8月28日、“ビション図鑑”に掲載して頂きました。
インタビューアは大学生の方でしたが、大変意欲ある方だったので気持ちいい取材でした。
私が若い時に経験した生きざまを記事にしてもらいました。
“ビション図鑑”の記事から、共感していい人材と出会えばうれしいです。
(2026/8/31(月)~2026/11/22(日))
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
8月28日、“ビション図鑑”に掲載して頂きました。
インタビューアは大学生の方でしたが、大変意欲ある方だったので気持ちいい取材でした。
私が若い時に経験した生きざまを記事にしてもらいました。
“ビション図鑑”の記事から、共感していい人材と出会えばうれしいです。
(2026/8/31(月)~2026/11/22(日))
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
予告編
左から5人目がサラリーマン廣井こと廣井憲太郎さんです。産経デジタルzakⅡの「ここだけの外食産業ニュース」にて、キイストンの新商材「マンガde採用」™️を取り上げました!
(2026/8/31(月)~2026/11/22(日))
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
(2026/8/31(月)~2026/11/22(日))
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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“飲食の戦士たち”で株式会社光聖 代表取締役 冨田 学氏を取り上げました。
4人兄弟。全員男で、全員野球選手。ちなみに、お父様は大手印刷会社に野球で入社。選手としての引退後はお客様第一の精神で、営業として実績を上げていき部長に昇進。50代で他社からヘッドハンティングを受け、その後、社長に就任されている。
兄弟4人にとっては父親であり、監督である。今回、インタビューに登場いただいた四男の冨田さんにとっては「一番の尊敬している人物」だと語る。
「父はすごい。足を向けて寝られない」と冨田さん。話を聞くと、たしかに、すごい。社長に就任されたことはもちろんだが、指導者としても秀でている。プロに進んだ息子さんはいないが、全員、野球で頭角を現し、次男、三男は名門浦和学院でプレーしている。
「次男は甲子園でベスト8です。最後の夏の大会は鳥谷さんのチームに決勝で負けました」。
父も、母も、兄弟たちもアルプススタンドで声援を送った。
ついでの話になるが、孫もまた、すごい。長男の息子さんはゴルフがうまく、小学生のときからスポンサーがついているそうだ。
<どんな監督でした?>と聞くと「星一徹みたいだった」と笑う。
なんでも、息子たちには特に厳しかったそうだ。
冨田さんは「とくに私ら兄弟には」といったが、チームメイト全員にとっても、監督は近寄りがたい存在だったそう。
「一度、むちゃくちゃ怒られたことがあるんです」と冨田さん。
<プレーで?>と聞くと、「いえ、違うんです。父が、みんなをバッティングセンターに連れていってくれたとき、私だけ隠れてジュースを飲んだんです。それを父が知って。大激怒です」。
協調性やチームメイトへの思いやりをとがめられたのだろう。冨田さんは半年間、謹慎を言い渡されたそうだ。
プレイボールが聞けない。
子どもだからよけいに辛かったんじゃないだろうか?
いつもの「プレイボール」がかからない。
お父様の厳しい一言が心に沁みたにちがいない。
兄弟4人全員、中学、高校と野球をつづけ、次男と三男は浦和学院に進学している。
長男にも、冨田さんは頭が上がらない。
「父親と同じように、長男も熱血指導で、尊敬する兄です」。
<そのご長男の会社で働かれるんですよね?>
「高校を卒業して、野球の推薦で2年制の専門学校に進みます。そのとき、長男が飲食店を東京でオープンすることになって、私の学校も東京だったもんですから、兄から『うちで働け』と指令が下りるんです」。
初めての飲食。「最初は、ぜんぜん楽しくなかった」と冨田さんは笑う。お客さんより、厳しい長男を見ていたからだろう。
しかし、飲食はたいていの場合、「つまらない」では終わらない。
「そうなんですよね。私もどっぷりと浸かります。20代の頃は、とにかく同級生より稼ぎたいと思っていました。でも、私らのような学歴では一流企業でサラリーマンなんてできません。でも、飲食は違うじゃないですか」。
<学歴なんか関係ない世界ですからね>
「そういう飲食の世界観に気づいて、23歳くらいからかな、マジになって取り組み始めるんです。そうすると、加速度的に飲食に惹かれ、『オレの天職だ』って思うようになるんです」。
目の前の人に喜んでいただく。
そこに全力で取り組む。
シンプルだから、だれにでもできるが徹することは難しい。飲食を天職と思える人は、その難しいことをつづけた人なんだろう。
「27歳で、当時店長をしていた店で独立させてもらいます」。
それが、飲食店経営のはじまり。
その後、紆余曲折を経て、兄弟が創業した株式会社光聖に入社する。
<思い切った決断ですね。いかがでした?>
「最初は思い通りに行きませんでした」と、冨田さんは苦笑する。
「当時、五反田と関内にお店があって、どちらももうないんですが、当時現場を任せていた店長との関係性がうまくいかなかった」。
<こんなはずじゃなかった?>
冨田さんは頷く。じつは、兄弟の会社の経営に携わった理由の一つに、冨田さんはスタッフの熱量を挙げていた。なんでも、当時冨田さんが経営している店にスタッフが何度か飲みにきていたそうだ。その姿勢に感化され、株式会社光聖に入社した。
「そう、そういうのもあって関わるようになったのですが、私の考え方が未熟だったんでしょうね。特に店長の心に寄り添うことができなかった」。
若い者同士、ぶつかると激しくなる。
冨田さんは今振り返り、「導く力がなかった」と漏らす。
「創業者の兄にお願いして、店を一つ出店してもらって、言葉ではどうしようもないんで、実績で黙らせてやろうと」。
冨田さんは特別な仕掛けはしない。「SNSと言ったってわからない」と笑う。戦略は一つだけ。目の前のお客様に喜んでいただくこと。店に入れば、全力でプレーする。
「すべてに手を抜かなかった」。
「その店長は、けっきょく退職してしまいました。ただその後、彼の結婚式でスピーチを任されるなど、今でも付き合いはあります」。
それにしても、冨田さんは人に対して、熱い。
今も、このときのことを「大変だったし、未熟だった。今ならちがった答えを出せるのに」と声を落とす。
「店の運営力は実績で示すことができたわけですが、大事なのはそんなことじゃなかった。やはり、人を導けないと、飲食もまた数字だけで語るつまらない世界になっちゃうんです」。
「生意気だったと思うんです。オレがいちばんだ!って。今もそういうところがないわけじゃないんですが(笑)」。
<ところで、そのお店はどうなったんですか?>
「オープンは2019年でした。とにかく、目の前のお客様を喜ばせまくって。スタッフが頑張る姿をお客様にも見てもらって。サラリーマンがメインで、客単価は6000円程度。35坪で月商は繁忙期で2000万円。こちらは東京と比べると家賃も極端に安いんで利益もでやすいです」。
<コロナ禍の時は?>
「閉めました。スタッフはみんな『やろう』って言ってくれたんですが。最初は、コロナウイルスの正体もわからなかったので、彼らの後ろには親御さんや奥さん、お子さん、彼女、彼氏がいるでしょ。最悪のことを考えたら、やっぱり営業はやめておこうと決めました」。
オープンして1年足らず。しかし、コロナも冨田さんにとっては大きな障害ではなかったようだ。
2026年7月時点では5店舗を運営している。
6月にオープンした新店はスケールがでかい。
90坪、家賃は200万円だそう。しかし、冨田さんは気負わない。
<今の目標は?>と聞くと「店長全員を年収1000万円にすること」という。「幹部全員、同じ方向を向いている」と言葉に力を込める。
「居酒屋とみ」と「焼肉とみ」の2ブランドで、神奈川3店舗、東京2店舗展開している。
新店がオープンしたのは横浜。
看板メニューは会津より冷凍することなく仕入れている新鮮な「会津 馬刺し」と「韓国東大門発祥のタッカンマリ」。
戦略的には「とみブランド化して展開していく」とのこと。
「現在、新たにオープンした新店を合算して、今年度の決算で8億円を計画しています。
前年度の決算は4億5000万円。新店のプラスがあったとしても、既存店で相当な数字を残さないときつい。
そう言うと冨田さんは首を横に振って、「成果をだすことで、皆んなの幸せが叶うと信じて突き進むだけです」。
新店に期待がかかるところでもある。
しかし、いつから数字を追いかけるようになったんだろう?
こちらの表情に気づいて、冨田さんは答えを語りだす。
「数字を追いかけるつもりは昔も今もありません。一緒に働く仲間を幸せにするためには結果が必要なんです。数字とは人作りです」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
“飲食の戦士たち”で株式会社レゴリス 代表取締役社長 星 幸輔氏を取り上げました。
「レゴリスは、月の砂のこと」。そう回答してくれたのは、今回、ご登場いただいたレゴリスの代表、星さん。
月と星がいい感じでマッチしている。ロマンチックな話を期待して耳を傾けていると、真逆でリアルな話がはじまった。
「ぼくは、生後すぐに息をしなかったらしくて、生きられたのは奇跡だったそうなんです。その話を聞かされてから、生きていることをちゃんと証明したくて」。
「TVに出たい」と思うようになったそう。「じつは今も出たいんです」と、まじめなトーンでつぶやく。
「ただ、最近になってね。民放全キーに取材されたんです。うちはサバ専門店でしょ。サバが今、むちゃくちゃ高騰しているんです。だから、そのニュースで…」と笑う。
「子どもの頃、お金があったら、絶対役者の養成所に通っていたと思う。でも、なかったから断念するしかありません。うちは、兄弟3人で、5人家族です。とにかく貧乏で、遠足のおやつもなかったし、レジャーといったら海に家族で行くんですが、ぼくは従姉妹のお姉さんのワンピースを着ていたくらいなんです」。
――それは、ちょっときつい――
「でしょ。洋服はすべてお下がりだったし、木造で風呂がなかった。だから、銭湯には2日に1回。でもね。それはそれで楽しかったかもしれない」。
「で、さっきの役者の話のつづきなんですが、昔、新橋の魚金(うおきん)って店で働いているときのこと。自称、ジャニーズと吉本の社員さんがいらして『お兄さん、将来、何かめざしてないの?』なんて言いながら誘ってくるんです」。
「でも、当時の新橋でしょ。ジャニーズの人が来るなんて思わないじゃないですか。酔っ払いが、しつこくからんできてるくらいに思って、あしらっていたらカチンときたんでしょうね。ジャニーズの名刺を差し出されて、『チャンスはこうして一瞬でなくなるから気をつけな』って(笑)」。
――それは、もったいない――
「どうかな」と言って星さんは笑う。
星さんが生まれたのは、1978年3月27日。
「じつは4月に生まれる予定だったんです。それが、数日、早くなった。だから、そう、中学までは剣道とかを習うんですが、ちっちゃくて。バレーボールをしていたんですが、中3で144センチしかありませんでした」。
4月1日生まれの生徒とは、たった5日の差だ。学年では、ぐるっと1年離れている。そりゃ、そのぶん、小さい。まだ、砂の一粒だった頃の話。
兄弟についても、聞いてみた。
「兄は宇宙人で、弟はガチのヤンチャ。ぼくは、ちょいワル」。
宇宙人からガチのヤンチャまで、グラデーションの真ん中にちょいワルの星さんがいた。
「ワルといっても、ぼくの場合はガチじゃなくって。学校に行くまでに喫茶店に行っちゃう程度。だべっていると、『あ、5時間目でヤベー』って。それで、単位と出席日数が足りなくなって、高校に4年通っています」。
「留年」。周りは1学年下。だが、5日あとに生まれていたら、同級生。むしろ、こっちのほうがちかい。
「留年は挫折でしたが、後輩といっしょになったこと自体は気になりませんでした。私が進学したときに、留年した人がいたんで、そういうもんかなと、抵抗感がなかったのかもしれません」。
「4年目にいい先生に出会った」という。
「担任の先生なんですが、恩人ですね。その先生のおかげで卒業できたようなもんです」。
ただ、先生にとっても星さんは、恩人だった。
「その先生は、ラグビー部の顧問でした。ぼくが3年生、というか、4年目のときですね。部員数が足りなくなって存続の危機に陥ったんです。先生が困っているのをみて『じゃあ、ぼくが入ります』って手を挙げたんです」。
この話から、星さんのやさしさと行動力と、そして、多少の無謀さが浮き彫りになる。
「ほかの選手とは、からだのサイズからしてぜんぜんちがった」と星さん。
そういや、星さんの3年間は、喫茶店通いがルーティンだった。スポーツとは無縁。
からだの小さな星さんが、グラウンドを駆ける姿を想像すると、先生を恩人と慕う星さんの気持ちと、ちょいワル星さんの意外な、ひたむきさが伝わってきた。
一粒の砂は少しずつ光りはじめた。
「学校の紹介もあって、ゴム関連の会社に就職しました。3年半くらい勤めました。仕事ですか? 仕事は父親のアドバイスもあって営業職です」。
――どうでした?――
「3年半、つづけていますから、成績も悪くはなかったんでしょうね」。
――魚金はそのあとですか?――
「そうです。さっきのジャニーズの話は、そのときのことです。当時の魚金は今みたいに有名じゃなかったです。そのあと、越後屋に移るんですが、これもまた私のターニングポイントの一つです」。
「看板は同じでも全店、独立採算制だった」と星さん。
営業利益の30%が店長の取り分。
「最初から45万円くらいありました。最高は、80万円くらいです。社長ともお話することが多く、かなり影響されています(笑)」。
「報・連・相が厳禁だった」と星さんは、突然、切り出す。
「なにをやってもいいんです。メニューも店舗でちがうし、なんなら価格もちがいます。ぜんぶ、フリー。マニュアルも、ルールもない。ただひとつ、報・連・相が厳禁」。
「ふつうその逆でしょ。でも、わかるんですよね。相談はもちろんですが、報告も、連絡も毎回、相手にしていたらキリがない」。
ルールで「報・連・相」が禁止されている。だから、独学で学んでいくしかなかった。ただ、それがかえって、星さんを育てた気がする。
「調理の経験がなかったんですが、それはなんとかクリアできました。困ったのは、スタッフの育成です。そもそも採用が難しいエリアだったし、若気の至りっていうんでしょうか。ちょっときつくあたったときもあって」。
――ほかの店長に相談しなかったんですか?――
「それもなかったなぁ。月1回定例会があったんですが、会社のなかに『共有』っていう概念がなかったんだと思います」。
調理も、採用も、育成も、経営もイチからで、本人は悩んだことも少なくなかったというが、高い給料が示す通り、課題をつぎつぎとクリアし、社長からも高い評価をもらうようになっていく。
そして、37歳で独立。
・・・続き
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