“飲食の戦士たち”で第1163回 株式会社レゴリス 代表取締役社長 星 幸輔氏を取り上げました。
月の砂と、従姉妹のワンピースと、生きている証と。
「レゴリスは、月の砂のこと」。そう回答してくれたのは、今回、ご登場いただいたレゴリスの代表、星さん。
月と星がいい感じでマッチしている。ロマンチックな話を期待して耳を傾けていると、真逆でリアルな話がはじまった。
「ぼくは、生後すぐに息をしなかったらしくて、生きられたのは奇跡だったそうなんです。その話を聞かされてから、生きていることをちゃんと証明したくて」。
「TVに出たい」と思うようになったそう。「じつは今も出たいんです」と、まじめなトーンでつぶやく。
「ただ、最近になってね。民放全キーに取材されたんです。うちはサバ専門店でしょ。サバが今、むちゃくちゃ高騰しているんです。だから、そのニュースで…」と笑う。
「子どもの頃、お金があったら、絶対役者の養成所に通っていたと思う。でも、なかったから断念するしかありません。うちは、兄弟3人で、5人家族です。とにかく貧乏で、遠足のおやつもなかったし、レジャーといったら海に家族で行くんですが、ぼくは従姉妹のお姉さんのワンピースを着ていたくらいなんです」。
――それは、ちょっときつい――
「でしょ。洋服はすべてお下がりだったし、木造で風呂がなかった。だから、銭湯には2日に1回。でもね。それはそれで楽しかったかもしれない」。
「で、さっきの役者の話のつづきなんですが、昔、新橋の魚金(うおきん)って店で働いているときのこと。自称、ジャニーズと吉本の社員さんがいらして『お兄さん、将来、何かめざしてないの?』なんて言いながら誘ってくるんです」。
「でも、当時の新橋でしょ。ジャニーズの人が来るなんて思わないじゃないですか。酔っ払いが、しつこくからんできてるくらいに思って、あしらっていたらカチンときたんでしょうね。ジャニーズの名刺を差し出されて、『チャンスはこうして一瞬でなくなるから気をつけな』って(笑)」。
――それは、もったいない――
「どうかな」と言って星さんは笑う。
救ってくれた恩人と、恩人を救った星さんと。
星さんが生まれたのは、1978年3月27日。
「じつは4月に生まれる予定だったんです。それが、数日、早くなった。だから、そう、中学までは剣道とかを習うんですが、ちっちゃくて。バレーボールをしていたんですが、中3で144センチしかありませんでした」。
4月1日生まれの生徒とは、たった5日の差だ。学年では、ぐるっと1年離れている。そりゃ、そのぶん、小さい。まだ、砂の一粒だった頃の話。
兄弟についても、聞いてみた。
「兄は宇宙人で、弟はガチのヤンチャ。ぼくは、ちょいワル」。
宇宙人からガチのヤンチャまで、グラデーションの真ん中にちょいワルの星さんがいた。
「ワルといっても、ぼくの場合はガチじゃなくって。学校に行くまでに喫茶店に行っちゃう程度。だべっていると、『あ、5時間目でヤベー』って。それで、単位と出席日数が足りなくなって、高校に4年通っています」。
「留年」。周りは1学年下。だが、5日あとに生まれていたら、同級生。むしろ、こっちのほうがちかい。
「留年は挫折でしたが、後輩といっしょになったこと自体は気になりませんでした。私が進学したときに、留年した人がいたんで、そういうもんかなと、抵抗感がなかったのかもしれません」。
「4年目にいい先生に出会った」という。
「担任の先生なんですが、恩人ですね。その先生のおかげで卒業できたようなもんです」。
ただ、先生にとっても星さんは、恩人だった。
「その先生は、ラグビー部の顧問でした。ぼくが3年生、というか、4年目のときですね。部員数が足りなくなって存続の危機に陥ったんです。先生が困っているのをみて『じゃあ、ぼくが入ります』って手を挙げたんです」。
この話から、星さんのやさしさと行動力と、そして、多少の無謀さが浮き彫りになる。
「ほかの選手とは、からだのサイズからしてぜんぜんちがった」と星さん。
そういや、星さんの3年間は、喫茶店通いがルーティンだった。スポーツとは無縁。
からだの小さな星さんが、グラウンドを駆ける姿を想像すると、先生を恩人と慕う星さんの気持ちと、ちょいワル星さんの意外な、ひたむきさが伝わってきた。
一粒の砂は少しずつ光りはじめた。
「報・連・相」厳禁と、独りで立つ力と。
「学校の紹介もあって、ゴム関連の会社に就職しました。3年半くらい勤めました。仕事ですか? 仕事は父親のアドバイスもあって営業職です」。
――どうでした?――
「3年半、つづけていますから、成績も悪くはなかったんでしょうね」。
――魚金はそのあとですか?――
「そうです。さっきのジャニーズの話は、そのときのことです。当時の魚金は今みたいに有名じゃなかったです。そのあと、越後屋に移るんですが、これもまた私のターニングポイントの一つです」。
「看板は同じでも全店、独立採算制だった」と星さん。
営業利益の30%が店長の取り分。
「最初から45万円くらいありました。最高は、80万円くらいです。社長ともお話することが多く、かなり影響されています(笑)」。
「報・連・相が厳禁だった」と星さんは、突然、切り出す。
「なにをやってもいいんです。メニューも店舗でちがうし、なんなら価格もちがいます。ぜんぶ、フリー。マニュアルも、ルールもない。ただひとつ、報・連・相が厳禁」。
「ふつうその逆でしょ。でも、わかるんですよね。相談はもちろんですが、報告も、連絡も毎回、相手にしていたらキリがない」。
ルールで「報・連・相」が禁止されている。だから、独学で学んでいくしかなかった。ただ、それがかえって、星さんを育てた気がする。
「調理の経験がなかったんですが、それはなんとかクリアできました。困ったのは、スタッフの育成です。そもそも採用が難しいエリアだったし、若気の至りっていうんでしょうか。ちょっときつくあたったときもあって」。
――ほかの店長に相談しなかったんですか?――
「それもなかったなぁ。月1回定例会があったんですが、会社のなかに『共有』っていう概念がなかったんだと思います」。
調理も、採用も、育成も、経営もイチからで、本人は悩んだことも少なくなかったというが、高い給料が示す通り、課題をつぎつぎとクリアし、社長からも高い評価をもらうようになっていく。
そして、37歳で独立。
・・・続き
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