2026年4月7日火曜日

株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏を取り上げました。

本文より~

父から受け継いだ起業家のDNA。

東京都大田区。下町の活気と職人気質が残るこの街で、松本氏は産声を上げた。両親は同い年で中学時代からの顔見知りという、絵に描いたような地元カップル。18歳で第一子である兄を授かり、若くして家庭を築いた父は、家族を養うため必死で働いた。焼き鳥屋や引越し業など、ありとあらゆるアルバイトを掛け持ちしながら食いつなぐ日々。しかし、父の心には常に「独立」の二文字が燻り続けていた。
24歳の時、父は内装業で独立を果たす。店舗の内装を手掛ける中で飲食ビジネスの可能性に触れ、自らもプレイヤーとして参入。イタリアン、焼き鳥、居酒屋……最盛期には20店舗を運営するまでになった。松本氏にとって、父は「商売人」そのものだった。
しかし、商売の世界はそれほど甘くない。急拡大の裏で経営の波に翻弄され、一家はどん底も経験した。自宅の電気やガスが止められるほどの窮乏。普通の子どもならトラウマになりかねない光景だが、松本氏は事もなげにこう振り返る。
「僕がまだ小さい時でよかったですよ。そんなに苦労した記憶はないんです」。
この屈託のなさが、彼の最大の魅力といえよう。
父の事業閉鎖という危機に直面する家族。しかしバラバラになるどころか、より一層その絆を深めていく。親族や友人たちの温かいサポートもあり、松本氏は荒れることもなく真っ直ぐに育っていった。
そんな氏の憧れは、8歳上の兄だった。 兄は弱冠20歳で美容・化粧品関連の広告代理店を起業。さらに自社での製造販売まで手掛け、父譲りの商才を遺憾なく発揮していた。オフィスを広げ、成功の果実を臆せず享受する兄の姿を見るたび、人生における「当然の選択肢」として、「起業」の二文字が宿命のごとく松本氏の胸に居座るようになっていった。
「起業して成功したらこうなるんだって思いました。起業するのが当たり前っていう感覚でしたね」 。
起業という生き方以外の選択肢はない。その確信が、のちの型破りな行動力を支える礎になった。

自由奔放な学生時代と、人生初の目標。

起業への意欲は人一倍強かった。しかし、既存の教育システムという窮屈な服を、松本氏は最後まで着こなすことができなかった。高校に入学したものの、授業に興味が持てずわずか1年で中退。通信制高校に転入するも通学は月2回、テストは自宅で受けるという、まさに「形だけ」の高校生活だった。卒業までの3年間はアルバイトに明け暮れた。大学には推薦入学を果たしたものの、片道2時間半の通学に耐えきれず、2年で中退してしまった。
周囲から見れば「もったいない」の一言に尽きるだろう。しかし学生という肩書きは、起業家魂を宿す松本氏にとって、無用の長物だったのかもしれない。
大学中退後、一部上場のデジタル広告会社にアルバイトとして入社。大手美容メーカーを担当し、後に自身の生業となる広告営業のノウハウを学んだ。
「兄と同じ美容系の広告会社を作りたい」という強い願望。それは、自由奔放に生きてきた松本氏が、人生で初めて明確に掲げる「目標」となった。

「10か月間売上ゼロ」を打破した強運と、執念のウルトラC。

学時代の2年間、学業の面では目に見える成果もなく、ただいたずらに時が流れていった。しかし、そこで得た「友人」という財産が、松本氏の運命を大きく変えることになる。
22歳で広告代理店を設立。共同経営者として代表に据えたのは、学生時代からの友人だった。 彼の両親から資本金200万円を借り、事務方を任せた松本氏は、営業職としてたった一人で最前線へ斬り込んでいった。
華々しい船出になるはずだった起業生活。しかし、現実は非情だった。創業から10か月間、売上はゼロ。刻一刻と通帳の残高は減り続け、やがて資本金も底を突いた。責任感の強い友人はプレッシャーに押しつぶされ、松本氏の前で涙を見せることもあった。
「僕がどうにかしなければ」。
そんな松本氏に焦りはなく、むしろ「確信」に近いものがあった。
「僕は、『やれば絶対に顧客を捕まえられる』と信じていました」。
最後まで諦めないその姿勢が、奇跡を呼んだ。資金繰り目的でとりあえずアルバイトをしようと面接に臨んだある会社から、仕事の依頼を受けるというウルトラCをやってのけたのだ。
「面接で応募理由を聞かれたので、『実は広告代理店をやっているが、仕事がない』と事情を説明しました。そしたら逆に発注してくれることになって、月100万円ほどの売り上げを得ることができたんです」。
なんという強運の持ち主だろう。その時期から今でも取引しているという美容系のクライアントも急成長を遂げ、月30万円という小規模な取引から、松本氏の会社に投じる広告費も、それに見合う規模へと拡大していった。気が付けば数年後、松本氏の会社は売上5億円規模の組織へと変貌を遂げていた。
「まず動く。直接ぶつかる」スタイルこそが、まさに松本氏の真骨頂といえるだろう。

父の居場所を守るための新業態。

広告事業が絶好調となり、経営者として安定期に入った松本氏。2020年、彼は経験のない「飲食業」への参入を決意する。当時、世界は新型コロナウイルスの猛威にさらされ、飲食業界は未曾有の危機に瀕していたにもかかわらず、だ。
その決断の根底には、戦略的な勝算よりも、相手の心に寄り添おうとする松本氏なりの矜持があった。数年前、兄が郵便局店頭での冷凍ケーキ販売事業を手掛けた際、現場の責任者として采配を振るっていたのは、かつて20もの店を経営していた父だった。父にとってそれは、自身の再起を託す大切な居場所でもあったのだ。
しかし、コロナ禍で対面販売が不可能になる。次の一手として兄は飲食業を検討していたが、フランチャイズ展開になる可能性が高かった。
「FCだとしたら、父が現場で活躍できるポジションがないかもしれない。なら、父はこれからどうやって、どこで輝けばいいのか」。
松本氏は動いた。2020年、世の中が自粛ムード一色に染まり、多くの店がシャッターを下ろす中、「周りが閉めている今こそがチャンスだ」とする逆転の発想で「株式会社ペゴパ」を設立。大森に1号店をオープンし、現場の責任を父に委ねた。
政府からの補助金が一切支給されない時期の開業。深夜営業やアルコール提供のニーズを真っ向から受け止め、攻めの営業姿勢を貫いた。加えて父の豊富な飲食業経験も奏功、やがて連日満席の繁盛店が完成した。現在は「新世界・焼肉ホルモンぺごぱ」を始めとする焼き肉店2店舗と、韓国料理店の合計3店舗を展開。今後は焼肉店に注力していくそうだ。

・・・続き

株式会社ペゴパ 代表取締役 松本光希氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年、今後への備え。

イラン情勢の影響で景気後退が予測される2026年。
そこを逆風にするか、追い風にするかは、「仕組み作り」にかかっています。
飲食業界特化で求人メインのキイストンにとっては地獄の一丁目一番地だったコロナ禍を勝ち抜いた転換力を武器に、外部ブレーンの皆さんも巻き込み共創による新プロジェクトの始動も計画してます。
もちろん社内の人たちには、人材採用と教育など関わりを深く持ってもらいます。

そのすべての基盤となるのが、累計1,145回を数える「飲食の戦士たち」の歩みです。
まずはこれを1,200回へ。
基礎を積み上げ、変化を恐れず、次なるステージへ向かいます。

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2026年4月3日金曜日

「結果に偶然はない」、なるほどそのとおり!!

ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、今年の入社式で509名の新入社員へ贈ったメッセージが話題です。
柳井氏が説いたのは、プロフェッショナルとしての徹底した「自律」と「主体性」でした。
「自分の運命は、自分で作れ」
「受け身になるな。自分から動かなければ、周囲に動かされ、変えられてしまう」
「結果に偶然はない」
これらの言葉には、変化の激しい時代において、自らが変化の起点となって行動することの重要性が込められています。
「やってみないとわからない」という現実は、多くの経験を積んできた柳井氏だからこそ行き着いた真理。成功も失敗も、すべては自分の意思と行動が引き寄せた「必然」の結果であると受け止めることで、私たちは自分の人生を力強く切り拓いていけるはずです。


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2026年4月1日水曜日

炭火と藁焼き 滾(たぎる) オーナー 北岡健吾氏登場。

“飲食の戦士たち”炭火と藁焼き 滾(たぎる) オーナー 北岡健吾氏を取り上げました。

本文より~

1日のフィニッシュは「ごちそうさま」。

「18時厳守だった」と、今回、ご登場いただいた北岡健吾さんは笑う。北岡さんは、「炭火と藁焼き 滾」(2025年12月オープン)ほか、分倍河原にドミナントで3店舗の飲食店を展開する、1991年生まれの若き経営者。
 少年時代から活発で、友達も多く、習い事は片手でおさまらない。ボーイスカウト、サッカー、空手、野球、卓球、ECC、パソコン教室…。
 空手は仮面ライダーになりたくて、サッカーは2002年に開催された日韓ワールドカップで観たイングランド代表のマイケル・オーウェンに魅了されて。
 ちなみに、空手は10年、ボーイスカウトは8年、プロを目指したサッカーは大学までつづけている。
 数々のスポーツで敵をけちらす北岡さんだったが、母と祖母にはかなわなかった。大好きだったから。
 門限は18時。「車にひかれて、骨が曲がったときだって遅れまいと思って、うちに走った」と笑う。
 「小学6年生のとき、父と母が離婚して。それから母と祖母と私の3人の生活が始まります。銀行員だった母は仕事人間で、社交性のある祖母もまた、沢山の友達と常に一緒で」。
 「おかげで習い事もたくさんできて、勉強をしなくてよくて、なにをするにも自由だったんです。ただ、時間にだけはうるさかった。18時に帰って、家族で晩御飯を食べる。これが北岡家の絶対的なルール。1日のフィニッシュは、『ごちそうさま』の一言と決まっていたんです」。

怒り、悲しみ、痛みが生む莫大なエネルギー。

母と祖母。
話を聞いていると、お二人は北岡さんにとって先生以上にリスペクトする存在だった。その様子が言葉の端々に浮かび上がる。
「私は、大阪で生まれ育ち、大学まで家族と暮らします」。
難病で祖母が亡くなり、大学では、友達を亡くした。
「ゼミで知り合った後輩の女の子でした。とても明るい子で、いっしょにコンサートに行こうと言っていたのに。いちばん近くにいたのに、彼女の苦しみに気づいてあげられなかった」。
頭の回路が、狂った。復讐をするかと、ナイフを探したこともあった。
「でも、そうじゃないって気づくんです。彼女が私に向けていた、あの明るい表情はカムフラージュでもなんでもない。彼女の、心からの表現だったんです。だから、彼女のぶんまで、私はつよく、明るく生きないといけないんです」。
祖母の闘病中の時に15歳の北岡さんが「死ぬのがこわい?」と聞いたことがあるそうだ。
「『こわくないよ!私のことを覚えてくれている人たちが沢山いるから』と。その一言が僕の死生観を形成してくれました」。
そんな祖母の最後の教えは、後悔しないことだった。
「怒り、悲しみ、痛みは莫大なエネルギーを生む」と、北岡さんはいう。そのエネルギーをどうコントロールするか。トップギアか、バックギアか。それによって人生がかわる。
北岡さんは、怒りや、悲しみ、痛みを知るたびに、トップギアで加速した。
大学の卒業式、大学で首席だった北岡さんは、壇上で「大学を卒業して、オーストラリアに渡る」と宣言する。
さぞ、会場はざわめいたことだろう。

目標、教科書に載ること。でも、どうしたらいい?

「私は、凡人で、なにをやっても才能なんかないんです。ただ、ちょっとかわった奴なんです」。
高校時代、サッカーの強豪校に入ると、中学までチームでいちばんうまかった北岡さんが、いちばんヘタになった。だから、だれより努力した。かなわない相手を前にしても、退かない。
「やりきれ」と母は言った。
今もその言葉に従っている。
「だからね。教科書に載らないといけないんです」と、北岡さん。
<教科書に?>と思わず聞き返すと、「かわった奴でしょ」と言ってから、「でも、一度、決めたからにはやりきらないといけない。それに、祖母に教えてもらった“一人でも多くの人に覚えてもらっていれば、死ぬことが怖くなくなる。”という考え方。だから教科書に載れれば、いつどうなっても、後悔なく生きられると考えたんです。だから、大学を卒業して、3年間、日本を離れました。日本じゃ、あのソフトバンクの孫さんだって、教科書に載っていないから、海外で勝負しようと思って」。
大学生になった北岡さんには、とんでもない野心が生まれていた。たぶん、生きた証。
「突然、思いついたわけじゃなく、大学1年から計画していて。2年までで徹底的に単位をとって、3年からはバイトです」。
「やると決めたからにはやりきれ」。
母の言葉が背中を押しつづける。
「バイトで500万円をためた」と聞いて驚いた。「週6日、1日16時間、仕事漬けだった」と笑う。
500万円を握りしめて向かったのは、オーストラリアのブリスベン。日本人がまだいないエリアだった。
ブリスベンだった理由を聞くと、「日本人がいないエリアじゃないと海外に行く意味がないでしょ」と返答。
ただし、そのぶん、苦労もした。
「苦労する自分が、好きなんです。サッカーのときもそうですが、這い上がるのが大好きな、マゾなんでしょうね(笑)」という。
だれとも比較しない。だから、これくらいでいいとはならない。とことん、やる。これが、北岡さんがいうマゾの正体。

オーストラリアで、披露した高速、皿洗い。

「ワーホリじゃなく、留学でしたら、学校に通いながら仕事を探しました。ただ、うまくいきません。日本の大学では首席でしたが、英会話がろくにできなかったんです(笑)」。
それだけじゃなく、ファッションもなかなか、就職のハードルをあげていた。
オーストラリアへ向かう息子にお母様がいった。
「いい? 日本人なんて思われたら、お金を取られちゃうんだからね。向こうは、あったかいからユニクロで買ったボロボロの服を着ていきなさい」。
そして、ボロボロの半袖、半パンの、虫取り小僧がオーストラリアの街をあるくことになる。
「仕事をしたくて、学校の先生に履歴書を書いてもらったんですが、そんな格好だから、どこに行っても門前払いです(笑)」。
「でも、ある飲食店のトビラを叩いたとき、たぶん、浮浪者に間違われたんでしょうね。仕事はくれなかったけど、飯を恵んでくれたんです」。
「初めて、親切にしてくださった人だったので、お礼に皿洗いをさせてくれとジャスチャーで頼んだんです」。
シンクにたまっていた皿が次々ときれいになっていく。人がいい店長の目が丸くする。
「なにしろ、高校から皿洗いしていますからね。高速で、きれいに洗いまくっていると、採用だって(笑)」。
「そんな感じで、そこで働くことになって」。
オーストラリアに2年、帰国してからもルワンダなど貧困国に渡っている。
海外を訪れて感じたことは、日本人に生まれてよかったこと。「日本に生まれただけで運をもっている」と北岡さんはいう。
「それなのに、だれだれと比較して落ち込んだり、立ち止まったりして、その運を、無駄遣いする。そんなことしちゃダメなんです」。
オーストラリアで日本の飲食のレベルの高さに気づいた北岡さんは、世界で勝負する、そして、教科書に載るなら飲食だと狙いを定めた。
満を持して帰国した北岡さんは、数ある飲食店のなかから、株式会社subLimeを選択する。
経営者は、この飲食の戦士たちにも何度もご登場いただいている花光雅丸さん。現、株式会社beagleの代表である。

subLimeで加速する、飲食人生。

subLimeに入社した北岡さんは、いきなりトップランナーに躍り出て、飲食人生を加速させていく。
subLimeのM&A戦略を実質、リードしてきた中村英樹さん(現GYRO HOLDINGS株式会社の取締役)との出会いが、加速装置となった。
「subLimeでは、『牛タン大衆酒場 べこたん』という、新たなブランドの2号店を任されます。オペレーションも確立していなかったし、そもそもどんな業態でオープンしても長続きしなかった最悪の店舗だったんです」。
だれがやっても、うまくいかない。起死回生を託された格好の北岡さん。ただし、意欲はあっても、経験値は少ない。
どうなっていくんだろう?
「マニュアルないから、『自由にしていいよ』と。そりゃそうですよね。自由以外、何があるっていうんでしょう(笑)」。
思案しても、始まらない。凡人らしく、やることをやる。ただし、「やる」のレベルがちがった。
「昔からそうなんです。できるできないじゃなく、やる。やるなら、自分の最高レベルで。失敗はしてもいいけど、悔いを残したくありませんから」。
悔いを残さないこと、やさしくて、つよい祖母の生き様だった。


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2026年3月31日火曜日

2026年度始動。キイストン、大きく舞台を変える一年に。

2026年4月1日、キイストンの新年度がいよいよ幕を開けました。
今年度は、私たちにとって「真の価値」が問われる、大きな転換点になると確信しています。
緊迫するイラン情勢やエネルギー危機など、世界経済は予断を許さない状況にあります。

飲食業界においても、倒産やM&Aといった厳しい再編の波が押し寄せることが予測されます。しかし、こうした不透明な時代だからこそ、確かな「人材」へのニーズはこれまで以上に高まります。
私たちはこの数年、少人数でも高いパフォーマンスを発揮できる「強い組織」へと進化を遂げてきました。今、私たちが求めているのは、経験の有無ではありません。

「向上心」を持ち、周囲を照らす「明るさ」を備えた同志です。
逆境をチャンスに変え、昨年度の2倍の成長を目指す。
「言霊」を信じ、キイストン一丸となって、新たなステージへと突き進んでまいります。


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2026年3月26日木曜日

3月25日(r水)、産経デジタルzakⅡにて、ソムリエ様の「ラトリエ・デュ・パン」2号店が大井町トラックスにOpenを取り上げました。

産経デジタルzakⅡ「ここだけの外食産業ニュース」にて、再現ショートドラマ第9話に登場された株式会社ソムリエ様の「L’Atelier du Pain(ラトリエ・デュ・パン)」2号店が3月28日に開業するJR大井町駅直結の複合施設「OIMACHI TRACKS(大井町トラックス)」内に出店!

食べログの「百名店」に何度も選出されてます。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏を取り上げました。

本文より~

中学卒業まで。転校生と、たった2人のバレー部員と。

集団生活は苦手。子どもの頃にはイジメにもあったそう。今の森岡さんをみていると、どちらも不釣り合い。
「イジメといっても小学校1~2年のときだけ。親が学校に来て、それからすぐになくなったので、長くつづいたわけではありません」。
おなじ学校に3つ離れた兄がいたから心強かった。
「父親が転勤族だったので、小学校の1~2年は静岡、3~4年は福岡、5~6年の時に熊本、そして、中学1年から東京の町田と転々としました」。
「大人しかった」と幼少期を振り返る森岡さんだが、空手を習い、ちょくちょく優勝もしたそうだ。
一方、転校に話をふったが、「転校はそう苦にならなかった」と笑う。
「母は過保護、父は見守るタイプ」。
ご両親の話を聞くと、そんな回答だった。なんでも、母方の祖父はスズキベンチレーターを開発した人だという。相当な資産家だったとのこと。
ともかく、小学校は転校を繰り返した森岡さんだが、中学から町田に住み、そちらがホームになる。
「案外、素直だったんでしょうね」と森岡さんは目を細める。
話は、中学生の森岡少年の話に移った。
「2年生の担任に言われるままバレー部に入ります。部といっても、その先生がつくった部で、部員は、私と、もう一人」。
 <つまり、2人?>
「そう(笑)。部員2名ですが、1人じゃなくてよかったです。2人だったら、『トス!』とか、『スパイク』とか!って、練習もできますからね」。
空手で優勝していることからもわかるように運動神経はいい。ただし、バレー部では大会にでることもなく、卒業する。

桜美林へ。バイトをしすぎて、就活に乗り遅れる。

高校は、地元の町田を離れ、世田谷区の学校まで電車で通学した。「転校を何度も経験したからでしょうか。ポジティブに新たな出会いをもとめて、地元の仲間がいない高校を選択しました」。
ともだちは、だれもいない。だから、新たにつくればいい。といっても、集団生活は、やはり苦手。
「それで、けっきょく学校も行きましたが、ちかくのキックボクシングのジムに通います」。
空手からキックボクシングへ。格闘技は今も好き。
高校2年になって、もう一つの「好き」ができた。
「桜美林大学に進むんですが、高校2年のときに好きな子ができて、彼女が『CAになるために桜美林に進む」といったからなんです」。
彼女は、学年でも5位以内に入る才女だった。森岡さんはオール3。行くといってもハードルが高かった。
「最初は、ぜんぜんダメだったんですが、彼女に英語を教えてもらって、受験の作文では、頭のいい兄のちからを借りて。無事、合格。彼女といっしょに桜美林に進み、じつはいっしょにカナダへも留学しています」。
大学生活は、バイトもいい思い出の一つ。
「『びっくり寿司』ってお寿司屋さんでバイトしまくりました。留学も、そのバイトでためたお金で。もっとも、カナダでのカジノで使っちゃうんですが(笑)」。
帰国後もバイトをした。「お金を稼ぐことが面白かった」と森岡さん。ただ、面白すぎて就活に、出遅れる。

現実逃避と、キックボクシング。

「ちょっとヤバいなってなって。でも、父親が転勤族だったこともあって、もともとサラリーマンはやだなとも思っていたんです。だからといって、サラリーマン以外になる、アイデアもありませんでした」。
<就職はしなかった?>
森岡さんは頷く。
「大学を1年休学して、もう一度、キックボクシングを始めるんです。就職できないのはカッコ悪いけど、キックボクシングでプロをめざすといったらカッコいいでしょ。まぁ、現実逃避なんですが(笑)」。
現実逃避と言っても、真剣だった。だから、逆にプロとの力の差を知った。
「もう一歩でプロってところまではいったんですが、さすがにプロで食べていくには、ちからが足りなかったです。びっくり寿司でバイトをしながらですが、むちゃくちゃ真剣にやっても、プロは遠かったです」。
<それで、復学ですか?>
「大学に戻るんですが、色々あって、今度は役者になります。オーディションで情熱を評価していただいて、いい役もいただいて。今度は6ヵ月休学です(笑)」。
「いつかTVに出て」と、妄想もしたが、こちらもけっきょく役者の道からも外れ、復学。そんなとき、偶然、「店舗流通ネット」という会社を知る。

店舗流通ネットと、新入社員がみた風景。

「びっくり寿司のパソコンがこわれちゃって、直しにきた人が店舗流通ネットの人で、『オレもう23歳なんですよ。サラリーマンにはなりたくないんですが、大学も5年生だし、どっかいい就職先ないですか?』なんて、半分、あいそ代わりにそういったら、『だったら、店舗流通ネットはどうだ』っていうんですね」。
<当時の店舗流通ネットと言ったら給料もハンパない時代の話ですよね?>
「そうです。びっくり寿司とも関係がある会社だったんで、店長に口をきいてもらって、無事、新卒で採用していただきます」。
<どうでした?>
「むちゃくちゃ面白かったです」。
森岡さんは声を弾ませる。
「サラリーマンはいやだったし、なかでも営業なんて、ペコペコするだけで、絶対、なりたくなかったんですが。店舗流通ネットの営業は、そんな私のイメージをいい意味で裏切ってくれたんです」。
1000万円以上の社員も、周りにゴロゴロいた。サラリーマンというイメージには、おさまらなかった。
「なかでも部長は、いい時計もしていて、むちゃくちゃカッコよかったです」。
部長を追いかけた。初契約こそ、遅れを取ったが、すぐに契約件数でトップに躍り出る。部長の指導通り、電車のなかでもテレアポをつづけた。
結果を残しつづけ、同期を部下にした。部長からの評価も高い、高い。
「辞めるなんて選択肢はなかったんですが、赤字を唯一垂れ流している横浜のオフィスにいくことになって、そこでむちゃくちゃがんばって、黒字化するんですが、サラリーマンのカベを知って、退職を決意するんです」。
<サラリーマンのカベ?>
「はい。ある契約で、支社長がOKといったので、話を進めていたら、支社長がおうかがいを立てたんでしょうね。部長がNOだと。それって、やっぱり、カベでしょ。OKをださなかったのは、私が好きで、リスペクトしていた部長だったんで、そのぶん、落胆したのかもしれません」。
森岡さんが、退職すると、2人の部下も辞めるといった。支社長を入れて4人だったから、支社長だけとなり、せっかく黒字になった支社がなくなった。
じつはお金もなかった。
「年収はいいんですが、部下にぜんぶ奢っちゃうから(笑)」。「旅行だって、ぜんぶ、奢り」だったそう。
「だから、ぶらぶらもできないでしょ。部下も、いっしょについてくるっていうし。それで、飲食店をスタートするんです」。
びっくり寿司7年のキャリアはあったが、飲食の経験はそれだけ。とくに飲食が好きというわけではなかった。それでも、やるしかなかった。
店舗流通ネットの在籍は、4年。けっして長くはないが、だれよりも奮闘した濃厚な4年だった。

「加盟金50円です」。部下の一言と、ツルハシと。

「最初は、1人でラーメン店をしようと思っていたんですが、部下もついてきたんで、じゃぁ、居酒屋でもと」。
ラーメンかなと思っていたが、業態は、じつは何でもよかった。
「私はお金を儲けるのが好きなだけで、飲食が好きってわけじゃなかったんです。だから、業態にはそう詳しくなかったんです」と、森岡さん。
「でも、部下は正反対で、飲食が大好き。その、飲食大好きな部下が、『鶏ヤロー』を教えてくれたんです」。
「鶏ヤロー」は、この「飲食の戦士たち」にも度々登場する。加盟金50円、ロイヤリティ50円。
「今はちがいますが、ちょうど7年前くらいだったんで、たしかに50円でした(笑)。ノウハウも、お金もない私らにはいちばん。ただ、いくら50円といっても、店は用意しないといけません」。
店舗流通ネットの経験があるから、相場もわかるし、どこがいいか、おおよそ、ロケーションの見当もつく。しかし、先立つものがなかった。
「税理士にも相談させてもらって。税理士は、とにかく、むちゃくちゃ稼いでください』っていうんです」。

生まれて初めて、ツルハシをふるう。朝も、夜も。「あのときが人生でいちばんきつかった」と森岡さん。
手を休めれば怒号がとぶ。朝8時からスタートし、17時に終了。3時間休憩し、森岡さんは、夜のローテーションに入る。
「20時から朝5時です。5時からまた3時間休憩して、8時から」。
寝る時間も惜しんだ。どうして、そこまでできたんだろう。「気合と根性」と森岡さん。
もう大人しい少年の姿はどこにもなかった。
「半年たった頃に、『大和でいい物件がでた』って連絡が入るんです。その物件を押さえて、現地調査をして。そういうのは前職で経験していますから得意です。よし、これなら月商300万円はいけるだろうと」。
寝ずにはたらきためたお金、100万円をぜんぶ、ぶちこんだ。もちろん、それだけじゃ雀の涙だ。
「2フロアで25坪、家賃は20万円。でも、スケルトンからですから、造作も含め、ぜんぶで1300万円。幸い、金融機関から融資が下り、晴れて、私たちの『鶏ヤロー』がオープンします」。
飲食店の経験なし。1200万円の借金を抱えて、気合と根性だけで「鶏ヤロー」がオープンする。
これが2019年7月のこと。初月200万円、ギリギリ利益がでた。低空飛行がつづくが少しずつ利益ものびた。しかし、年が明け、2020年になると、状況が一変する。

コロナと、コロナ後と。

2月になって緊急事態宣言が発出される。コロナ禍の幕があけた。
「でも、状況は一変しても、ぜんぜんお金がなかったから閉めるわけにはいかなかったんです。鶏ヤローの社長の和田さんにも了承していただいて営業をつづけさせていただきました」。
当初は、助成金もなにもなかった。ただ、「営業するな」と、飲食店は悪者にされた。
「2~3週間したくらいでしょうか。だんだんお客さんがいらっしゃって。なかには、応援してくれるお客さんも現れて。居酒屋なのに50人待ちの行列までできて。もう、泣いちゃいそうでした」。
「のちのち和田さんの本体も営業を開始して拡大していくんですが、最初から営業をつづけたのはうちくらいじゃないですか?」。
気合と根性、それしかなかった証。幸い、感染者もでなかった。
「コロナのおかげではありませんが、利益もでるようになり、大和の鶏ヤローは今も好調です」。
2026年現在は、業態も広がり、鶏ヤローに、均タロー、豚ギャングなど11店舗を展開している。
「そのうち直営は2店舗だけで、あとは、部下だった人間に業務委託で店を任せています。この手法で、バンバンみんなで儲けていく予定だったんですが、最近は、家賃も上がり、原価もむちゃくちゃ高くなったから、計画通りうまくいかなくなってきました」。

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株式会社WaltStein 代表取締役 森岡 嵩氏


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2026年3月18日水曜日

食べログは2025年度最終的に10位で締めくくれそう。

 2026年3月時点で「食べログ」代理店では10位と2025年度はスタッフが本当に頑張ってくれ10位をずっとキープできた。

これも7月に退職したH君が基盤を作ってくれたおかげ。

2026年度は1つ順位を上げ9位に浮上したい。

この1つ上に上げるのはかなり至難の業ですが、コツコツ積み上げます。


また、「飲食の戦士たち」再現ショートドラマも第9話が初の2万再生超えしました。

キイストンにとってはめちゃくちゃ大きな出来事です。

前監督の後を引き継ぎ、制作スタッフの人たちはよく頑張ってくれました。

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマもちょっとしたキッカケでバズる気がしてなりません。

年内にあと2〜3本やりたいです。

なんでもそう、コツコツ積み上げてたら必ず良いことあります。

頑張ろう。



キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2026年3月17日火曜日

有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏登場。

“飲食の戦士たち”有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏を取り上げました。

本文より~

社会人になるまでの本山さん。

なんとなくだが、ターフの記憶があるそうだ。
「ちっちゃな頃の記憶です。競馬好きの父親に連れられて観たんだと思います」。
お父様は、その頃すでに「焼肉もとやま」をオープンされていた。
「もともと喫茶店をオープンして、そのあと、焼肉をはじめたそうです」。
破天荒な人で、酒と、ギャンブルが大好き。
競馬の賞金で、家族みんなで、ハワイ旅行に行ったりもした。
「勝てばいいんですけどね」と苦笑するのは、今回、ご登場いただいた本山さん。「ターフの記憶がある」といった、破天荒な父のご子息である。
本山さんが生まれたのは1977年。東京都台東区。なんでも、「当時は今よりにぎやかだった」そう。事業をしている家庭が多く、その多くが零細だったが、そのぶん、あったかく、にぎやかなコミュニティをつくっていた。
「もとやま」にも、その零細企業の社長さんや従業員さんが来られていたんじゃないだろうか。
<本山さんは、どんな少年でした?>と、シンプルな質問をすると、にっこり笑って「小学校高学年までは普通の子だった」と回答。
つまり、それからは、普通じゃなかったということだ。
小学校から空手をはじめ、高校までつづけている。高校になるとバイクの免許を取り、バイクに乗った。18歳になると、今度は普通車の免許を取り、「たまに学校まで車で乗り付けていた」と笑う。
だいたいこのくだりで、どんな少年だったかが想像できる。
空手と、バイクと、車と。
父同様、破天荒で、仲間思い。スポーツは得意だったが、勉強は苦手。
大学進学は頭になく、専門学校へ進むが、1年で退学。マスコミに行きたいと、フジテレビの子会社に就職。番組の制作会社で、本山さんの仕事は営業だった。
<社会にでてどうでした?>
「いままでチャランポランな人生を送ってきて。たまたまフジテレビの子会社に就職できただけで、特別なスキルなんて何一つありません。しかも、高卒で、周りは大卒ばかり」。
「でも、負けたくはないし、自分が劣っているって認めたくもない。だから、とにかく働いて、働いて(笑)。そしたら、1年半くらい経った頃ですね。さすがにからだを壊して、入院して、そして」。
<退職?>
「ええ」と本山さんは頷く。
まだ、なんの実績も残していない頃の話。

焼肉の聖地、大阪・鶴橋へ。

仕事を辞めた本山さんは、家業を手伝い始める。
「飲食の戦士」への第一歩と言いたいが、本山さんが希望したわけではなく、お父様から強くプレゼンされ、しぶしぶ手伝い始めたそうだ。
熱心に誘ったお父様だったが、いざ親子で始めると、口ゲンカが絶えなかった。
「それでも、2年くらいかな。それくらいは親父といっしょに仕事をして。私自身も、だんだん飲食の面白さにハマり始めたんです。ただ、そうなったらそうなったで、今まで以上に口を出すことが多くなって」。
お互い似ている。破天荒な者同士。ついに、本山さんは実家をでる。
お父様のプレゼンは、2年後、空を切ったことになる。
「なんかね。父親ともそうですし、それ以外の人ともつながっていることが億劫になって、いったん線を引こうと、単身、知り合いもいない大阪へ向かいました」。
「パチンコで生活しようと思っていた」と本山さんは笑う。何の取り柄もないといったが、さすが父親譲りのギャンブラーである。
「だけど、規制がかわっちゃっていて。ぜんぜん、うまくいきませんでした。パチンコがダメになると、また、何も思いつかない(笑)」。
空手と、TV番組制作と、ギャンブルと…。
「そう、一つだけあったんです」。
<焼肉?>
「そう」。
本山さんの声が弾む。
「大阪には、『鶴橋』っていう焼肉の本場があるんです」。
やるならと、そのなかでも「トップを争う焼肉店の門を叩いた」そう。
「飲食は楽しいと感じていましたし、実際、働くと厳しいことも言われましたが、仲間もできて、めちゃくちゃ楽しかったですね。将来、店を継ぐかですか? それは、まったく考えてはいませんでした。ずっと働くつもりだったんです」。
<つもりだった?>
「そう、何事も希望通りにはいきません」。
「BSE」と本山さん。
マスコミがこぞって、BSE問題をピックアップし、そのたびに客はいなくなった。
「実家も、大打撃を受けました。その時、唯一、信頼している叔父がいるんですが、その叔父から『帰ってこい』と言われて」。

閑古鳥はまだ鳴いている。

「閑古鳥鳴いていた」と、本山さんは笑う。
実家のフロアに立ち、驚愕する。
「月商は、100万円いくか、いかないか、くらい」。
本山さんは、いったん「焼肉もとやま」をクローズして、本山さんが買い取り、新たにスタートする。
<「焼肉もとやま」新バージョンですね? いかがでした?>
「焼肉の聖地『鶴橋』仕込みですから、『そりゃ、』と大きなことを言いたいんですが、BSEになんて勝てるわけがありません(笑)」。
今なら、笑い声もでる。淡々と語ることもできるが、たいへんな苦労をされていることがつぎの話からわかった。
「当時、私は25歳です。とにかく、私が経営者になって、父と母と3人で新バージョンの『もとやま』を運営します。従業員はいません。3人だけです」。
客は来ても数名。月商は80万円。レジをシメるたびに、ため息がでた。生活もカツカツだったし、借金も少なくなかったから、なおさらだ。
「営業中」の看板を下ろすと、本山さんは夜の街に向かった。遊ぶためじゃない。アルバイトのためだ。
「5年間は、うちの仕事とバイトの毎日でした。バイトで稼いだぶんは、借金の返済にあてました。当時、妹もいれて家族4人で、1週間の食費が1万円でした」。
昭和の話じゃない。
ギャンブルはしなかったという。かわりに生き様がギャンブルになった。せっせと働いたが、だからといってなんとかなる保証はなかった。
そう、5年経っても、まだ閑古鳥は店に居座ったままだった。

一発大逆転。

「一発大逆転」。ギャンブルなら、そうなる。
「地域の情報誌の小さい記事がきっかけだった」と本山さん。
「夜はあいかわらずでしたが、その頃には、ランチの評価が高く、満席になることも少なくなかったんです。それで記事になったんですが、そのあと、TVも取り上げてくださって」。
<一気に?>
先を急いで、口をはさんでしまった。
「そうなんです」。本山さんが笑う。
5年間、「儲かる、儲からない」じゃない。お金をバイトで補填しながら、仕事にはちゃんと向き合ってきた。肉のレベルも落とさなかったし、掃除もした。笑顔も絶やさなかった。
「おかげでというか、TVで取り上げられてからはランチも、ディナーも満席になって。従業員も採用できるようになりました」。
レジもたいへんなことになっていたはず。
なにしろ、日々の売上は、今までの10倍以上になっていたからだ。
<一発逆転ですね?>というと、本山さんは頷く。
ただし、ラッキーな逆転劇ではない。5年間、本山さんを試した飲食の女神が、ついにふりむき、微笑んでくれたのだ。
本山さんは「焼肉もとやま」を再構築する。
「両親には、引退してもらって、若いスタッフを採用していきます。工場も新設して、そこでは、鶴橋の店で同僚だった肉のプロが2人、目利きを担当してくれています」。
<現在、何店舗ですか?>
「6店舗です。2号店は白山、そして3号店は新宿にオープンします。とにかく、凡事徹底で。恵比寿にもオープンして、いま現在、直営で6店舗を経営しています」。
「工場も好調だ」という。
「2人が焼肉店出身でしょ。だから、目利きはもちろんですが、焼肉店仕様の加工ができるんです。そのおかげで、当社の店舗以外にも卸させていただいています」。
家族4人、1万円生活の時と風景はまるでかわっている。
じつは、飲食があくまでメインだが、デイサービスなど様々な事業へ進出。その理由をうかがうと、やはり、お父様が倒産されたことが根底にあった。
「一本足打法だと、どうなるかわからないから」と、経営者の顔になった本山さんがいう。
多彩な才能があるわけではない。そのぶん、愚直にできることをする。それが、少しずつ事業の多角化となっている。将来は?と聞くとやはり、本山さんらしい答えが返ってきた。

・・・続き

有限会社D&Cクリエート 代表取締役 本山雄貴氏


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