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2024年7月9日火曜日

ウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏登場。

本文より~

先生を論破する少年。

授業は少年にとってつまらないものだった。ついていけないからではなく、すぐに理解してしまうから。教科書だってみていない。ノートは取らない。先生だって論破する。ちなみに、喧嘩もつよく、クラスの人気者。
これが、今回、ご登場いただいたウルトラキッチンの代表取締役社長、杉窪さんの小学校時代の話。
生まれは、1972年。両祖父母は石川県輪島市で輪島塗の職人をされていた。
歳が離れた兄2人は剣道だったが、杉窪さんは柔道。中学生から始めている。
「中学から柔道部だったんですが、めちゃくちゃ厳しくって、バリバリの縦社会。その時の、先輩・後輩の関係も私の背骨の一つとなっています」。高校は中学の柔道部のみんなといっしょに進学。柔道部が幅を利かせている学校だったらしい。
ただし、高校は2ヵ月で中退。
「その時の選択肢は美容師、土方、飲食、ヤクザの4択だった」と笑う。
消去法で、飲食の道に進んでいる。
飲食、と決めたあとの杉窪さんの行動は早い。すぐに大阪へ向かい、うどん屋で住み込みのバイトをはじめ、来春をまって辻調理師専門学校に進学する。
「専門学校は、ギリギリ卒業できたというのが正解」と杉窪さんは笑う。ギリギリといっても卒業にかわりはない。
専門学校を卒業した杉窪さんは、ケーキ屋さんではたらく。性に合ったのか「ケーキづくりがたのしくて、もっと早く出会いたかった」とまでいっている。
これで、飲食というくくりのなかで、進むべき道が絞られる。

クビの第一候補からの大出世。

「そのケーキ屋さんで4年勤務します。私は、高校中退なんで、社会的な信用がない。だから専門学校に通い、4年間仕事をつづけました。これで、信用が一つできたわけです」。
信用を得ることが目的だった。15歳の時に立てた戦略というから、恐れ入る。
「そのケーキ屋さんで仕事をしながら食べ歩いたなかで、いちばんおいしかったのが、つぎの転職先。神戸の有名なケーキ屋さんです。阪神淡路大震災があったあと、東京に行くんですが、神戸のお店では知識・理論、すべてにおいて劣っていることを痛感します」。
なんとか入社することはできたが、最初は、クビの第一候補だったらしい。
「だいたい知識がない。理論だってない。先輩たちが東京のどこどこがいいと話していても、わからない。その店を知らないというと、『なんだ、そんなことも知らないのか』って」。
そういうことがある度に、杉窪さんは、すぐに行動に移す。
「この時は、その日のうちに書店に飛び込んで、つぎの休日には新幹線の始発に飛び乗りました。で、東京で20軒くらい回って、話題に上がったショップのケーキをおみやげにもって帰ります」。
みやげを渡された先輩たちは目を丸くしたんじゃないだろうか。
シャレでもなんでもない。純粋なお礼の証。杉窪さんはそういう人。
「最初は、ぜんぜん、かなわなかった。じゃぁ、どうすれば差を詰められるか」。
杉窪さんは、尊敬はするが崇拝はしない、という。だから、尊敬する人は追い抜く対象になる。もっとも、その数は少ない。
小学生で先生を論破するだけあって、ブレない尺度をもっている。著名なシェフであっても、杉窪さんの尺度で測ると、相手にするレベルでないケースが少なくない。
ちなみに、当時の仕事は朝6時~22時まで仕事がつづき、休みは週イチ。ハードワークだったが、それでも休日は3時間、それ以外は最低1時間、本読むと決め、実行した。食べ歩きもつづける。
修業をつづける杉窪青年の姿を想像すると、修行僧のようなストイックさが思い浮かぶ。
ともかく、給料は、ほどなく2倍になる。クビの第一候補からの大出世である。

フランスに渡り、帰国後、名店のセールスを4倍にする。

杉窪さんが東京に向かったのは、22歳の3月のこと。東京では紹介されたショップで1年間勤務したあと、フランスの修業から帰国した神戸時代の先輩に合流し、たまプラーザのベーカリーで勤務する。
「フランスから帰国した先輩は、日本でもトップクラスのパン職人です。その先輩の下で、製パンの理論を学習します」。 
「半年間でマスターした」と杉窪さん。残り半年は、恩返しの期間と割り切り、合計1年間、勤務する。
この時、24歳。杉窪さんはわずか1年間だったが、この1年の経験が、「今の私の形成している」という。それだけ濃厚な1年だったということだろう。
ところで、杉窪さんは修業期間を「私」という資源の運用効率を高めるための期間と定義している。だから、余分なものは削ぎ落とし、時間やお金を投資するのは、コアな部分のみ。
「フランスに行くための、お金を貯めなきゃならなかったので、淡路島のリゾートホテルでシェフパティシエとして勤務します。家賃もいらないので、3年、資金も貯まり、いざ、フランスへ、です」。
フランスは、これが2度目。1度目は、2週間の視察。パティスリーを12軒、ベーカリーを20軒、ほかレストランやカフェ、花屋、雑貨店、美術館をみて回っている。
今度は、2年。フランス人のシェフたちとともに厨房に立った。杉窪さんは、ヒト、モノ、カネで、独立できたのは昭和の世界だと笑う。今は、情報、信用の5つのツールがなくてはならないということだ。
その意味では、スキルだけではなく、フランスではたらいたことは、情報、信用を一段とプラスしたことになるのではないだろうか。
パン職人として杉窪さんの輪郭が明瞭になっていく。解像度があがっていく、と表現したほうがいいだろうか。帰国後、杉窪さんは、たまプラーザでともにはたらいた先輩の下で、ふたたび勤務することになる。
「勤務したのは青山にある『d'une rarete』です」。じつは、杉窪さんは、この『d'une rarete』の3代目。伊勢丹にショップをオープンするなどして、年商を5000万円から2億円へ、4倍にしている。
経営者としても、杉窪さんの名が、知れ渡るようになる。
たぶん、何にでもなれて、何でも一流になれる人。これが、インタビュー後の感想。何をするのにしても、ルールを理解するのが早い。ルールがわかれば、傾向と対策で、突き進む。
ためしに、営業マンにもなれますね? と質問すると、「そうですね。できるような気がします」と笑う。「d'une rarete」には6年半いた。そして、独立。40歳のときだ。

・・・続き

ウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏

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2024年3月13日水曜日

株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

本文より~

報酬は、30円。

「創業は私の両親です。私が生まれた時には、すでに創業していました。私の父は新潟生まれ。15歳で上京して、米軍基地でアルバイトしたあと20代の時に新宿にある鶏肉専門店に丁稚奉公に入り、鶏を解体する技術を修得します。母ともそちらで出会い、そして、2人して独立したそうです」。
父が24歳、母が21歳の時。
「母の実家は豪農で、ブドウや桃、プラム、スイカなどを育てる広大な畑をもっていました。私も、夏休みや冬休みになると、母の実家に行き、養豚場や養鶏場を走り回っていました。じつは、父が就職した鶏肉店の社長夫人の妹が母でした。独立した2人が大井町で『鳥利商店』を創業したのが、昭和30年。その3年後に長男の私が生まれます」。
髙波さんが生まれたのは1958年。当時の大井町は、どんな町だったんだろうか?
「ニコンが拠点を構え、その従業員が通勤する道が”光学通り”と呼ばれるほど、サラリーマンの町でした。創業当時は、私らが住む住居と合わせても8坪ほどの店だったそうです。両親ははたらき者で、朝は遅くても7時には仕事をはじめていました。夜の9時にご飯を食べて、またそこから11時くらいまで仕事をつづけていました」。
髙波さんを連れてどこかに行く時間もなかった。代わりに手伝いは子供の頃からさせられたそう。
「『30円やるからアルバイトしろ』と言われ、店頭で焼き鳥を焼いたり、少し大きくなると解体もさせられました」。
言うなら、これが親子のコミュニケーション。
「中学受験をして、暁星に進みます」。暁星といえば、むろん、名門。エリートの子どもたちが通う学校だ。もっとも、髙波さんの第一志望は麻布中学。こちらは不合格。
「麻布に行けなかったんで、私じゃなく、父がショックを受けます。私を麻布に入れて、東大に入れることが父の目標だったみたいです。だからか、大学受験の相談をした時「もうお前には諦めている」と言われました(笑)」。
もちろん、髙波さんにはどうすることもできない。暁星で青春を謳歌する。
念のため確認してみたが、ご本人は、東大をめざしたことはないそうだ。

渡米。

「一浪して、法政大学には入るんですが、3ヵ月で辞めてアメリカに行く準備を開始します。7月から営業の仕事を始め、8ヵ月はたらき160万円貯めて、海を渡りました」。
向かった先は、カリフォルニア州ロサンゼルス。
「アメリカに行く目的ですか? それはアメリカのビジネスをみたかったから。私が学生時代だった1970年代は、マクドナルドの日本1号店のオープンや、「アメリカンドリーム」という言葉がもてはやされたり、ビジネスと言えばアメリカでした。私も商人の子。本場アメリカのビジネスを自分の目で見てみたい、と思いました。父の跡を継ぐつもりは全くなかったんですが、いずれは自分で商売をしようと決めていたんです」。
出発3日前。父にアメリカに行くと告げた。「お前のことは諦めている」と言われたあの日から、親子の仲が悪くなり、どうせ反対され喧嘩するならその期間は短い方が良いと考えた。お父様は一言、「そんな行き方をするなら日本に帰ってくる所はないと思え」とおっしゃったそうだ。
誕生日の3日後にアメリカに向かったと言っているから、帰るところがなくなったのは、誕生日だったはずである。
「ロサンゼルスに友人のお母様がレストランを経営しており、そこで働かせてもらっていました。しかしそれでは、そのレストランのビジネスは分かっても、アメリカのビジネスは分からなかった。その時、もう一度学校に行く必要性を感じました。とはいえ、働きながら卒業できるほど甘くはありません。そこで、「日本に帰ってくるところはない」とまで言われた父に、その場しのぎで、『帰国したら家業を継ぐから、支援してほしい』と手紙を書きました。父はお金を工面してくれ学校に入学しました」。
「読み書きはできましたが、スピーキングやヒアリングがてんでできない。日本の英語学習のウイークポイントですね(笑)。向こうでは、ロングビーチにあるブルックスカレッジっていう2年制の大学に入るんですが、言葉がわからないから話すこともできません。それでも毎日睡眠時間は3時間で猛勉強し、1年後には、夢も英語でみるようになっていました」。
すっかり、アメリカに慣れた証。学校を好成績で卒業し、ニューヨークに2年。「当時のニューヨークは、ファッション、ビジネス、ミュージックすべてが街中にあふれていました」。
ウエイターや、リムジンのドライバーで生計を立てていたらしい。
「あの頃は、永住権を取って、アメリカ人になるつもりでした。物価は、当時からむちゃくちゃ高かったですね。西では、アパートにプールっていうのもふつうでしたが、東だと、それが許されるのは超金持ちだけです。当時私が暮らしていた街は、見るからに怖そうな人も多く、物騒な目にあったこともあります」。
日本の青年がアメリカで、アメリカンドリームにチャレンジする。その絵を想像すると、エールを送りたくなる。

・・・続き
株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏

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2015年2月3日火曜日

株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏が登場。
本文より~

「躾」のかたち。

「この漢字を教わったのは、3歳の頃だと思います」と言いながら、青谷は「躾」という文字を書いた。「身」と「美」。美しい身のこなしということなのだろうか。ひらがなでは分かりにくい言葉の意味が、腹に落ちた。
「私ら兄弟は、母から漢字でしか教わったことがないんです(笑)」。人の前を通る時は、「ごめんなさい」というよう躾けられた。
「躾に、とても厳しい人でした」と青谷は母のことをそう言う。
青谷が生まれたのは、1951年。茨城県の結城郡にある八千代という村だった。
「当時はね、日本でいちばん面積が大きな村。っていうことはさ、いちばん田舎だったわけ」。今では、人口の流入もある。しかし、青谷が生まれた頃は戦後10年も経っていない頃である。村は広いぶん、閑散としていたに違いない。
「うちは専業農家です。スイカや白菜、メロンなんかをつくっていました」。 昔は、白菜が八千代村の名産だったそう。「日本でもいちばん有名な産地だったんじゃないかな」と青谷はいう。自らも、畑仕事に従事しただけに誇らしかったに違いない。
「私は、姉が1人いるんですが、四人兄弟の長男です。父は戦争でからだを壊し、重いのが持てない。だから小学校に上がる頃には、もう畑仕事を手伝っていました」。
父の代わりに、重い堆肥をリヤカーに積み、畑まで運んだ。まだ明け切っていない空は、青い。白菜といえば冬が旬である。吐く息は白かった。
「辛いと思うことはなかったですね。そうしないと食べていけないから。中学になると、もう農作業が私の生活の一部になっていました」。
小さな頃から躾けられた少年、青谷。不満もなにもなかった。
「うちの食卓は席が決まっているんです。机には引出がついていて、そのなかに茶碗が入っている。ごはんを食べ終わったら、茶碗を洗って引出に戻すんですね。これも母の躾の一つでした。今日のお手伝いは良くできたね、とか。怒られるだけではなく、ちゃんと誉めてもくれました」。
思い出はいくらもある。そして、青谷はいまも母に感謝する。
「いま私があるのは、お袋の厳しい躾のおかげなんです」。
青谷がしばしば口にする言葉である。

卒業文集に書き留めた、未来の話。

小学生の頃の思い出はと伺うと、「そうだね、卒業文集をみんなに見られたことかな」と言って笑う。青谷が原稿用紙に「社長になりたい」と書くと、いたずらっ子がその紙を奪って、みんなに見せて歩いたそうだ。
田舎の話である。青谷家だけが貧しかったわけではないだろう。しかし、父が重い作業をできない分だけ、実入りも少なかったことだろう。微かな希望は「未来」という言葉のなかにしかなかったかもしれない。
だから、「社長」と書いた。書いたことも、みんなに見せて歩かれたことも鮮明に記憶している。
「とにかく私は、家族を幸せにしたかったんです。父も母も兄弟たちもみんな…」。小学校を卒業し、中学も卒業とういう時に、大恩のある母が亡くなった。
「もう、高校進学どころじゃなくなってしまいました」。
中学卒業だから、15歳である。
「長男だったしね。もう、跡取りみたいなもんですよ。メロンに、スイカに、白菜。毎年、豊作を祈り、畑仕事に精を出しました。ただ、年々、行き詰まりを感じるようになっていたのも事実です。妹を高校に進学させることもできましたし、弟も働きに行かせました。ただ、そうなると働き手がいないんですよね。『これは、この先、農家を続けるのは難しいな』と思うようになるんです。ちょうど私が20歳の時の話です」。
その時偶然にも、隣町に蕎麦屋がオープンする噂を耳にした。
「最初は、『誰か、アルバイトしてくれる人を知らないか』という話だったんです。それで、私が手を挙げたんです。『畑仕事が終わってから、お願いします』って言って」。
オープンの話を聞いて、昔、文集に記した「社長になりたい」という言葉が雷鳴のように轟いたそうだ。よし、「社長」になろう。
小学6年生の時「未来」のジブンに託した二文字が、タイムカプセルから、突然、飛び出してきた格好である。

妹の決断が、兄を泣かす。

「私は無事に一番弟子となり、勤務を開始しました。隣町だったから、畑仕事が終わってから、車で30分かけて通いました。」。
青谷は、「とにかく、私は負けず嫌い」だと言う。
「朝暗いうちから畑仕事を始めて、蕎麦屋が終わって家に帰って寝るのはたいてい12時を回っていました。睡眠時間は3~4時間。こんな生活をしていると、たいてい、からだが壊れます(笑)」。
青谷も倒れたある日、目を開けた時、2年前に送り出したはずの妹が荷物をまとめて立っていた。
「あれは妹が高校2年の秋でしたね。昔から優秀な子で、当時の先生たちも協力してくださって高校に進学させることができたんです」。
「『先生になりなさい』って私は送り出しました。離れた町に住んでいましたが、弟か姉かに私のことを聞いたんでしょうね。突然、戻ってきて『私が、農家をやる。私が農家をやるから、兄ちゃんは今のお蕎麦屋さんの仕事をちゃんとして』って言うんです。そうして『1日も早く独立して。そうしないと、家庭が壊れちゃうよ』って」。
号泣した。辛くて、悔しかった。妹の夢を奪ってしまった、と知ったから。「男、泣きに、泣いた」と青谷はこの時のことを語っている。

・・・・続き

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