2013年8月27日火曜日

株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏登場。
本文より~

源流。

中島が生まれたのは1967年もあと3日残す、12月の29日。東京の荻窪で生まれたが、父の仕事の関係で幼稚園に入学するまでは神奈川の上大岡で暮らし、その後、大田区の石川台に移り住む。兄弟は3人、2歳下の妹と5歳下の弟がいる。母は専業主婦でおおらか。父は、年中忙しく「母子家庭のようだった」と幼少の頃を振り返る。
「ちよだ鮨」の源流は、曾祖父の代から始まっている。もともと富山県の堀岡村(現・射水市)で水産加工業をされていたそうだ。ところが祖父が12歳の時、曾祖父が亡くなり、それ以来、祖父は家業を手伝いながら北方に向かう漁船にも乗っておられたそうだ。
「祖父は23歳の時に上京し、25歳で独立します。商売がうまかったのでしょう。魚を仕入れ、それを陸軍や病院、企業の社員食堂などに卸していたそうです。ところが、戦争の影響で魚関係の仕事ができなくなったことがあって、戦後の一時期、石鹸の製造・販売を行うようになります。石鹸などが不足していた時代ですから飛ぶように売れたと聞いています。しかし、大手のメーカーが息を吹き返したことで、もう一度、魚の卸事業に回帰したのです」。
「中島水産」が設立されたのは昭和29年だから戦後9年。その翌年に企業内の食堂(給食)を委託・運営する事業部として「食堂部」が生まれる。これが現在の「ちよだ鮨」の原点である。
中島の父がなかなか家にも帰れず母子家庭のようだったのは、当時「中島水産」の第一線で活躍されてきた証でもある。
結局、中島の父は専務取締役となり、父の兄である長男が「中島水産」を継ぎ、父は平成元年に「ちよだ鮨」の社長に就任する。
平成元年といえば、1989年。中島が22歳になる年である。

立教中学へ。

ホットケーキが好きだったのだろうか。小学校に入るまで、「日曜日になればホットケーキをつくっていた」と中島は笑う。「幼少期は大人しく静かだった」というのが自己分析。芸術系の家庭で育った母の影響もある。ものをつくったり、絵を描いたりすることが好きだったそうだ。
「ピアノ」「習字」「水泳」と教育熱心な両親の下、自由に育ちながらも熱心に「学び」もした。反面、スポーツは好きではなかったそう。そんな、どちらかといえば大人しい少年だった中島だが、小学校も高学年に差し掛かる頃には活発になり、周りを笑わせるような少年になっていく。
中学を受験するため塾に通い始めたのは小学4年生から。青山と立教を受験し、立教に進んでいる。スポーツは得意ではなかったが、中学ではバスケットボール部に所属し、厳しい練習に耐えぬいている。
「たまたま私たちの先輩が全国2位の成績を収めたもんですから練習も厳しく、OBもひんぱんに練習に来てくれていました。おかげで夏休みも返上で、練習漬けです。それでも私たちの代は全国には進めませんでした」。もっとも中島はレギュラーではなく、時々、試合にでるような選手だったそうだ。・・・・続き
株式会社ちよだ鮨 代表取締役社長兼COO 中島正人氏
PRバナー

0 件のコメント:

コメントを投稿