2026年1月13日火曜日

株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏を取り上げました。

本文より~

1970年代の競争と、アメリカンフットボールと。

「貧乏だったよね」と松野さんは振り返る。小さな部屋で、父母弟の4人暮らし。
「世田谷の梅丘だったからね。お金持ちがたくさんいるでしょ。小学生でファミコンでしょ。ナイキのシューズでしょ。だから、付き合っていたのはうちと一緒で、借家に住んでいた、貧乏っていうと悪いけど、そういう連中でした」。
松野さんは1973年生まれ。第二次ベビーブーム。競争相手も、比較する相手も山ほどいた。
「スポーツでも、勉強でも、とにかく競争って、そういう時代だったね。部活は中学では野球、高校ではアメフトです。今になって思えば、そういう時代だったんだと思います。私が小学4年生になった頃から、母のなかで『受験』に火がついて」。
嫌々、進学塾に通わされた。
「小学5年生のときかな。入塾して初めてのテスト。開成中学の国語の問題で86点を取っちゃったんです。
ほかの教科はだめだったんですが、国語だけが天才的でね」。
褒められたことがなかったから、塾の講師に褒められただけで有頂天になった。結果を聞いて、お母様も喜ばれた。だが、それがかえって火に油を注ぐ結果となった。
「あれはだめ、これはだめ」。ときにヒステリックに繰り返す叱責に心が荒んだ。中学受験は失敗し地元の梅ヶ丘中に通い、高校で法政二高に進んだ。
「アメフトに救われた」と松野さんはいう。
高校に入ってからの話。
「中学では野球部です。中学でも練習はきつかったですが、レベルがまったくちがいます。アメフトだから、相手に猛烈な勢いでぶち当たるでしょ。上下関係は厳しく、水は飲むな。それで、あの防具をつけて、真夏の炎天下走り回りつづけるんです。今になってみればとんでもない世界です。でも、そのおかげで、何もかも忘れることができたんです」。
松野さんは、アメリカンフットボールに熱中する。しかし、その舞台は、高校時代で幕を下ろす。
「当時、法政二高はアメリカンフットボールの名門校でした。6度の日本一になっていて、私たちの頃が黄金期です。ただ、ぼくらの代は、春は関東で優勝したんですが、秋は2回戦で敗退。それが、むちゃくちゃ悔しくて」。
大学に進む道はたしかにあった。いや、進まないほうが稀だった。
「でも、ぼくは何かが切れちゃった。大学行って屈辱を晴らそうとも思わなかったね」。
「優勝」という目標がなくなると、急にちがう風景が目に映った。
フィールドでは、すべて対等だった。だが、フィールドを離れれば様子がちがった。大学に進んだ先輩たちは、ルイ・ヴィトンやラルフローレンといったブランドモノを持ち、親に買ってもらった高級車を乗り回し、金にあかして、女の子と遊んでいた。
「ふつうなら当然ですが、法政大学への進学です。でも、大学になれば益々、住む世界がちがうことを思い知ることになる。高校3年間、格差を感じながらも一生懸命やってきた自負がありました。だから、もういいかな、と進学を見送ったんです。そんなときに父がアメリカの大学を勧めてくれるんです。『知り合いが昔いた大学に、金さえ積めば入れるぞ』って」。

lice(ライス)と、深夜の口論と。

ミズリー州の小さな町だった。カンザスシティから車で数時間。初めての異国。
「昔から映画が好きだった。だから、アメリカにも憧れていた。でもね。国語はできるのに、英語は不得意じゃない程度。それも日本の勉強のなかの話でしょ。初日にね。学校の職員が、学校まで連れてってくれたんです。彼は、1時間くらいずっとしゃべりかけてくるんです」。
初めて聞く生の英語。
「わかるわけがない」と、両手を左右に広げる。アメリカ映画でよく観るシーンだ。
「学校のある町は、小さな町で、人口1万4000人です。そのなかで黄色人種は2人。学校を紹介してくれたアジア人のいとこのお姉さんと、日本人のぼくだけ」。
学校では松野さん、ただ1人。
「あのね。今もそうかもしれないけど、当時は、はっきりとしたヒエラルキーが存在していました。上から、裕福な白人、普通の白人、黒人、メキシカン、で、そのほかです」。
食堂に入ると、縮図が明らかになった。
「真ん中のいちばんいい席は、裕福な白人、その横にふつうの白人というような感じです。ぼくはたった1人の日本人です。めちゃめちゃ奇異な目でみられました。トレーをもってテーブルにつくでしょ。するとサァーと人がいなくなる。たぶん、バカにされていたし、いやなことも言われていたんでしょうね。でも、こっちは言葉がわからないからね(笑)」。
ある日、混雑した食堂で、松野さんは12人掛けのテーブルを独占していた。
「ぼくが端っこに座っていたらね。みんないなくなっちゃったんです」。
言葉はわからないが、目には映る。
食堂でオーダーするときも笑われた。
「ある日、『ライス プリーズ』って言ったんです。すると、給仕さんが大笑いするんです。繰り返すとさらに大笑いです。日本の発音の『ライス』は、『シラミ』なんです。だから、ぼくは一生懸命『シラミをくれ』って言ってたんです」。
たった1人の日本人に、救いの手は現れない。
「悔しさの発動」と松野さんは表現する。
「liceは、シラミ。もう、笑われたのが悔しくって、それ以来、だれとも話さないでTVばっかりみていたんです」。
現実逃避ではない。口の動かし方を徹底的に真似た。
そんな、ある日のこと。
「そのときは4人のシェアハウスに住んでいました。ぼくはだれともしゃべらない。でも、ある日、ぼくが『食器を片付けてなかった』と、1人が腹を立てて、真夜中2時にドアを破るほど叩いて文句をいうんです。こっちも腹が立ってね。言い返します。あまりに大声でやりあっていたんで、ほかの2人もやってきて。『うん?』ってだれかがいって、もう一人が、『あれ? おまえ、今、英語でケンカしているぞ』って」。
アメリカは、差別主義だったが、寛容でもあった。
「あのアメリカンカルチャーには、惹かれた」と振り返る。アメフトの試合をみて、俺のほうが巧いと思ったこともあった。バスケットボールの試合もみた。
ミズリー州で1年半。サンフランシスコでも1年半。お金がなくなって帰国した。

日本にもどって、詩人となった。

帰国して、松野さんは「地下に潜った」という。これは文字通りの話で「上野広小路」駅、大江戸線を作る現場ではたらいていた。
同時にバンドを結成し、ボーカルを務めた。歌を書き、歌をうたった。
2年間、暗闇のなかで詩を綴った。
「本をむちゃくちゃ読みました。宇宙物理学でしょ。生物学、進化論、心理学、哲学、啓発本も含めて300冊は読んだんじゃないかな」。
もともと深くのめり込むタイプ。
複雑なパズルの世界をさまよう。五感が鋭くなった。
「昼間はもちろん、寝るときだって耳栓をしていた」と松野さん。じつは、今も寝るときは耳栓がかかせない。
当時の松野さんにとって、無音の闇こそが安寧できる唯一の世界だった。そんな松野さんが、どのようにして今に至るのか。少しばかり先をいそごう。
26歳になった松野さんは嬬恋村のキャベツ畑でアルバイトをしていた。東京に戻り、有名なラーメン店で勤務。30歳でグローバルダイニングに入社する。
今まで何をするにしても結果をだしてきた松野さんだが、グローバルダイニングでは、何をやっても結果がでなかった。
「焦った。だって、初めての経験です。それまでは、思ったまま動くだけで、結果がでたんです」。初めてぶちあたったカベ。乗り越えるために、初めて人に頭を下げた。だが、それは、上を向くためだった。
「あのグローバルダイニングがなかったら今の私はない」と断言する。身体を覆っていた、ちっぽけなプライドが、ボロボロと壊れていく。そのなかから、純粋な青年が現れた。
闇を友としていた、心の弱さもそこにはなかった。
先輩を真似、キッチンから潜水艦のように頭をだし、遠くまで望む。目の前のお客様だけに目を奪われないためだ。ときに知人のような態度でお客様と接する。お客様の心を動かすためだ。
その一方で、人の5倍はたらいた。朝の11時から夜の11時まで。12時間は当たり前。シフトが終わっても帰らない。
「店が閉まってから、ぼくの掃除タイムです」。
柱に染み付いた長年の汚れを落とした。テーブル一つ、数時間かけて磨き上げた。
「ある時、いっしょに働いていた年下に言われたんです。『おめぇなんか人の2倍はたらきゃなきゃ、おれに追いつけねぇよ』って。そりゃそうです。そいつらは若い頃から、ひたむきに修業してきたんですから。それがわかっていても腹が立ち、言い返します。『バーカ、5倍やってやるよ』って」
すべてが崩れていく。だが、それにもきづかないほどがむしゃらだった。「あの時代があったから」というのは、頷ける。
「どん底があって。その底がみえたら、こっちのもんです。もがいても結果がでるなんて保証はない。でも、もう底なんだから。あとは、底を蹴ればいい」。
「あなたは、ずっと戦ってきたね」と言われたことがある。そう、ずっと戦ってきた。がむしゃらに。それが、松野さんの生き様。
だが、戦いの本番はこれから。36歳、松野さんはグローバルダイニングを退職する。

・・・続き

株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏

添加物の神様。

PRバナー
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

0 件のコメント:

コメントを投稿