2013年8月6日火曜日

株式会社京都吉兆 代表取締役社長 徳岡邦夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社京都吉兆 代表取締役社長 徳岡邦夫氏登場。
本文より~

京都吉兆、3代目、誕生。

徳岡が生まれたのは、終戦から15年が経った1960年のことである。生まれは大阪市中央区平野町。この時の住まいは、現在「美術館」に建替えられているそうだ。
徳岡を語るには「吉兆」という名店の歴史もまた語らなければならない。
徳岡は「吉兆」の創業者、湯木貞一氏の孫にあたる。湯木氏は1930年、29歳の時に「吉兆」を創業している。茶道に精通し、茶道具を愛するなど日本文化に対する高い見識を持った料理人だった。著名な財界人や文化人とも交流を図っている。むろん、創業した店には著名人達が足繁く通ったはずである。
「吉兆」の年表に沿って、書き写してみよう。
1930年、大阪新町に「御鯛茶處 吉兆」を出店。ここから「吉兆」のすべてが始まる。9年後の1939年に戦時下にあったにも関わらず法人化。戦時下にあっても、日本の食文化を守り抜くという意志表示だったのかもしれない。
1948年には、京都嵐山にある美術商だった児島氏の別邸を譲り受け「吉兆嵯峨支店」を開店。1949年には高麗橋にあった同氏の本邸を譲り受け、本格的に料理店を開くとある。ちなみに1961年には早くも銀座に「吉兆 東京店」を出店している。徳岡が生まれたのは、その前年である。

ミュージシャンになりたくて。

徳岡は2歳の時に父親を亡くしている。後に母が再婚し、現在の徳岡姓を名乗るようになる。
この父も、むろん料理人。日本を代表する料理人、湯木氏の孫として生まれ、幼い頃から優れた料理人達と接してきた徳岡だったが、料理人になる意志も、「京都吉兆」の跡を継ぐ意思もなかったという。それよりも「世界に通用するミュージシャンになりたい」と思っていたそうだ。中学時代はやんちゃだった。このままでは高校に進学できないため中学3年生になった時、有名進学塾に入塾させられた。元来、負けず嫌いの徳岡は、周りの生徒にも刺激され、熱心に勉強を開始する。学校のテストでは全教科90点代を取るまでになり、その当時話題の岡山の進学校を勧められ、いったん親元を離れることになる。
岡山での高校生活は半年に過ぎなかった。実家に戻り、板前の修業を開始する一方で、今度は自宅から通える公立高校に入り直した。この時音楽と出合い、本格的に「ミュージシャンの世界」を目指していた。高校は卒業したが、「ミュージシャンになりたい」という思いからは卒業できなかった。父と初めて真正面から向き合った。「『出て行け』と罵倒を覚悟のうえで『ミュージシャンになりたい』と言ったんです。しかし、殴られはしましたが『出て行け』とは言われなかったんです。追い出されたほうが、私にとっては好都合だったんですが(笑)。結局、父も私も感情的になり、収拾がつかなくなってしまったので、第三者を交えて考え直すことになりました。私は、昔からお世話になっている妙心寺派、大珠院の『盛永宗興老師』の下を訪れました。老師から、父を説得してもらおうと思ったからです」。
だが、なかなか思うようにいかないのが、人の常である。老師は「すぐに答えを出すのではなく、しばらく禅寺で過ごすように」と言われたそうだ。寺預かりの身となった徳岡は、頭を剃られ、仏門に入る。
「小さい頃から何度も訪れていましたから、座禅は苦にはなりません。ただ、今回は、客人ではないわけですから、仕事も任されました。私に与えられたのは風呂当番です。当時は、薪風呂なんです。薪を拾いに山に入り、斧で切り、それで風呂の水を沸します。いつだったでしょうか。薪を割りながら、涙が止まらなくなったんです。オレは、何をやっているだろうと」。・・・・続き
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