2015年2月3日火曜日

株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏登場。
本文より~

「躾」のかたち。

「この漢字を教わったのは、3歳の頃だと思います」と言いながら、青谷は「躾」という文字を書いた。「身」と「美」。美しい身のこなしということなのだろうか。ひらがなでは分かりにくい言葉の意味が、腹に落ちた。
「私ら兄弟は、母から漢字でしか教わったことがないんです(笑)」。人の前を通る時は、「ごめんなさい」というよう躾けられた。
「躾に、とても厳しい人でした」と青谷は母のことをそう言う。
青谷が生まれたのは、1951年。茨城県の結城郡にある八千代という村だった。
「当時はね、日本でいちばん面積が大きな村。っていうことはさ、いちばん田舎だったわけ」。今では、人口の流入もある。しかし、青谷が生まれた頃は戦後10年も経っていない頃である。村は広いぶん、閑散としていたに違いない。
「うちは専業農家です。スイカや白菜、メロンなんかをつくっていました」。 昔は、白菜が八千代村の名産だったそう。「日本でもいちばん有名な産地だったんじゃないかな」と青谷はいう。自らも、畑仕事に従事しただけに誇らしかったに違いない。
「私は、姉が1人いるんですが、四人兄弟の長男です。父は戦争でからだを壊し、重いのが持てない。だから小学校に上がる頃には、もう畑仕事を手伝っていました」。
父の代わりに、重い堆肥をリヤカーに積み、畑まで運んだ。まだ明け切っていない空は、青い。白菜といえば冬が旬である。吐く息は白かった。
「辛いと思うことはなかったですね。そうしないと食べていけないから。中学になると、もう農作業が私の生活の一部になっていました」。
小さな頃から躾けられた少年、青谷。不満もなにもなかった。
「うちの食卓は席が決まっているんです。机には引出がついていて、そのなかに茶碗が入っている。ごはんを食べ終わったら、茶碗を洗って引出に戻すんですね。これも母の躾の一つでした。今日のお手伝いは良くできたね、とか。怒られるだけではなく、ちゃんと誉めてもくれました」。
思い出はいくらもある。そして、青谷はいまも母に感謝する。
「いま私があるのは、お袋の厳しい躾のおかげなんです」。
青谷がしばしば口にする言葉である。

卒業文集に書き留めた、未来の話。

小学生の頃の思い出はと伺うと、「そうだね、卒業文集をみんなに見られたことかな」と言って笑う。青谷が原稿用紙に「社長になりたい」と書くと、いたずらっ子がその紙を奪って、みんなに見せて歩いたそうだ。
田舎の話である。青谷家だけが貧しかったわけではないだろう。しかし、父が重い作業をできない分だけ、実入りも少なかったことだろう。微かな希望は「未来」という言葉のなかにしかなかったかもしれない。
だから、「社長」と書いた。書いたことも、みんなに見せて歩かれたことも鮮明に記憶している。
「とにかく私は、家族を幸せにしたかったんです。父も母も兄弟たちもみんな…」。小学校を卒業し、中学も卒業とういう時に、大恩のある母が亡くなった。
「もう、高校進学どころじゃなくなってしまいました」。
中学卒業だから、15歳である。
「長男だったしね。もう、跡取りみたいなもんですよ。メロンに、スイカに、白菜。毎年、豊作を祈り、畑仕事に精を出しました。ただ、年々、行き詰まりを感じるようになっていたのも事実です。妹を高校に進学させることもできましたし、弟も働きに行かせました。ただ、そうなると働き手がいないんですよね。『これは、この先、農家を続けるのは難しいな』と思うようになるんです。ちょうど私が20歳の時の話です」。
その時偶然にも、隣町に蕎麦屋がオープンする噂を耳にした。
「最初は、『誰か、アルバイトしてくれる人を知らないか』という話だったんです。それで、私が手を挙げたんです。『畑仕事が終わってから、お願いします』って言って」。
オープンの話を聞いて、昔、文集に記した「社長になりたい」という言葉が雷鳴のように轟いたそうだ。よし、「社長」になろう。
小学6年生の時「未来」のジブンに託した二文字が、タイムカプセルから、突然、飛び出してきた格好である。

妹の決断が、兄を泣かす。

「私は無事に一番弟子となり、勤務を開始しました。隣町だったから、畑仕事が終わってから、車で30分かけて通いました。」。
青谷は、「とにかく、私は負けず嫌い」だと言う。
「朝暗いうちから畑仕事を始めて、蕎麦屋が終わって家に帰って寝るのはたいてい12時を回っていました。睡眠時間は3~4時間。こんな生活をしていると、たいてい、からだが壊れます(笑)」。
青谷も倒れたある日、目を開けた時、2年前に送り出したはずの妹が荷物をまとめて立っていた。
「あれは妹が高校2年の秋でしたね。昔から優秀な子で、当時の先生たちも協力してくださって高校に進学させることができたんです」。
「『先生になりなさい』って私は送り出しました。離れた町に住んでいましたが、弟か姉かに私のことを聞いたんでしょうね。突然、戻ってきて『私が、農家をやる。私が農家をやるから、兄ちゃんは今のお蕎麦屋さんの仕事をちゃんとして』って言うんです。そうして『1日も早く独立して。そうしないと、家庭が壊れちゃうよ』って」。
号泣した。辛くて、悔しかった。妹の夢を奪ってしまった、と知ったから。「男、泣きに、泣いた」と青谷はこの時のことを語っている。

・・・・続き

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