“飲食の戦士たち”に 株式会社石橋正和 代表取締役 石橋正和氏を取り上げました。
店名の由来と“魚嫌い”だった少年時代。
「最初は『鮨 石橋』にしようと思っていたんです。でも、お寺で画数を見てもらったら『よくない』と言われて。それでフルネームにしました。フルネームの画数は、あえて聞かないことにしました(笑)」。
自身の名前をそのまま店名に掲げる――良いことも悪いことも、すべて自分一人で背負う覚悟の表明と言えるだろう。
今では江戸前鮨の伝道師として注目を集める石橋氏。しかし、子どものころは魚が大嫌いだった。その理由は、父の親戚が寿司屋を営んでいたから。父やその兄たちは埼玉県越谷市の店を手伝い、佐野で義父の世話をしていた母もたびたび加勢。夏休みには家族旅行よりも仕事が優先され、寿司と共にある生活に嫌気がさしていた。
小学4年生のころ。家の建て替えを機に、父は佐野で自分の店を開業した。自宅1階の寿司店はかなりの広さがあり、毎日のように手伝いに駆り出された。帰宅後は「牡蠣を剥け」「エビを処理しろ」と容赦なく父の指令が飛ぶ。寿司屋になんて絶対なりたくないと思うのも仕方のないことだった。
剣道の日々と目のケガ、アメリカへの憧れ。
小学生のある日、友人が投げた石が目を直撃。この事故が元で外傷性白内障を患った石橋氏は、大好きだった野球を断念、習っていた剣道も当時は諦めざるを得なかった。しかし、中学入学と同時に剣道の修練を再開。厳しい稽古と指導の下で心身共に鍛えられ、続く高校時代も迷わず剣道部を選択している。
武道に親しむ一方で、石橋氏はアメリカへの憧れを心に抱くようになる。音楽や映画を通じて知ったアメリカは、どうしようもなくカッコ良かった。高校留学は見送ったものの、いつかはアメリカへ。その想いは日を追うごとに強まっていった。
家に帰れば、相変わらず家業の手伝いが待っている。常連客に「ちょっと握ってみろ」と言われることもあり、上手くできないことへの悔しさから練習を重ねた。そうしていつの間にか魚の扱いを覚え、握りの基礎を学び、人前に立つ度胸も身についていった。
夢のアメリカ留学と現地での認識。
高校卒業1年後、石橋氏は渡米し、念願のアメリカ生活が始まった。
「嫌なことなんて一つもなかったですね。アジア人と軽蔑されることすら、むしろ面白かった」。
米国の大学で語学を学ぶかたわら、現地の寿司屋でアルバイトに励む日々。そこで気づいたのは、「アメリカは住むのは良いけれど、仕事をするところではない」ということ。現地の文化風習や国民性を見抜く力は、石橋氏の才能のひとつだ。
鮨を握ることは音楽と同じ。
アメリカ生活も5年が過ぎ、大学卒業を控えた石橋氏が就職先に選んだのは、銀座の名店「鮨一」だった。あれほど寿司屋を嫌っていたのに、なぜ父と同じ道を選んだのだろうか。
「言葉だけで意思疎通するのって、難しいじゃないですか。でも寿司って、お客さんが目の前にいて、自分の拙い英語にも耳を傾けてくれる。それって音楽と一緒だと思ったんです。僕、バンドでライブもやっていたので」。
エンターテインメントの国アメリカで培ったこの感覚が、海外出店を成功に導く鍵なのかもしれない。
経営方針の相違と独立への転機。
「給与面でも恵まれていましたし、独立という選択肢は頭にありませんでした。ただ、オーナーと経営に関する考え方が少しずつすれ違うようになり、あるとき「それならば自分でやろうかな」と思い立ちオーナーに伝えました。とはいえ、常務兼総料理長という立場で、海外進出に関する業務もすべて任されていましたので、実際には責任を果たしてからでないと退くことができませんでした」。
2017年3月。ようやく退職できた石橋氏は、実家のある佐野市に戻る。ところが父の店に往時の勢いはなく、これはまずいと直感。知人に打診され視察に訪れたロンドンでも、いまひとつピンとくるものがなかった。
そんな矢先、とある税理士が「融資を受けて独立しては」と助言してくれた。彼の後押しを受け銀行と公庫から計3,000万円の融資獲得に成功、新たな物件探しが始まった。麻布十番に手ごろな物件を見つけたものの、諸事情により断念。次に目を付けたのは銀座のビルだった。
「麻布十番の物件を見て『あ、ここだ!』って思ったのにダメだったときは、ショックでしたね。ここ(銀座のビル)は日祝は完全閉鎖だし、平日も夜中3時には絶対出ないといけないんです。でもノーチョイスといいますか。僕、わりと行き当たりばったりなんですよ」.
店づくりにこだわったため、融資はあっという間に使い果たしてしまう。こうして2017年11月、「鮨 石橋正和」は運転資金ほぼゼロの状態でオープンした。
・・・続き
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