそうですが、『バカにされた』そうです」。
当時の感覚としては、飲食で籾山家の復興はできないというのが、ふつうだったかもしれない。今のようなうどんチェーンもない頃の話だ。
「ところが、その話を聞いていた親戚の方が名古屋のステーキ店の『あさくま』さんを紹介してくれたんです」。
その方は、あのトヨタの名車「ソアラ」の設計士で桐生市の名誉市民だった。
「せっかく話をいただいたんですが、父はあまり乗り気ではなかったようです。父にかわって叔父が『あさくま』さんがある名古屋まで行って、仕事を覚えて帰ってきました。そして、前橋に『あさくま』さんでの修業をもとに『ステーキのどん』をオープンするんです」。
「ステーキのどん」は今、サンフードとは経営が異なっている。現在は「安楽亭グループ」が運営する一つのブランドである。
ただし、始まりは、これ。昭和51年のことで、籾山さん、6歳のときだった。

籾山家の跡取り。

籾山さんは昭和45年(1970年)生まれ。
「私が生まれた頃は借金取りが多く、私は母の実家の神戸で生まれたそうです」。
籾山さんは記憶にないが、当時の3億円の負債は大きい。
「結局、私が群馬に戻ったのは、小学生になってから。取り立ても一段落ついたんでしょうね」。
実家では籾山家の復興をかけ、ステーキ店の経営が始まっていた。お父様が桐生の実家を改造して「ステーキのどん」2号店をオープンしたのは、籾山さんが7歳のとき。
こちらが実質的なサンフードの創業店となる。
ところで、お父様はどんな人でしたか? そう質問すると、籾山さんは以下のように答えている。
「祖父に似て遊び人でした。ただ、祖父がつくった借金を整理して、叔父といっしょに籾山家を立て直したのは事実です。私たちにとっては怖い人で、いつだったかな、パンツ一枚で家を追い出されたことがあるんです」。
籾山さんは、昔を思い出したように笑う。
「裸で追い出されたんですが、夏だから、ちょうどよかった。でもね、公園のベンチで寝ていたら、藪蚊があっちこっちから現れて、刺されまくって、家に逃げて帰ったんです」。
籾山さんには悪いが、微笑ましいシーンは浮かんだ。昭和の牧歌的な話だ。
話はまだつづく。
「私が中学2年のとき、父に『国家公務員になりたい』って言ったら烈火のごとく怒りだして『お前は家を継ぐんだ』って。じつは、祖父も、曽祖父から早稲田に進学しようとしたときに、同じように言われているんです」。
籾山さんも祖父も同様に、その言葉を受け止め、ともにひねくれた。

アメリカ、ケンタッキー州にて。

お父様の一言で、未来への路線は決まったようなものだった。だからといって、籾山さんの青春が色褪せたわけではない。高校に進学した籾山さんは応援団に入り、声をからし、2年時には100人の学生といっしょにアメリカに渡っている。
アメリカですか?と驚いて聞くと、「そうです。2年のときに社会保険団体であるライオンズクラブで。父親に勧められたんです。もちろん、父に言われたら行かないという選択肢はありません。成田に行くと、学生が100人いて全員でアメリカに渡るっていうんです」。
壮大といえば壮大だが、まるで巨大なツアーだ。
「最初は、私もそう思っていたんですが、ロスで多くの人と別れ、私はシカゴに行くんですが、シカゴでもまた散り散りになって、私がジョニー・デップが生まれたケンタッキー州のオーエンズボロに着いたときは、たった2人です。もちろん、ホームステイ先は別々で、学校に行ったのは英検4級の私一人でした」。
アメリカで一人。
「私の人生のむちゃくちゃ大きなターニングポイントです」。
英検4級の英語はほぼ伝わらない。
「だからって無口じゃいけないんです。私はその頃、思春期ってこともあったんでしょうか、『無口が美徳』だって思っていたんです。アメリカ人はもちろん、無口が美徳だなんて思いません」。
「5月から8月まで、アメリカの田舎で過ごします。4ヵ月もいると、英検4級の私でも英語がなんとなく分かるようになりましたし、いつのまにか無口じゃなく、自己主張が強いアメリカナイズされた高校生になったと思います」。
それが今にもつながっている?
「そうですね。人間がどうあるべきか。私自身が外に向け、自分を主張する、そういうことが大事なんだと知りました。これはもちろん今の経営にも活きています」。
帰国し、のちに大学に進んだ籾山さんは、どこにでもいる大学生と同様に大学生活をエンジョイする。そして、就職。
「入社するならサンフードと思っていたんですが、父の命令で、愛知県の『物語コーポレーション』に就職することになりました」。
「物語コーポレーションもまだ小さくて3~4店舗しかないときです。私以外は全員高卒です」。
1年、料理とも格闘し、退職。その後、吉野家に転職している。
「吉野家のあと、会計事務所で会計を勉強し、26歳のときにサンフードに入社します」。

「じゃあ、好きにしろ」。父はサジを投げ、息子の闘争心に火がついた。

「中学のときから家業を継ぐものだと思っていました。会計事務所にも勤め、準備体操も終わったと思って、いよいよだと意を決してサンフードに入社します」。
ポジションは、専務だった。
親心か?実力を評価してのことか?
「たぶん、前者ですね。当時、上層部は私より年上の方ばかりです。従業員は70~80人。社長の息子といっても新参者です。専務という肩書がなければ、たいへんだったと思います。ただ、彼らと比較すれば経験が圧倒的に少ない奴が、いきなり専務ですから批判があったに違いありません」。
その批判が、かたまりとなって、籾山さんを襲う。
「2001年に、ステーキ店にとっては致命的な『BSE問題』が起こりました。とたんに、業績が怪しくなりますが、なすすべがありません」。
そのときステーキ店を担当していた者がBSE問題に耐えきれず退職、当時焼肉の新店に関わっていた籾山さんが、急遽担当になったそうだ。
「どうしようもないのに、やはり、陰口が叩かれるんです。業績は前年比マイナス70%。ステーキ以外の業態からすれば、『専務は何をしているんだ』と。もちろん、アメリカ産の牛肉が輸入ストップですから、オーストラリア産に切り替えるなど、打てる手は打ったんです。でも、それだけでは、どうしようもありませんでした」。
「できない専務」とレッテルを貼られる。
籾山さんを批判する声は、次第に高まり、ついに社長のお父様が、籾山さんにその声を伝えることになった。籾山さんにすれば、なじられる筋合いもない。ただ、お父様も、なんとかしないと、ことが収まりそうになかったから、引き下がれない。
お互い言いたいことを言い合った。
お父様は、籾山さんを守ろうとしたのかもしれない。従業員たちの声に押されたのかもしれない。話は平行線がつづく。籾山さんも父親相手に遠慮はしなかった。
お父様がついに怒ってサジを投げる。
「じゃあ、好きにしろ」。

・・・続き

株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏


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2025年10月21日火曜日

THANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にTHANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

本文より~

さらば、日本。アメリカへ、

今回、ご登場いただいたのは「鶏ポタラーメン」で有名、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞している「THANK合同会社」の代表、田邉雄二さん。
田邉さんは1980年、東京都の昭島に生まれている。兄、妹と、ご両親の5人家族。お父様は千葉大学出身のエリートで、今も大学でキャリアコンサルタントを務められている。
「小学校は3クラス、中学校は5クラスだったかな」と田邉さん。
「大社長になる」と、小さいながら大きな目標を掲げつつ、サッカーにも打ち込み、ピッチを駆け回った。小学生では市の選抜にも選ばれ、中学生では東京都大会で準優勝を果たしている。
サッカーでは評価されたが、それ以外は。
「それ以外は、問題児で。じつは、高校に進学してからはサッカーまで辞めて、ともだちとつるんでばかりいました」と田邉さんは笑う。
なんでも、ご両親にも迷惑をかけたそうだ。
「母は私を車に乗せて、学校に連行するんです。こっちは、だりぃなぁって思っているのに『卒業しなきゃ』って(笑)」。
今、改めて、田邉さんをみると、やんちゃだった少年の頃の面影はない。むしろ、秀才といったイメージだ。そう思いながら、話のつづきを聞いた。
「高校になってなにかに打ち込むことがなくなります。そんななかで、突然、英語を勉強しようと思い立ったんです」。
<英語?>というと、「ええ」と田邉さん。
「母に『留学したい』と言ったら、反対されるどころか『行っておいで』って」。
さらば日本、話は昭島からニューヨークにとぶ。

ニューヨークの片田舎。

<海外は初めて?>
「初めての海外です。選んだのは、アメリカ、ニューヨーク。語学留学で3ヵ月」と田邉さん。帰国後、1年間、日本で英語を学び、ふたたびニューヨークへ。
「今度は、2年間、ハーキマー・カウンティ・コミュニティカレッジという州立のコミュニティカレッジに入学し、インターナショナルビジネスを専攻して、そのあと、ニューヨーク州立の大学、オールバニ校に編入します」。
これだけ聞くと、国際的なビジネスマンへの道を進んでいるようにみえる。気になるのは、ラーメンとの出会い。
<ところで、どういう縁で、ラーメンの道に?>
「高校1年生のとき、初めて豚骨ラーメンを食べて、大ファンになるんです。もちろん、食べるほう専門で、ラーメンを仕事にするなんて思ってもなかったです」。
「ただ」と田邉さん。
「留学時に、ルームシェアをしていて料理担当だったんです。そのとき、料理にめざめたかもしれません」。
エクアドル人が2人、日本人が3人。ちなみに、このとき出会った日本人の女性が今の奥様である。
「コミュニティカレッジの2年間、ともにルームシェアで過ごして。彼女は、そのあとマンハッタンのファッション系の大学に進みます。私はさきほどいったようにオールバニ校に編入します。オールバニ校もそうですが、ハーキマーも、どちらもマンハッタンから4~5時間はかかる田舎でした」。
ニューヨークの片田舎だそう。「北海道の酪農地帯のようなイメージ」と田邉さん。
その大学を「やりたいことが決まった」と中退。突然、なにかに突き動かされたように、新たな物語が始まる。

彼女の予言。

「アメリカで出会った彼女は、ファッションというやりたいことが決まっていました。それに刺激されたのかもしれません」と田邉さんは、当時を思い浮かべるように目を閉じる。
「私が暮らしていたニューヨークの片田舎は、マンハッタンなどの国際都市とはちがって、アメリカの文化を色濃く残しています。その、アメリカの文化にふれていると、逆に日本の文化を、アメリカ人に教えたくなったんです」。
「日本の文化をアメリカへ」
<その文化が、ラーメンだった?>
「そうなんです。ラーメン=ジャパニーズ・カルチャー、その図式は、もう少しあとで決まるんですが、彼女、つまり、今の奥さんは、私が何をするか決めていない頃から、『雄二はラーメン店をすると思うよ』って言ったらしいんです」。
奥様の予言はよく当たる。
奥様は「いつか2人は結婚する」とも思っていたそうだ。
大学を中退した田邉さんは奥様が住むマンハッタンに移り住み、日本人がオーナーシェフだったレストランで勤務する。
「飲食の経験を積むことはもちろん、アメリカでの永住権を取得するためだった」そう。しかし、9.11が影を落とす。
「9.11は私が学生だった頃のことなんですが、それ以来、永住権取得のハードルが格段に上がりました。3年勤めましたが取得できず、先に帰国していた彼女を追いかけるように帰国します」。
舞台は、ふたたび日本に戻る。

鶏ポタラーメン。

帰国した田邉さんは、有名なラーメン店で勤務を開始する。そのラーメン店がニューヨークに進出することを雑誌をみて知っていたからだ。
「合計3年半、アメリカでも、日本でも仕事をさせていただきました。じつは、今の『鶏ポタラーメン』も、当時のラーメンにインスパイアされています」。
創業は2012年。田邉さん32歳のこと。
「創業店は、大門にオープンします。大門といったら、サラリーマンやOLさんの街です。『鶏パイタン』でいくつもりが、はたらく人をみていると、おせっかいな話、野菜も食べて欲しくなって」。
「からだが喜ぶ」
これがテーマだった。
「それで、無化調はもちろんのことですが、野菜もふんだんに取り入れた、からだが喜ぶ『鶏パイタン×野菜ポタージュ』が生まれたんです」。
「鶏ポタラーメン」は、冒頭の通り、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞する。
答えは想像できたが、念のため、原価についてもうかがった。
「ふつうの鶏ガラと比較すると雲泥の差」と笑う。
鶏と10種類の野菜をじっくり煮込んだスープは、化学調味料不使用。
1杯に120gの野菜が溶け込んでいるという。
この贅沢なラーメンが、オープン当初は680円でいただけたというから驚き。2025年6月現在でも、900円と1000円を切っている。ちなみに、〆を楽しむならライスの注文がおすすめ。残ったスープにパルミジャーノチーズがたっぷりのった「チーズライス」を、投入すれば、たちまちチーズリゾットに。1杯で、2度おいしい。
もう少し、オープン時の様子を書く。
まず、大門をチョイスした理由だ。これについて、田邉さんは、単純明快に回答する。「大門は、オフィス街でしょ。オフィス街なら、飲食でも土日が休めるじゃないですか」。
13坪で17席。改修も含め、初期投資700万円、家賃20万円。損益分岐は、200万円弱。
オープンすると、損益分岐点を軽々とオーバーする。
「鶏ポタラーメン」。ネーミングがふるっている。鶏パイタン×野菜ポタージュ、斬新な響きに魅了されるように、メディアがこぞって取材に押し寄せた。「TVだけで20件、雑誌にも多数取り上げられた」と、田邉さん。
「とくに『王様のブランチ』で放映されたときは、大行列ができた」と笑う。
3年目に2号店をお茶の水に、蒲田にも出店し、好きな鎌倉にもオープンした。2025年6月現在、大門店、お茶の水店、蒲田店、そして、鎌倉小町店の4店舗。
「10坪程度ですが、その小さな店に私の思いが、そして今は私だけじゃなく、スタッフみんなの思いが詰まっています」。
コロナ禍の下、時短営業のときには、アルバイトではなく、自身の就業時間を削った。
「コロナがあって、ラーメン1本足打法だけでいいのか、という思いもあって、様々な交流会にも参加するようになり、刺激を受けています」。
スタッフにはベトナム人もいるそう。
「だから、いずれベトナムに彼らといっしょに」と、新たに「世界へ」という文字が頭のなかに浮かんでいるようだ。

・・・続き

THANK合同会社 代表 田邉雄二氏


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2025年2月10日月曜日

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏登場。

本文より~

いい話のつづき。

同級生3人を誘って、創業。これが磯貝さんの始まり。設立は2015年。目標は100億円企業。まだまだ先の話だと思って聞いていたが、もうすでに20億円。加速すれば、あと数年でゴールテープを切るかもしれない。わくわくしながら、お話を聞かせていただいた。
磯貝さんが生まれたのは1994年。お父様は建築系の仕事をされている。
「姉が1人います。母は今も仕事をしていますが、人に好かれるタイプで、じつは母の知り合いが、今うちで働いてくださっています」。
母似だという磯貝さんも、周りの人に好かれるタイプ。同級生4人で創業して、10年近く経った今も全員一緒に仕事をしているのも、磯貝さんの人柄の表れに違いない。20億円企業の社長だが、謙虚で、話していて楽しい。
さて、その磯貝さんは小学生からサッカーを始め、中3まで続けている。区の選抜にも選ばれていて、強豪校のトライアルを受ける予定だったが、怪我をしてスポーツ推薦を諦めている。進んだのは、進学校。
「それから私は、建築設計を勉強するために中央工学校に進学します。彼女はアパレルのお店で就職。でも、半年で退職しました」。
<磯貝さんが?>
「いえ、彼女です。19歳の時に子どもを授かったんです」。
その時のお子さんは今、10歳。2人は結婚することになる。
「大きな反対はされなかったです」。
それ以来、いい話の続きを、2人でつむいでいくことになる。

起業と、プレッシャーと。

19歳、専門学校生。定職があるわけでもない。
<結婚生活は?>
気になって聞いてみた。
「最初はお金がないので、うちの実家で両親と同居です」。
<磯貝さんのご両親と一緒に?>
「ええ、だから、彼女は大変だったと思います。しかも、起業してからは、なかなか家にも帰れなかったもんですから」。
話を聞くと「なかなか」どころか、まったく帰れなかったらしい。
あらかじめ磯貝さんからいただいた自身のプロフィールによると、「中央工学校へ進学し建築設計を学びながら同級生を引き連れ居酒屋にアルバイトとして勤める。学生の傍ら前記の店舗にてバイトリーダーを経て、店長を任される中で同級生と起業を志し、中退を決断。株式会社J-Connectを設立する」とある。
思い切った選択だ。
「捨て身の覚悟です。仲間の1人は、親に勘当までされています。私が誘ったわけですから、もちろん、プレッシャーはハンパないです。それに、私には妻も、子もいましたから」。
「退路などなかった」と磯貝さんは笑う。
<1号店は運営を受託されたんですよね?>
「そうです。屋号はそのままでオペレーションを任せていただきました」。
経験といえば、バイトと、創業当初に手伝ってくれた料理人から教わっただけ。
「実質、経験者は1人もいなかった」と笑う。
ただし、そこから手探りの快進撃がスタートする。
家では、両親と妻と子どもが待つ。だが、帰れない。パパ以上にママが頑張ってくれた。奥様の応援がなければ、もちろん、今の磯貝さんも今の会社もない。当時の話をもう少し。
「とにかく、食べさせていかないといけない。でも、食べられればいいってわけじゃない。じつは、3人のうち2人は、私と一緒に大学まで辞めていますから」。
プレッシャーは、今だけの話ではない。家族はもちろん、彼らの将来に対しても重圧がのしかかる。
「でも、性格的にそういうプレッシャーを楽しむタイプなので。それに、みんな腹を決めていましたから」。
「結束」。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「業務委託でスタートしたのは、40席程度の海鮮居酒屋です。ランチからスタートし、24時まで。利益は少し。とにかく、創業メンバーが4人ですから、それだけで人件費がかかる」。
同級生は20万円程度、磯貝さんは5万円だけ。
みんなで店に泊まり込んだ。どんな会話がなされていたんだろうか?
語っていたのは、野心か、望みか。その一方、5万円という現実はきつい。「嫁さんからのプレッシャーもきつかったですね(笑)」。
それは、そうだろう。
「でも、もうスタートしてしまいましたから」。
どうなっていくんだろう。

東京→千葉→静岡→埼玉、つぎは。

「創業時のメンバーをとにかく食べさせていかないといけません」。そのためには早く出店しないといけない。だから、磯貝さんは自身の報酬を5万円のみにした。ほかのメンバーに給与を支給し、残った分は貯蓄する。そして、10ヵ月後に新店をオープンしている。
「当時は店舗開発の知識もないし、経験もない。お金もありませんから、とにかく、初期投資が少なくて済む居抜きの物件をネットで探し回って」。
<ちょうどいい物件があったんですね?>。
「ええ、我孫子だったんですが」。
<我孫子と聞いて、あの我孫子?>と反芻した。「ええ」といって、笑う。
「創業店は大塚ですから、距離があります。行き来するとしたら大変です。ただ、うちには創業メンバーがいたので人手はあるし、当時は泊まり込みでしたから、二手に別れれば問題がありませんでした」と磯貝さんはこともなげにいう。
我孫子の店舗のスケールは40坪で80席。空中階。「当時は宴会需要を狙っていました。業態は総合居酒屋で客単価3500円。ただ、好調というわけではなく苦戦はしています。それでも、初期投資が安く、家賃も20万円程度だったので、創業の店と合わせて100万円くらいはキャッシュが残りました」。
ふんだんに資金があったわけではない。でも、未来へのプレッシャーか出店を急いだ。「3号店は、その2ヵ月後です」。東京、千葉、そして、3号店はなんと静岡。
「地方がいいぞって、そういう噂を鵜呑みにして(笑)」。距離はあったが、創業メンバーの誰かが行けばいい。
「静岡っていうとみんな驚かれるかもしれませんが、うちの戦略にはマッチしています。とにかく、初期投資が少なく、家賃も安いのでランニングコストも少なくて済む。それに実際、静岡に行ってみてびっくりするんです。さすが、新幹線が止まる駅があるだけあって、我孫子より人が多い!って」。
こちらは20坪、家賃20万円、450万円程度を売り上げた。さらに、春日部へ。わずか1年と少しで、4都道府県を制覇している。その後も、年間4~5店舗のペースでオープンを続ける。しかも、10店舗まで自己資金のみというから、それにも驚かされてしまった。

・・・続き

株式会社J-Connect 代表取締役社長 磯貝拓麻氏

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