2013年8月6日火曜日

あの赤レンガのたちばな亭の株式会社たちばな 代表取締役 小清水 孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあの赤レンガのたちばな亭の株式会社たちばな 代表取締役 小清水 孝氏登場。
本文より~

横浜「赤レンガ倉庫」の話。

横浜赤レンガ倉庫は、明治の終わりから大正にかけ造られたものだそうだ。1992年、「横浜みなとみらい21」の整備に伴ってウォーターフロントの再開発計画が進み、2002年、赤レンガ倉庫は、さまざまな店舗からなる商業施設に生まれかわった。 「小さな頃から、赤レンガの倉庫が好きで、あのあたりで良く遊んだんですよ」と、店の向こう側を指差すのは、今回ご登場いただく「株式会社たちばな」の代表取締役、小清水孝である。奇しくも、2002年。赤レンガ倉庫が再生オープンするときに、まっさきに選ばれたのが小清水の店だった。

背番号「1」を追いかけた少年時代の話。

小清水が生まれたのは1966年。母は再婚で、姉と兄をともなって父に嫁いだ。そういう経緯もあって、姉とは12歳、兄とは10歳離れている。
母は横浜の「旅館」の女将をしていた。父が、その旅館に泊まったとき、偶然、「女風呂」を覗く悪漢をみつけ、捕えた。それが2人の縁のはじまりだという。結婚してまもなく、父は脱サラし、4坪の「とんかつ屋」を開業する。
母が店を切り盛りし、父は、買い出しやソースづくりに励んだ。小清水が小学校を卒業する頃には「ラスカ」に。高校に進学する頃には「ルミネ」に。20歳の頃には、「新横浜の駅ビル」に店をだし、ブレイクする。
一方、小清水の方は、年の離れた姉貴や兄貴から可愛がられ、育つ。王貞治が好きで、1本足に挑戦するためリトルリーグに入る。高校で「王さんになるのは無理だと気づき(笑)」、野球からアメリカンフットボールに転向。弱小校だったが小清水の代には関東大会にも出場している。
「当時はアメフト一本でした。大学も、アメフト推薦で。もちろん4年間つづけました。でも、アメフトってけっこうお金がかかるんです (笑)」。
かくして、小清水のバイト生活がスタートする。

マハラジャに魅せられた。Staff時代の話。

「学校でしょ。それが終わってアメフトの練習。そこからバイトで、深夜までです。睡眠ですか?いま考えればよくもったと思いますが、電車のなかで寝るしかなかったです」。バイト先は横浜のマハラジャ。「マハラジャ」が一世風靡していたこ頃だ。すぐに仕事にハマった。名前は出せないが、いまをときめくダンス&ボーカルユニットのリーダーも当時、いっしょにはたらき、いっしょに怒られていたなかまの1人である。
「最初は、アメフトが終わってからなんで、深夜までやっているという理由だけで選んだんですが、そのうち、マハラジャの経営や、集客、リピートにつなげる方法などに惹かれていくんです」。
すっかり魅了された小清水は、20歳から3年間、マハラジャでバイトをすることになる。・・・続き
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