2025年8月27日水曜日

株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏登場。

本文より~

エコール辻東京に学ぶまで。食の目覚めのお話。

今回、ご登場いただいたパンゲアの進藤さんは1986年11月生まれ。小・中・高と、千葉県内で過ごし、高校にはバスケットボールの推薦で進学している。
「小学校からバスケットボールをはじめました。背が高かったぶん、評価をいただいたんだと思います」。
バスケットボールに熱中したが、それ以上に関心があったのが、飲食。なかでもフレンチが大好きだったという。
「中学1年のときに両親が離婚。私は母の下で暮らします。父は工場勤務のまじめなタイプだったんですが、母は大病院で栄養管理士をしていて、エネルギッシュでバリバリのキャリアウーマンでした」。
進藤さんに影響を受けた人を聞くと、まっさきにお母様の名を挙げる。
「私が高校に進学したあと、母は新興住宅街にでマンションを購入します」。
父にも頼らないキャリアウーマンの母。
「管理栄養士ですから料理もうまくって」と進藤さん。カレーには決まってお頭付きの海老が添えられていたそうだ。「外食も多く、レストランからラーメンまで、ジャンル関係なく、食べさせてもらいました」。
なかでも行くのが楽しみだったのが、フレンチレストラン。「当時で1人8000円くらいでしたから、かなりハイエンドなフレンチでした」。
母とともに、食すフレンチ。その甘い一時と、料理の奥深さ。進藤さんが飲食の世界へ進みたいと思ったのは、自然な流れだったのかもしれない。
「母が『外食に行くよ』っていうとパブロフの犬じゃないですが、その一言で心が踊ります。レストランに行く前、本屋さんに寄るんです。母も私も漫画が好きで、ある日一冊の漫画に出会います」。
「『大使閣下の料理人』っていう、在ベトナム日本大使公邸料理人が、主人公の漫画です。食卓外交や、ベトナムの市場の人たちとの交流が描かれていました」。
バスケットボールと、料理。もちろん、プロになるなら、料理人。
「青学クラスは、合格判定だったんですが、進むならシェフだとエコール辻東京(現、辻調理師専門学校 東京)に進みます」。
オープンキャンパスで、「エコール辻東京」を訪れた際、有名なシェフと出会い、「絶対、来ます」と宣言したそうだ。
ここまでが、進藤さんの食の目覚めのお話。

プロの料理人へ。片道、2時間半の勉強時間。

「千葉のうちからエコール辻東京まで、片道2時間半かかりました。9時の始業に遅刻すると、講義を受けさせてもらえません」。通勤のサラリーマンとまじって、満員電車で通学。
「エコール辻東京は、実践的な学校だったんです。教科書も多く、リュックには大量の本と、包丁が入っていました」。
すし詰めのなか、教科書を貪るように読んだ。
「1年生の学校ですが、入学料、授業料は高くって、年間200万円です。全額、母に頼っていたので、絶対、シェフにならないといけなかったんです」。
満員電車に揺られながら、教科書を貪るように読む、進藤さんの姿が浮かび上がる。学校が終わると、溜池山王のハイエンドなレストランでバイトが始まる。
バイトも真剣。
そのレストランは、カリフォルニア・フレンチだったという。カリフォルニア・フレンチは、カリフォルニアの食文化とフランス料理の技術が融合した独創的な料理スタイルのことだ。進藤さんは、その一皿一皿に、魅了されていく。
料理に対する感度が高い。料理人の才能を一つ挙げるなら、これ。一般人とは、みる世界がちがうのだろう。幾層にも重なったレシピの一つひとつを解像度高く、みることができる、それが料理人である。
エコール辻東京を卒業した19歳の進藤さんは、このレストランに就職。2年、勤務して、「料理とパティシエを経験した」ということだ。進藤さんは脇目もふらず、プロの料理人への道を突き進んでいく。
ところが、このあと転機が訪れる。

世界一のソムリエのアドバイス。

「そのレストランを退職して、田崎真也さんプロデュースの『レストランS』で勤務させていただきます。田崎真也さんっていうのは、あの世界一のソムリエです」。
「レストランS」で勤務をはじめた進藤さんは、1年で「エキスパート資格」を取得している。「エキスパート資格」を調べてみると、一般社団法人日本ソムリエ協会(J.S.A.)が認定する、ワインをはじめとする酒類や食全般に関する専門知識とテイスティング能力を認定する民間資格とあった。
ソムリエと匹敵する、資格だそう。
しかし、料理人ではなく、ソムリエ?と、疑問が浮かび上がる。
「一つの転機は、やはり田崎さんとの出会いですね。じつは、田崎さんから「きみはサービスのほうがいいよ』と助言をいただいたんです」と進藤さん。
進藤さんは、その一言に素直に従った。
田崎さんは、進藤さんになにをみたのだろう。一方、進藤さんは、その一言をどう受け止めたんだろう。
結果として、その一言は、進藤さんの人生のターニングポイントとなる。進藤さんは、そののち、「レストランS」に転職し、4年間勤務することになる。
世界一のソムリエのアドバイスで、視界が広がった。
「4年、勤めたあと、ロンドンに渡ります。パリとロンドンどちらにするか迷ったんですが、田崎さんから『ロンドンがいい』とアドバイスされ、じつは、私も、学校の卒業旅行でパリへ、母の会合かなにかでいっしょにロンドンへも行ったことがあって、比較することができたんで行くならロンドンかな、と」。
ワーキングホリデーで2年、ロンドンのレストランで勤務する。勤務したのは「ヨーロッパで3本の指に入ると言われているワインリストを持つ2つ星のレストランだった」という。
ほかにも、IWC(International Wine Challenge)の酒部門で酒ジャッジメントを経験したほか、在英日本大使館でのサービスを行うなど、「大使閣下の料理人」と同様に、世界で研鑽した。

ワインを研鑽する日々。

「帰国後、『ベージュアランデュカス東京』でソムリエとして勤務します。ただ、その時、突発性難聴を患い、飲食現場を離れざるを得なくなってしまいます。それでは、私が志していた世界へたどりつくことができません。だから、それを奇貨として、ワインの勉強を徹底的にスタートします。最初にワインを輸入するインポーターに勤め、そのつぎは、日々、20種類くらいのワインをテイスティングするリカーショップではたらきます。合計3年、ワインの世界にどっぷり浸かることができました」。
料理人の志を封印して、サービススタッフとして高みをめざしてきた。そんな進藤さんには、もう一つめざすものがあった。むろん、独立である。
すでに、30歳。チャレンジするには、十分なキャリアも積んでいる。
「じつは、その30歳の時、学生時代の先輩と独立の計画を立てていたんです。でも、オープン前に頓挫してしまいました」。
<どういうことだろう?>
「契約した物件が、重飲食不可だったんです。それで、投資しようとしていたお金をすべてなくしてしまいます。オープンもできないから、仕事もない。『明日からどう生きる?』という世界です」。
仕事もない。心も折れた。
「その時、ある先輩が、サブライムに招いてくださったんです」。

サブライム、花光雅丸さん。

「サブライム?と 思う人もいるかもしれないですが、その当時、サブライムはハイエンドなレストランを経営していたんです」。
サブライムといえば、代表の花光雅丸さんが有名だ。2025年3月、久々に「飲食の戦士たち」にも登場いただいている。
コロナ禍で、サブライムを手放し、現在は「beagle」を経営。その経緯は、コチラで。
さて、新たな道を進むべく、サブライムに入社した進藤さんだったが、マネージャーとして着任したフレンチブランドの業績が今一つだったそう。
「それで、中華業態にブランドチェンジして、少量で多品目を楽しめる『series』をオープンします」。
「series」はオープンしてわずか8ヶ月でミシュラン一つ星を獲得。現在、進藤さんの手も、花光さんの手も離れたが、「ミシュランガイド東京2025」で5年連続で一つ星を獲得している。
進藤さんは、このあと、コロナ禍の下で「パンゲア」を設立。念願の代表として新たなスタートを切る。

・・・続き

株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏

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株式会社ネバーランド 代表取締役 加世堂洋平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネバーランド 代表取締役 加世堂洋平氏登場。

本文より~

長島町――原点となる故郷。

鹿児島県最北端、人口約1万人の長島町。日本三大急潮の一つ「黒之瀬戸」を有し、ブリ養殖日本一の地として知られるこの島で、加世堂氏は漁師の家系に生まれた。漁業のかたわら、鹿児島大学水産学部の養殖実験場で働く研究者という二足の草鞋を履く父と、実家がブリの養殖場を営む母のもと、豊かな自然と新鮮な海産物に囲まれつつ三人きょうだいの末っ子として育った。
「両親は私に、町の診療所を支える医者になってほしいと願っていました。実際、私も医師を目指して勉強していました」。
1クラスしかなかったという長島町の小学校を卒業後、単身で鹿児島県薩摩川内市の私立中学に進学。同校の高等部に進み、学業でもトップクラスの成績を収めた。しかし、高校2年生になり人生の潮目が変わる。
「彼女ができたんです。で、気が付いたら成績も落ちていて、医師の道は断念しました」。
目指していた医大を諦め、東京の青山学院大学理工学部に進学した。

飲食業界との運命的な出会い。

相模原のキャンパスに通うため、町田で下宿生活を始めた加世堂氏。ある日、友人に「すごくいい店があるから」と誘われ、何気なくその居酒屋の暖簾をくぐった。
「『こんな店があるんだ!』って、衝撃を受けました」。
これが、“居酒屋の神様”宇野隆史氏率いる楽コーポレーションとの出会いだった。
同社が経営する「まんま屋 汁べゑ」は、オープンキッチンが開放的な活気あふれる店。料理の美味しさはもとより、キビキビ働く人たちの笑顔が何よりも印象的だった。この体験が、当時19歳の加世堂氏を飲食の道に進ませるきっかけとなった。
在学中、3年3か月にわたり楽グループのアルバイトを勤めた加世堂氏だが、卒業後は飲食業界から一旦距離を置き、先物取引を扱う企業に就職する。
「飲食の経験はある程度あったんで、次は自分の営業力を試したいと思いました。で、『営業が一番大変な業種は?」って考えて、先物取引の会社を選んだんです」。
顧客リストをもとに朝から晩まで電話をかけ続け、金やガソリンなどの先物取引を勧めた。人一倍努力と工夫を重ねた結果、その後入社半年でトップセールスの座に輝く。当時の月収はおよそ100万、賞与も十分な額だったという。しかし、
「『人のためにやろう!』って営業しているはずなのに、だんだんウソだってわかってくる。“あぁ、これは人をだます仕事だな”ってね」。
人を幸せにできる飲食業の素晴らしさを再認識した加世堂氏は、その会社をわずか一年で辞めた。

経営ノウハウを学び、30歳で独立――鹿児島での挑戦。

「小規模店の方が経営を学べる」と考えた加世堂氏は、楽コーポレーションの卒業生が経営する居酒屋に就職。金の流れや経営の仕組みを現場で体得したという。
「先物と違って、飲食は結果がすぐ出るから面白かったですね。来店してから退店まで、お客様にどれぐらい喜んでもらえたかがすぐわかる。それが嬉しかったです」。
30歳を迎えるタイミングで鹿児島に戻った加世堂氏は、2010年12月、地下1階・15坪・家賃10万円の物件で「特攻チキン野郎本店」を開業。新鮮な海の幸を見極める目利きの技と、地元鹿児島の味を活かしたメニューが評判を呼び、繁華街から離れた場所にもかかわらず順調に客足を伸ばしていった。
― 10年以上も東京暮らしでしたから、鹿児島といえど土地勘はあまりなかったでしょう?繁華街でもない地下1階の物件って、勇気ありますね。
「家賃が安かったというのもありますが、僕は『人の流れを作っていくのが面白い』っていう、“楽”の考え方が大好きなんです。それに、町田時代のお客さんや仲間たちが、僕と一緒に働きたいって、鹿児島に集まってくれたんですよ。みんな、鹿児島とは縁もゆかりもないのに、嬉しかったですね」。
楽コーポレーションで学んだホットな人間関係づくりと、加世堂氏の世話好きな一面がうかがえるエピソードだ。
2011年11月、株式会社ネバーランドを設立。翌2012年、鹿児島中央駅近くのホテル跡地に、9年間限定の屋台村「かごっまふるさと屋台村」が誕生した。加世堂氏はこの場所に「TAGIRUBA」をオープン、わずか3.5坪のスペースで月600万円を売上げ、9年間トップの座を守り続けた。その後も70席の大規模店「ハイパーチキン野郎」を始めとする複数の店舗を展開し、鹿児島の地盤を固めていく。

東京進出――新たなステージと苦闘。

鹿児島での経営が軌道に乗り、移住組のスタッフを再び故郷へと戻すべく東京進出を決意し東京青山に出店、首都圏の高額な家賃や人件費を前に苦戦を強いられた。東京2店舗目の池尻大橋店では健闘したものの、青山店の利益は低く、そのうち鹿児島の経営にも影響が出始めた。「この頃が一番辛い時期だった」と、加世堂氏は往時を振り返る。
2018年、東京丸ビルに「どん薩摩」をオープン。開店当初は苦戦したが半年後から売上が伸び、2019年に“居酒屋甲子園”で優勝。2020年には上場をうかがう規模にまで成長していた。
そんな矢先にあのパンデミックが襲来。新規出店した店舗の撤退を余儀なくされたり、「少しでも日銭を稼ぎたい」一心で駅ビル内に開いたケーキ店が低迷するなど、苦難の日々が続いた。
「ケーキ店は原価率が高く、飲食業の本業とは異なる難しさがありました。撤退するにも違約金が大きくて。幸いいろんな条件が重なって、違約金少額で閉店できたのは助かりましたね」。
ケーキ店の撤退を機に、加世堂氏は事業の5ヶ年計画を策定。コロナでくすぶっていた株式会社ネバーランドが、未来に向け再び動き出した。


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2025年8月23日土曜日

今年も文京学院大学よりインターンシップ受け入れ。

今年も文京学院大学からインターン3人受け入れしました。

私どもは「飲食の戦士たち」の社長取材を取るところから営業はスタートします。

営業の基礎のリストアップからアポ取りと学生の皆は大変苦悩してるのを感じましたが、その後取れた時の感動を実感してもらいました。

社長取材から営業職のおもしろさをわかってもらえれば最高です。

指導を通じてうちの営業マンが一番するのが嬉しいです。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年8月19日火曜日

30数年ぶりに名鉄瀬戸線に乗ったかも。

今日、ちょうど名鉄瀬戸線が最寄駅のサガミホールディングスの大西社長の取材のため名古屋に日帰り出張!

同行した役員は明日も名古屋で仕事があるので、途中私だけ学生時代に4年間下宿してた最寄駅の守山自衛隊前駅で途中下車し、駅周辺をひとりで歩きました。

もう昔住んでた下宿先の建物は前から無く、駅周辺も下宿先周辺もなんの面影も無く、お店も無く、40年の時の流れを感じました。

電車も昔は赤色の車両も変わり、駅の駅名標も変わってた。

寂しすぎました。






2025年8月14日木曜日

「飲食の戦士たち」が1並びの1,111回となりました。

 「飲食の戦士たち」がなんと掲載が1,111回となりました。

この「飲食の戦士たち」のブランディングにもっと磨きをかけるため、再現ショートドラマに加え、書籍も本格的に動かしていきます。

キイストンの出版事業は、書籍販売が目的ではありません。本の力で社長のビジョンや想いを可視化し、“カタチ” に残すことでより採用の強い武器として活用してもらいます。

只今、出版事業のランディングページ作成中です。

また、再現ショートドラマも制作プロデューサーで監督だった市川さんのあとを受けseason2も進めていきます。

キイストンの新たなオリジナルの商品作りに力入れます。

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1月10日新たに開局したBS10、プロ野球中継の食事提供のサポートしています。

 2025年1月10日に開局したBS10のプロ野球中継の合間(5回裏、試合終了後に各2分)に解説者の方に食事提供していただく飲食企業様をキイストンで選定し依頼し、番組のサポートをさせてもらっています。

このBS10(https://www.bs10.jp/20241029_bs10/)は、株式会社ジャパネットホールディングス(本社:長崎県佐世保市/代表取締役社長 兼CEO:髙⽥旭⼈) のグループ会社でBS放送事業を担う株式会社ジャパネットブロードキャスティング(本社:東京都中央区/社長執行役員:佐藤崇充)が運営しています。

マリノ様食事提供(解説者:工藤公康氏)
鶏ヤロー様食事提供(解説者:今江敏晃氏)
KIWAMI様食事提供(解説者:平石洋介氏と今井敏晃氏)
プログレ様食事提供(解説者:糸井嘉男氏)
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2025年8月12日火曜日

株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

本文より~

大学進学までの、勘違いと気付きと。

「大きな勘違いだった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社WASの代表取締役、宇野 優司さん。
「小学校って、学年順位も公表されないでしょ。私の通信簿はオールAだったし、スポーツでも、それ以外でも目立っていたから天才くらいに思っていて、将来は東大だと(笑)」。
宇野さんは1992年1月に静岡県の沼津市に生まれている。なんでも「沼津生まれ、裾野育ち」なんだそう。お父様は大手企業勤務のサラリーマン。ゴルフにもいそがしかったが、食べるのがお好きだったんだろう。土・日には家族を連れて外食を楽しんだ。
宇野さんが飲食に進む、背景の一つだという。
中学に上がった宇野さんは冒頭の話通り、大きな勘違いに気づくことになる。
「中学になると学年ごとに順位がでるんです。私は内心、将来、東大生だと思っていましたから、当然、1位だろうと。でも、結果は12位だったんです」。
愕然とした。
「でも、この時にはまだ、私にはサッカーがあったんです」。
12位でも凡人からすれば悪くはないが、宇野さんはあっさり東大の道は忘れ、今度は小学生時代トッププレイヤーだったサッカーにのめり込む。
「そんなにつよい学校でもなかったんです。だから、私がトップスターで、みんなをひっぱっていました」。
これも、勘違い。ただしくいうと、井の中の蛙。
「高校に進むと、サッカーもけっしてトップじゃないことに気づきます」。
<上には、上がいる?>
「そうですね。スポーツもそうですが、勉強が得意なやつもたくさんいましたし、サッカーも巧いやつがたくさんいて、レギュラーでもなかったです」。
ただ、サッカーで汗を流したことは無駄じゃなかった。
「サッカーを通し、食がスポーツのパフォーマンスに影響することを知って、それで『食』の世界に進むことに決めたんです」。
大学では「管理栄養士」の資格が取得可能な学部を専攻。勉強のためだといって、ドイツ・フランスにも渡っている。もちろん、無事、「栄養士」の資格を取得。これが、今の強みの一つとなっている。

Globridge入社と代表の大塚誠さんとの出会い。

宇野さんは大学時代を、「濃厚で、貴重な4年間だった」と表現する。
「じつは、サッカーを引退してからの半年間、初めて猛勉強したんです」。
なんでも1日10時間が日課だったそう。
「それでも、国公立は落ちちゃったんですが、勉強がふつうになり、勉強する体力がついたと思うんです。だから、大学に進んでも勉強が苦にならず、わりと勉強熱心な学生だったと思います」。
アルバイトでも、学んだ。
「バイト先は4年間おなじで、フレンチ出身のオーナーから、食のイロハ、料理の哲学を教えていただきました」。
  たぶん、新鮮だったのだろう。栄養学と料理を真摯に学んだ。
当時の話を聞くと、少しずつ、今の宇野さんがリアルなカタチになっていく。
「大学では、8割が女子ということもあって、例えばバーベキューをしようとなったら私に声がかかるんです」。
みんなのリーダー。今度は、勘違いではなかった。ちなみに、現在、WASの副社長は大学時代の友人、スタッフには、当時の後輩が5人いる。
「大学時代に飲食を経営するノウハウまですべて頭に刻みこんだと思っていました。これも、勘違いといえば勘違いだったんですが」。
宇野さんは、起業をめざす学生たちに人気の、先進的な飲食企業「株式会社Globridge」に就職する。(Globridgeについては、コチラを御覧ください。)
当時、採用に注力していたGlobridgeには、新卒50人が入社する。起業家をめざす、野心のある学生たちだ。
そのなかでも、当然、トップランナーをめざして走り出した宇野さんだったが、ふたたび挫折を経験する。
「成績は配属に左右されますし、いくらでも言い訳はできるんです。実際、分析もできています。ただ、楽勝だと思っていたのにトップじゃないことに愕然としました」。
宇野さんはそういうが、トップか、トップではないことにどれだけのちがいがあるのだろう。宇野さんは飲食に進んだ最終的な理由を、「私の生活の横にはつねに食があったから」と言っている。
栄養士の資格を取り、食品加工系の研究室では、素材から缶詰をつくる研究もしてきた。深い知識をもとめ、大金をはたいてドイツ・フランスに渡り、学んでいる。
もとフレンチのオーナーから教わったことも、トップになることではなかったはずだ。それでも「トップを取れなかった」と悔しがる宇野さんは、狙わなくても、トップを穫れるくらいに思い込んでいたのかもしれない。
それとも、宇野さんがいうトップとは、比較対象として位置づけられるトップではなく、登るべき山の頂きのようなものなのだろうか。
ともあれ、悔しがる宇野さんを評価した人がいた。 Globridgeの代表である大塚誠さんだ。

Globrideの5年間と、世界のDELLと。

<Globrideには、合計何年いらしたんですか?>
「5年です。最初の3年間は正直、消化不良でしたが、4年目からオーストラリアの新事業にタッチさせていただき、状況がいっぺん」。
異国での事業の立ち上げ。
宇野さんともいっしょにオーストラリアに渡り、現在、オーストラリアでも事業を行っている、現「株式会社REBEL」の代表取締役、堀場健太さんにも、この飲食の戦士たちにご登場いただいている。
「5年目、堀場さんは、そのまま向こうに残りますが、私は帰国し、今度は、大塚さんの下で新事業にかかわります」。
すべてが勉強だった。
「私の人生のなかで、大塚さんとの出会いはやはり大きい。 もちろん、1年ですが異国での経験もいい勉強になりました」。
「オーストラリア人は、はたらかない!」と、宇野さん。「でもね、ビジネスはちゃんとまわっているんです」と笑う。
国民性の違いだけで片付けてはいけないが、スタッフも、お客さんもただひたすら楽天的で、明るかった。
「日本じゃ、とくに飲食は、24時間365日はたらくという印象があるでしょ。それが、全然違った。でも、そのなかでも、私たちは日本の飲食人の代表選手のように、24時間365日はたらいていました。そのギャップのおかげで、私のなかに芯のようなものができた気がします」。
5年のうち、最初の3年は、凹みつづけた3年。その後の2年は、「思ってもいなかった世界へ、代表の大塚さんが連れて行ってくれた」という。
「辞めるときも大塚さんと食事をして、叱られるんじゃなく、逆に激励していただいて」。
起業家を育てるという大塚さんにとっても、望むところだろう。ただし、宇野さんは起業に走らず、転職する。その先がユニークだ。
世界のDELLである。

異文化での挫折と、起業。

「当時はまだ、飲食で起業しようとは思っていなかったんです。ただ、BtoBの経験がなかったもんですから、そのピースを埋めようと。それに、今からは何をするにしてもITを知らないといけないと思って」。
「食がつねに私の隣にあったので飲食で、今仕事をしていると言いましたが、ビジョンは、日本の文化を世界へ発信すること。これが、テーマです」。
<だから、世界のDELLだったんですね?>
「そうです。内定いただいたなかで、いちばんスケールも大きかったこともあって」。
<このあと起業ですね? これは既定路線ですか?>
「もともとは30歳までDELLで勉強するつもりだったんですが」と宇野さんは苦笑する。
「私にとっては、DELLもまた異文化だったんです。まわりとの歯車が噛み合うことがなく。不本意でしたが28歳で退職します。そのあと、じつはアメリカの企業からオファーを受け、海を渡る予定だったんですが、コロナ禍となり、アメリカ行きが実質上、不可能になりました。これが、今、飲食の世界にいる直接的な理由です」。
<どういうことだろう?>
「アメリカ行きを断念しなければいけなくなって、どうしようかと迷っているときに、オーストラリア時代の上司、現在はREBEL社長の堀場さんにオファーをいただいたんです」。
<それが、飲食だったんですか?>
「そうです。堀場さんとREBELの日本国内事業の立ち上げを、3か月(2020年の4~6月)取り組みました。コロナでの緊急事態宣言下のバーチャルレストラン事業でした。そして、私自身、起業の思いがあったので、同じくコロナ禍の下でしたが、2020年の10月14日に株式会社WASを設立します」。
ホームページで宇野さんはつぎのように、創業の背景を語っている。
<株式会社WASは、“温故知新”の理念のもと「日本の伝統を世界に発信し、未来へ感応させる。」という想いで創業しました。>
その日本の伝統とは、「UMAMI」である。

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株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏登場。

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本文より~

進め、美容師へ。

高校に数ヵ月通っただけで辞めている。
「当時は、さきのことは何一つイメージしていなかった」と、今回、ご登場いただいた株式会社ココロオドルの社長、杉本さん。
杉本さんは1983年8月、神奈川県の平塚で生まれている。
「中学からバスケットボールをはじめます。バスケというより漫画の世界にあこがれて。ワルい世界に憧れて、だんだんと目つきの悪い連中とつるむようになって」。
当時の平塚は「治安が悪かった」と杉本さん。ただ、高校を辞め、冷めた頭で未来をみようとすると、さすがに不安になった。
「悪くすればどこまで落ちていく気がして。さすがに、抵抗があった」と杉本さん。
「だから、つるんでいた仲間と距離を置こうと、美容室に就職したんです」。これが、杉本さん物語りの始まり。
「ぼくらの世代って、テレビドラマのビューティフルライフに影響されている人が多いんです。ぼくもその一人で(笑)。ファッションや音楽が好きだったところに、あのドラマでしょ。はたらくなら、美容師だって」。
はたらきながら、美容師の専門学校にも進んだ。
「何年か経って、当時勤めていた美容室の先輩に、代官山で美容室をオープンするからいっしょにやらないかって誘われたんです」。
<独立に誘われたのは、センスが認められたから?>と、質問すると、杉本さんは苦笑いする。
「イメージは頭のなかにあるんですが(笑)」。
まだ、ヘアスタイリストとは名乗れない。それでも、独立の舞台は代官山。心が踊った。
「でもね。競争がはげしかったからでしょうか。現実は甘くなかったです」。客が来ない。ハサミをにぎっても、髪を切ることができなかった。給料もでなかったそうだ。
当時の心境は、どうだったんだろう? 
「そりゃ、困ったなとは思っていましたが、結婚していたわけじゃないし、それに資金をだしているわけでもなかったので。ただ、給料がないと生活できないでしょ。だから、ダブルワークしていいですか? って先輩に言ってみたんです」。
<答えは、もちろん、YESですよね?>
「そりゃ、だめと言えません(笑)。ただ、ぼくのほうも、真剣にやろうってわけじゃなく、給料がでるようになるまでと思っていたんで、軽い気分でバイトをはじめます」。
美容室が終わってからのダブルワーク。はじめたのは、飲食店でのアルバイトだった。
「で、はじめてみてわかったんですが、時給換算すると美容師と比べて、断然、飲食がいいです」と杉本さんは笑う。
しかも、いまは、無給。だんだんと美容師の世界が色褪せてみえた。
「お金がすべてじゃないですが、片や無給でしょ。こっちは、深夜バイトだったこともあって、断然いい」。
<それで、飲食ですか?>
「6年も美容師でしたから、そう単純じゃないですね。いま思うと、つづけるのもありだったかもしれません、ただ、当時のぼくは、さっき言いかけましたが、頭にイメージがあっても不器用だからうまく再現できなかったんです。だから、頭のどこかで、辞めどきかなって思っていたんです」。

表参道、ファッショナブルなメガネショップ。

「先輩に話をしてダブルワークを解消させてもらって、飲食のバイト1本に絞ります」。
若かったから体力は有り余っている。「深夜までバイトして、40万円」と杉本さん。
<美容師とは大違い?>
「ヘタをすると、ダブルスコアですね(笑)、仕事はともかく、お金を儲けるっていうのは、楽しかったですね」。
ただし、その日暮らし。カリスマ美容師という、一つだけあった目標はなくなった。
<お金はどうしました?>と、聞くと、「服が好きって言っていたと思うんですが、全力で買いまくりました」。
「服と酒」と杉本さん。トレンドには、敏感。アンテナが高い。インスタグラムで、好きなブランドを追いかけた。
のちに、この時の体験が、ある結果を生むのだが、それは、つぎの話。
「フリーター生活はだいたい2年です。メガネショップに勤めて、終止符を打ちます」。
<メガネショップ?>
「表参道にある、芸能人も贔屓にしているスタイリッシュなメガネショップです。アパレルもいいかなと思ったんですが、メガネってファッションのキーアイテムですから。それに、大好きなショップだったんです」。
お気に入りの服に、お気に入りのメガネ。杉本さんは、スタイリッシュなスタイルで表参道を歩いた。
ところが、ある日、上司ともめて、退職。高校と、おなじようなスピードだった。
「辞めたのはいいんですが、メガネを売掛で買っていたもんですから、そのぶん、給料からひかれます」。
残ったのはまともに生活できる金額じゃなかったそう。困り果てた杉本さんは実家に戻り、かつてアルバイトした飲食店に顔をだした。
美容師→飲食→メガネショップ→飲食。杉本さんの社会人歴を単純化するとこうなる。ところで、その飲食店、じつはレインズインターナショナルの直営店だった。
26歳のときである。

やるか、破産か。

「特別、秀でたものは昔からなに一つありません。美容師だってテクニックがあったわけじゃないし、飲食でも、なにかが得意だったわけじゃない。ただ、変化に対応するのはうまかったんでしょうね。美容師のときも、飲食のときも、メガネショップのときだって、業種がちがっても売上だけは悪くなかったんです」。
むろん、レインズインターナショナルに入社してからも高い業績を残す。
「渋谷店で店長をしているとき、こういうのも縁なんでしょうね。コロワイドがレインズをM&Aするという話が流れだしたんです」。
<レインズインターナショナルが、コロワイドに>というのは飲食の世界で話題になった。
「渋谷の店長をしていましたが、レインズにも、コロワイドにも興味があったわけではありません。ただ、コロワイド化されていくと、ぼくとはちがう方向へ会社が進み始めるんです」。
「これもタイミング」と、杉本さん。そのとき、急成長中の飲食ベンチャーから声がかかった。
<転職回数でいうと、7回目?>
「それくらいになるかもしれませんね。ただ、そのベンチャーで仕事をしてしばらく経ったとき、美容師のときと同様、独立する先輩に誘われて、いっしょに飲食店をオープンします」。
先輩につぐ、ナンバー2だった。
<美容師のときと今回で、独立は2度目ですね?>
「そうですね。ただ、様子はちがいます。今回も、資金はだしていなかったんですが、名義を貸していたんです」。
<名義貸し?>
「独立っていうのは、むずかしいですね。今回も、業績が悪化。今回は名義を貸していたので1000万円以上の借金ができてしまうんです」。
「ロケーションに問題があった」と杉本さん。複数店舗をオープンしていただけに、赤字額も少なくなかった。
スタッフの給料が遅延する。
「家賃も未払でした。さすがにきついな、と。もう、自己破産するか、それとも、ぼくが経営者となって独立するか、です。経験上、独立してうまくいけば借金返済は可能です」。
ただ、開業資金はない。
「それで、ひとまず、ココロオドルの前身である『杉本フーズ』を設立して、ぼく名義だった西新宿の店舗を先輩から譲ってもらいます。というか、そもそもぼくの名義ですからね」。
「杉本フーズの事業目的は借金の返済」と杉本さん。
甘い誘いに乗ったことを悔やむような人ではないが、今回は、悩む時間もなかった。

・・・続き

株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2025年8月2日土曜日

小学校6年、下地区の公民館にて。 

 懐かしい小学校6年、下地区の1〜5年生のたちとの写真。

下地区は私1人だけだったのでリーダーでした。

私が知ってるだけでも4人が既に病気でか亡くなってます。

人生ってあっという間に終えるので悔いのないようにしたい。

キイストンのCMで、この写真使いました!

2025年8月1日金曜日

哀しいな、もう話せない・会えない。

2023.9.23  送ったショートメール、これがTさんとの最後となりました。

「声が聞けて良かったです!

俺にとっては学生時代の1番信頼出来る大切な人なんで、少しでも元気になってもらわないと、いじられませんからね(笑)

細見」

それから気にはなってましたが、何かあったら連絡あるだろうと思ってたので、このまま月日が経ち、何か虫の知らせか分かりませんが、気になってケータイに電話してみたら「現在使われておりません」と…。

嫌な予感したので、Tさんを知ってるところに連絡したら、メールの返信あり、“亡くなってた“と。

今年亡くなったことは分かりましたが、かなりショック受けました。


Tさんと初めて会ったのが、45年ほど前の大学1年生の夏の全体育会の1〜2年合同合宿の時でした。

道中のバスの中で後ろの席に陣取り、騒いでて超ウザかったのがTさん、合宿先でもウザかったのは記憶に残ってます。

それが、不思議とまたまた1年弱に体育会の依頼で選挙応援することになり、同じエリアに住んでたTさんと一緒に市会議員の選挙応援で駆り出された。

期間は3〜4週間だったと思う。

これがあったから、Tさんとすごく熱くて濃い間柄になりました!

「えっ、なんでまた超嫌なTさんと一緒?…」という気持ちでしたが、俺のことがいじりやすかったのか、日を重ねるごとに会話が弾んでいきました。

当時、19〜20歳の学生の私たちは、選挙ポスターを貼ってもらうため個人宅に飛び込み、お願いして回ったが、Tさん1位、私は2位と勝てませんでした。

話はおもしろくて、うまいし頭はキレるし、また候補者演説の司会、応援カーでのアナウンス嬢ならぬアナウンス男子!

当時Tさん、20歳じゃなかったかな…。

俗に言う天才肌の人でした。

振り返ると、この経験が後のリクルートで実績作れたキッカケかもしれません。

Tさんとは、その後何故か縁は切れず、社会人になっても繋がってました。

いつも頑張ってる私をまるで弟子を見るかのように一目おいてくれてました。

そんなTさんが亡くなったので、また1人理解者がいなくなり、寂しい限りです。

辻(谷口)浩一さん、お墓参りに行きたいです。