2017年6月19日月曜日

父の日か…。

6月18日は父の日。
昨年の5月11日に父親が亡くなり1周忌も過ぎた今、父の日は切ないものだ。
私には子どももいないから、もらうこともない。
(生前1年前の父親/真剣を持ち楽しそうでした)
母が亡くなり母の日も寂しい気持ちはあったが、父の日も…。
寂しいもんではあるが、親がこの世から先に去るのは必然のことである。
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贈った側が感激させて頂きいました。

お世話になっておりますマンガ制作会社最大手のトレンドプロ様が事務所拡充のため移転されたので観葉植物お贈りしました。

そのお礼の手紙に感動しました。
温かいこの気持ちは人を動かしますね。
岡崎社長感謝です!!
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2017年6月15日木曜日

キイストン五人衆!!

キイストンを担う五人衆!!
よく資質のいい人材が揃いました、うちの宝物です!
営業未経験の新人であろうが経験積んできた中堅であろうが常に社長様相手に仕事をさせているため成長が早いです。
第3の営業マンでもあるTは今年1月より目標を大幅に上げたにも関わらず5か月連続達成中で、この半年で大きく成長してます。
現在新人の教育係も兼務させ、負荷を与えてますが負荷をプラスにしてくれてます。
第4の営業のSも大ネタを提案しています。

ある程度厳しくした後は、機会作ってやり、やらせることが一番!
3年後を見据え、さらに提案に必要なヒアリング力、ニーズに対応できる企画力、出来る人たちに合わせられるスピード、そして筋の通せる人間力を鍛えてます。

年内には営業マンをもう1人は増やしたいな・・・・。
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「そうだ、富士山に登ろう!」ということで今年もチャレンジ。

昨年、「そうだ、富士山に登ろう!」と軽い気持ちで臨んだ富士登山。
日が落ち時間切れで八合目で残念しましたが、今年はリベンジで富士山頂上制覇するぞ。

ということでトレーニング開始しています(笑)

2017年6月13日火曜日

株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏登場。
本文より~

TVドラマに触発されて、ロスに渡った。

小さな頃に、和歌山に引っ越した。生まれは、大阪府高槻市である。「小さな頃、どんなことを考えていましたか?」と伺うと、藤原氏は、こう答えた。「子どもの頃から社長になりたかったんです。社長イコールお金持ちだと思い込んでいたからです」。どうして、お金持ちになりたかったのか。「うちは社宅だったんですね。今思えば、ぜんぜん貧乏でもなかったんですが、友だちの親が医者や不動産関係ばかりで(笑)」。藤原氏の父親は、超大手企業に勤務していた。けっして貧乏ではなかったが、社宅というだけでお金がないと思っていたのだろう。
「母親から女の子のように育てられていたもんですから、子どもの頃は、とにかく大人しい子どもでした。子どもの頃に着ていたのは、赤い服ばっかりなんです(笑)」。ところが、サッカーを始めて、大人しい少年は、たくましい少年にへんぼうする。
「小学2年生の時に、ちかくに住んでいたお兄さんに誘われて、サッカーを始めました。とたんに自我がめざめて」。才能があった。「サッカーは、ぶっちぎりで巧かったです。けっこう盛んなエリアだったんですが、5年生の時には、早くもレギュラーに抜擢されました」。
周りに認められることで、自信もつく。グランドを駆け回るたびに、評価が高まった。
「代わりに、学校の成績はぜんぜんだめ。だいたい勉強する気もまったくなかったもんですから、しかたありません」。小学5年生からレギュラーとなり、6年生になってからは、チームいちの注目選手だった。そのまま和歌山で暮らしていたら、また違った人生があったかもしれない。
「小学6年生の12月に、奈良県の生駒市に引っ越しました。小学生でしょ。転校生は、へんな目でみられます。まったくもってアウェーです。しかも、生駒にはサッカーという文化がない。なんじゃこれ!ですよね。サッカーを知らない町があるなんて思ってもいませんでした」。
それだけが原因ではないだろうが、中学に上がって、本人いわく、グレ、始める。中学校でもサッカー部がなかった。それも要因の一つだろう。高校の時には、学校に内緒でバイトもした。「プールバーで、深夜までバイトしていました」。
深夜までバイトはつづく。授業中の爆睡もつづく。
「転機は、一つのTVドラマを観て、訪れます」。「どんなドラマですか?」と聞くと「織田裕二の『お金がない』です」と笑う。ちなみに「お金がない」は、当時、毎週水曜日にフジテレビ系列で夜9時から放映されていたTVドラマ。1人の極貧青年が、出世するサクセスストーリーである。「学もない」「貧乏」という共通項があった。
「それで、『お金がない』といえばアメリカだと思って、高校3年の1月、卒業をする前に渡米しました。英語ですか?もちろんぜんぜんできません(笑)」。
強烈な、行動力だ。言い換えれば、無謀の二文字となる。
「ロスで3年くらいですね。日本人だから寿司バーで仕事をしました。給料はむちゃくちゃ安い。だから、お客様を口説いてヒモ生活をしていました」。危険とも隣り合わせだったそうだ。「スパニッシュには負けたことがないんですが、黒人には勝ったことがない。奴らはバネが違うんです。一つひとつのパンチが重い」。
銃で撃たれたこともあったらしい。至近距離から放たれた銃弾は、藤原氏の太ももを貫通した。おまけに言えば、運転していた車にも、鉛玉を叩き込まれたことがあるそうだ。そういう意味でも、ギリギリの暮らしだった。3年経って、奈良に帰った。

年間数千万円の利益。「天才」という二文字は、オレのためにある。

「うちに帰ると父親が、『一度でいいから大手で勤務してくれ』っていうもんですから、祖父のコネを使って、ウエスティンホテルに潜り込みました」。なんでも、おじい様は近鉄の重役をされていたそうだ。「ウエスティンホテルでは3年勤務します。祖父のコネで入社していなかったら、間違いなくすぐに退職していました。しゃれにならないほど、たいへんでした(笑)」。
ただし、しゃべり方、立ち振る舞い方などは、ぜんぶ、この一流ホテルで学んだ。つまり、藤原氏の基礎は一流ホテル仕込みである。
「目標だった黒服になることもできたんで、3年で退職します」。石の上にも3年。祖父に対する免罪符ともなっただろう。「その後は、ブライダルホテルで1年弱勤務し、焼肉屋の店長をしているときにヘッドハンティングされて、『牛角』の関西1号店の出店にかかわり、合計、5年勤務しました」。
当時の目標は、30歳までの起業。「30歳までどんだけ転職したろか、と思っていました」。ブライダルホテルを退職したのが25歳。「牛角」でも勤務する。30歳が近づいてくる。「当時、勤務していたのは、メガフランチャイズです。ビアードパパやビックリドンキーのフランチャイズもしていました」。様々な業態を体験し、その経験をもとに、宣言通り、独立を果たす。
「天王寺に、日本酒と米料理の店『銀シャリ』を出店しました。もちろん、オリジナルブランドです。酒はもともとは米でしょ。親和性が高いんです。2階20坪のお店でした。部下と嫁と合わせて4人でスタートです」。
好調にスタートし、2ヵ月目には早くも軌道に乗った。「あの頃は、もう天才だと思っていました」。2号店、3号店と出店を重ねる一方で、コンサルティングの仕事も殺到した。「お店自体は、それほどでもなかったんですが、コンサルの仕事に箔をつけるために私自身が店を経営していることが大事でした」。コンサルティングを行うことで、年間、相当な売上が立った。「天才」とうがった言葉もあながちオーバーに聞こえない。「北新地」がホームグランドになる。1日100万円を使おうが、問題はなかった。
しかし、宴は、いつまでもつづかない。
「リーマンショックで、ぜんぶいかれてしまいました。コンサルの仕事もなくなり、店もうまくいかない。月に400~500万円の赤字がでました。数ヵ月、がんばりましたが、最後にはスタッフに1ヵ月分の給料を払って辞めてもらって。店も叩き売りました」。
「タダでも良かった」という一言が当時の状況を良く物語っている。
数年間に亘り、億単位の金を動かしていた藤原氏だったが、結局、手元に残ったのは、たった数万円。
しかし、藤原氏の人生でいえば、そこからが、ほんとうの意味のスタートだった。
・・・続き

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2017年6月6日火曜日

株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏登場。
本文より~

ボーカルとグループ退団と。

「父は、日立造船の役員を経て、海外邦人医療基金という独立法人で専務理事をしていました。こういうのを天下りじゃなく、天上がりっていうらしいです」。
父親の話を聞くと、羽中田はそういって笑った。
羽中田氏が生まれたのは1956年6月29日。
造船が花形だった時代に、父親は日本を代表する「日立造船」という会社の中枢にいた。「うちでは、父をぜんぜんみかけませんでした。休みの日も仕事漬けだったのでしょう。文字通り、企業戦士です」。
父親も、そうだったように、息子の羽中田氏も慶応大学を卒業している。
「私は中等部から慶応です。中等部時代は、バスケットボールをするかたわら音楽もしていました。高等部になってバンド活動を本格的に始めます。『カシオペア』ってグループをご存知ですか? 私は、カシオペアの前身である『ジャジャ』でボーカルを務めていたんです」。
「カシオペア」というのは1979年にデビューし、アルバムなどの作品制作やライブ活動を行い、人気を博したバンドグループである。
「私が高校の時ですね。天才ギタリストと、天才ドラマーの出会いからスタートするんです。私がいた頃はジャジャというバンド名でした。グループは2人の天才がひっぱっていたんですが、彼らはストイックというか、ファンにチヤホヤされることにも関心がないみたいな。一方、私は、言っても音楽をやっていればモテるとか、多少、そういう浮ついた気持ちがあったのも事実で、大学2年の時に、方向性の違いが明確になって、私はグループを抜けました。違った言い方をすれば、首になったわけです(笑)」。
ストイックに音楽性を追求する。2人の天才たちほどでもないが、羽中田氏自身も、「TVとかにでて、チヤホヤされているグループを恰好悪い奴らだと思っていた」そうだ。
「私は高校に進んだ時に音楽で食べていこうと、いったん学校を休学します。しかし、結果的には、まだ、音楽で食べていくのは早いと断念しました。だから、休学の期間を合わせて1年を3回もやっているんです。ふつうは2回で追い出されるんですが、父がうまくやってくれていまして、それで3回です(笑)」。
つまり、1年生を計3回。そのぶん、学校に長くいて、友人もたくさんできた。
「バンドとか、何かと早熟だったんですね」と話をふると、羽中田氏は、にやりと笑って頷いた。「慶応っていうのは昔から、そういう風土があるんですね。先取りタイプが多いっていうのか」。
大学には、まず進学できるのも自由な時間を楽しむことに一役買っているのかもしれない。もっとも学部は成績順。羽中田氏は、法学部に進む。今でこそ文系の最高位であるが、希望していた経済学部にはいけなかった。大学2年で、高校時代からつづけていたバンドを卒業するのは、すでに書いた通りだ。
ところで、慶応時代、羽中田氏は2人のキーパーソンに出会っている。「セント・リングス」の青木氏と「ピザーラ」の創業者、浅野氏である。いずれ彼らは、羽中田氏の人生にも大きな影響を与えることになる。

憧れの広告代理店。2度目の挑戦。

「狙っていたのは、電・博です。で、それがだめなら、第一企画(現アサツー ディ・ケイ)だと思っていました」。今度は、就職の話である。電通はいいところまでいった。だが、最終関門が突破できない。博報堂もしかり。「親父のいとこが、第一企画のオーナーだったんです。だから、『最後はここだ、ここなら大丈夫』と高をくくっていたんです」。
第一企画(株)は、1999年に(株)旭通信社と合併して、現在は、株式会社アサツー ディ・ケイとなっている。「ところが、親父が根回しをしていて『息子が頼みにいっても、断れ』と。親父にすれば、広告代理店みたいなのは、まっとうな職場じゃなかったんです。親父は、自分と同じようにモノづくりのメーカーに就職させたかったのでしょう」。
まだまだ古い時代である。公務員が、就職先として幅をきかせていた時代でもある。しかし、その一方で、情報化時代を迎えつつあったのも事実だろう。
敏感な学生たちは「情報」を武器とするTVや広告代理店をかっこいい職業だと認識するようになっていた。羽中田氏もその1人。「そうですね。かっこいいだろうなと思っていました。今も昔も、そういうモノサシって、あるんじゃないですか」。
最後の砦である、第一企画の叔父のもとに出向き、けんもほろろに追い返された羽中田氏は、結局、化学メーカーである日産化学工業(株)に就職する。意に反した就職だったが、「石の上にも3年」という、当時、唱えられていた言葉を守り、3年、きっかりはたらいた。3年で、呪縛が解ける。
呪縛が解けた羽中田氏は、もう一度、「第一企画」を受検する。たまたま中途採用者を募集するという情報を友人から教えてもらったからだ。2000人の応募者なかで採用されたのは、たった15人。そのなかに羽中田氏もいた。本人は「裏口入社」と笑うが、たとえ、何らかの采配があったにしろ、その後の活躍は、すべての批判を一蹴するものだ。
「もともとは、小さなクライアントだった」と羽中田氏。先輩から放り投げられた、とあるクライアントが化けた。
「電電公社です。民営化される前は、広告って言っても小さな枠しか出稿されていませんでした。それで、新人の私にお鉢がまわってきたんです。ところが、数年後に民営化されて、とんでもない出稿量となります」。
正確な数字は伏すが、第一企画のなかでもいきなりナンバー2のクライアントとなる。民営化に寄り添いサポートしたのは、羽中田氏である。それだけの仕事をやってのけたのは、まぎれもなく羽中田氏の実力といっていいだろう。
「もう、そりゃたいへんでした。1日24時間、すべて仕事です。むろん、当時の話です。交際費はいくらでも自由になりました」。今振り返れば、広告が華やかかりし時代である。金が集まり、タレントたちが集まり、広告が時代の流れをつくった時代でもある。いつしか、その先頭集団に、羽中田氏がいた。
「私が退職したのは45歳なんで、合計18年いました。45歳の誕生日の翌々日に退職届を提出したんです」。

さらば、広告。華々しき世界。

華やかな広告業界から「飲食」という地味な世界に転身した裏には、やむを得ない事情もあった。
「まだ、第一企画に在職していた頃です。大学の先輩でもある『ピザーラ』の浅野さんに『できる』と言われて、妻を代表にして、ピザーラのFCを出店するんです。大学時代の同級生『セント・リングス』の青木が、私より早くピザーラのFCを展開していまして。ともかく、話がすごいんです。月商が1000万円、2000万円にもなる、と。その事実を知っているだけに、指を加えているわけにもいかなくて(笑)」。
いつかは独立しようと思っていた羽中田氏は興味を持ち、始めてみると、これが儲かった。飲食経験ゼロ、経営経験もゼロ。それでもわずか3年で店舗数は11店舗まで膨らんだ。「順風満帆。ただし、調子に乗りました」と羽中田氏。「ピザーラ」だけではなく、「かつや」のFCも出店。こちらも儲かった。ラーメン店もしたくて、「よってこや」のFCも出店する。自らは会社の外側にいて、経営は人任せ。とにかく、いきおいに任せて出店を重ねた。ブレーキを踏む人間はだれもいない。
「報告は受けていたんです。ただ、店をみることもなく、数字だけをみて鵜呑みにしていました。ところが、ある時、経営状態の危機を知るんです」。
それが45歳の誕生日を迎える直前のことだった。原因は、すべてを人任せにしていたことだ。都合のいいように加工された数字を、すっかり信じ込んでいた。
「店舗数も、それなりにありましたし。飲食っていうのは、儲かる時もそうですが、その逆もしかりで。いったん赤字になると底が抜けたようになり、ほかの店の利益まで垂れ流すことになる。もう、放ってはいけない。だれも、やってくれないわけですから」。
どちらかと言えば、消極的な選択だった。信頼して、任すことができる人間がいれば、好きな広告代理店の仕事を辞めるという選択肢はなかったはずである。しかし、消極的か、積極的かどうかは別問題で、今や目の前に片付けなければならない問題が山積みだった。
「それまでも、いっぱしの経営者のつもりでいました。本も読み、勉強もしました。しかし、サラリーマンと経営者はぜんぜん違う。勉強して本を読んでも、それは知識なんです。本当の意味での経営力っていうのは、実践でえらいことならないと身につかない。それを思い知らされました」。
おなじような話は、いろんな「飲食の戦士たち」からも伺っている。ともかく、そういうやむを得ない状況に追い込まれ、意に反して、羽中田氏はふたたび広告の世界から、離れることになる。
・・・続き
株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏

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