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2022年7月25日月曜日

株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男登場。

本文より~

生家は養鶏場。

地図でみると、熊本市から西を望んだ対岸にあるのが島原半島。同半島にある島原市は人口5万人弱の小さな街。いうまでもないが、島原の乱の舞台でもある。
この島原の海沿いにあった養鶏場が今回、ご登場いただいた坂本氏の生家である。
「今もですが、農業、漁業が盛んです。逆にいうと、それだけしかない(笑)。あとはそうめんくらいです。うちの養鶏場は曾祖父の代からつづいていました。私も、たまごを取ったりしていました」。
お手伝いは、少年の日課。
「兄弟は兄と妹。父母も長崎生まれで、農業高校卒。親戚のなかでも大学に進学したのは私が最初だったかもしれません」。
秀才と言われていたんじゃないだろうか。小・中と学年トップ。高校は九州でも3指に入る名門校。「父親は私が小学校の頃に養鶏場をやめて、犬のブリーダーに転身し、アパート経営も始めます」。
森の中の一軒家。カベを巨大な蜘蛛が這う。そんな環境で少年時代を過ごした。
「今思えば、案外、商売人だったんでしょうね。ブリーダーをはじめてからは私たちも、それまでと比べてですが、いい生活をしていたように思います。一軒家も新しくなりました」。
鶏がドーベルマンにかわる。少年と犬との付き合いはいったいどのようなものだったのだろうか。
「祖父が好きだったこともあって、私も釣りが大好きでした。アジの大群がいる時は100匹くらい、すぐに釣れました」。
豊かな自然は少年の大きな心を育て、同時にクレバーな頭を育てた。
「兄の勉強を先生がみてくれていて、その横にいた私が兄よりも学習していたんでしょうね。勉強はだれかにしろと言われたわけではなく、問題を解くのが楽しくて、中学生の頃には明け方まで問題と格闘していました。その結果、まぁ、いい高校に進むことができたんですが、今思い出しても二度ともどりたくない学生生活がスタートします」。

秀才の進学。

青雲高校。すでに書いたが九州で3指に入る進学校だ。
「当時は 1年生は全員、寮生です。4人部屋。朝6時にはたたき起こされラジオ体操です。おなじ部屋の1人が遅刻すると、連帯責任で4人全員グランドを走らされます」。
TVもないから娯楽もない。夕食が終われば、もう一度学校にもどり自習が始まる。年中無休で勉強、勉強。何のために、誰のために学んでいるかもわからなくなっていたのではないだろうか?
「私は高校からですが、中・高一貫でしたから系列の中学から進学してきた生徒もいます。なかには長野県から来た生徒もいました。6割が医大志望です。私は通っていた塾に勧められて、こちらに進学したんですが、最初はぜんぜん相手にならなかったですね」。
相手にならないというのは、学力の話。「だから、順位を上げていくのもたいへんでしたし、なにより寮生活がサバイバル(笑)」。
もどりたくないが、坂本氏を坂本氏としてつくりあげた原風景の一つでもある。
「ただ2年生になると、下宿に移ることができます。私は、その日をまってフルスピードで下宿に移りました」。
こちらは1人部屋。何でもできた。外出の許可ももういらない。
ところで、気になっていたので確認してみた。
めざすのはやっぱり赤門ですか?
「そうですね。ただ、私は東大には縁がなく慶応義塾大学に進んでいます」。
生活が一変したそうだ。
「タガが外れたというか勉強もまったくしなかったですね。サッカーとか、テニスとか、スケボーとか。バイトは日吉にあるコーヒーショップで4年間、勤めました。カレーやサワーが作れるようになったりして、長崎の田舎者にはなにもかもが新鮮でした。じつは、初めてエクセルに触れたのも、この時。オーナーから教わりました」。
一つのセルに数字を打ち込めば、もう一つのセルに答えがでる。
秀才、坂本氏も最初は驚いたのではないだろうか?
1990年代後半は、まだ、そんなアナログな時代だった。

就職、そして、将来。

「特別な志望動機もなく、ある化学メーカーに就職します。大学に進学してからは勉強もしていませんでしたし、社会に対しても無知だったので、いい悪いという選択肢もなかったのが正直なところ。ただ、競合も少ないから、会社は安泰かなと」。
1999年のこと。坂本氏はある化学メーカーに就職している。「まだまだ就職難の時代でした。1年目は物流の仕事を経験し、タンクローリーの配車係を、2年目からは営業です。結局こちらは辞めてしまうんですが、ラグビーが楽しかったですね」。
ラグビーですか?
「からだが大きかったし、足も速かったので先輩に強引に誘われて。でも、面白かったですね。サッカーとちがってコンタクトもOKでしょ。ポジションはウイングです。うちの所長が明治のラグビー部出身で、強烈なラガーマンなんです。そんな所長と朝から晩まで仕事をしていましたからね。所長のラグビー好きに私も染まったのかもしれません。とにかくいい思い出の一つです」。
それでも、退職?
「これは、小さい時の記憶も関係しています。私が小学生の頃、父が養鶏場をやめ、ブリーダーとアパート経営を始めたと言いましたが、あの時、生活が一変するんです。その原体験があったもんですから、じつは早くから、いわゆるサラリーマンにはなりたくなかったんです。そういう目で、周りの先輩をみているとどうもつまらなかった。5年先の給料までわかっていましたから」。
ラグビーのような楽しさは、仕事になかったようだ。
いつかは、独立。
もう一つのサバイバルが始まった。

公認会計士へ。

「あの時、知人の話を聞いて税理士の仕事もたのしいなと思ったんです。私も、いちおう経済学部卒なので、一度、チャレンジしてみようかと。ただ、税理士っていうのは取得するのに数年かかるんです。でも、公認会計士なら1年でもいけると知って、じゃあ、そっちだと(笑)」。
東大を狙った秀才だ。勉強のコツも知っている。ただし、会計士の門はある意味、赤門より狭い。「税理士が20~30%の合格率に対して、会計士は7~8%と言われています。レベルは高いのはわかっていましたが」。
軍資金は、1年間の生活費で消える。
「昼夜で1000円です。それ以上はNGです(笑)。ただ、1年目は失敗。2年目は生活費もままならないなかでしたが、無事、合格できました」。
「あの頃、あのイオンでよく買い物したわよね?」
じつは、このインタビューの数日前、奥様からそう言われたらしい。買い物は、奥様の、正しくいえば、当時は彼女の自腹。買い物籠の中身は、坂本氏のための食材だった。
「すっかり忘れちゃっていました(笑)。あの頃はお金がなくて、彼女にガス代やごはん代まで助けてもらっていました」。
奥様の期待通り、公認会計士になった坂本氏は、大手監査法人に就職する。「むちゃくちゃ仕事をしましたね。私だけでなくみんなそうです。いちばんの下っ端でも前職と比較すれば給料も倍以上です。全社で6000人くらいがいて、私の部署だけでも300人いて、仕事ができる人間ばかりなんです」。
8年間は監査の仕事をして、あと2年は営業の仕事をする。
その時に出会ったのが、そう、串カツ田中。

串カツ田中と、坂本。

人生は面白い。長崎で生まれた秀才が、その英知をつかって上京し、公認会計士という狭き門を潜り抜け、会計士の経験とスキルを積み、ある会社と出会う。
「もともと独立するためだったので、上司には監査の時代に辞めるといっていたんです。そしたらオレといっしょに営業を経験しようと言われて。最初に串カツ田中と出会ったのは、その先輩なんです」。
上場予備群のなかから上場の可能性が高い企業に営業をかけ、支援する。それが、坂本氏らの仕事。だから最初は串カツ田中も顧客の一社にすぎなかった。
「営業にかわり2年、私も独立の準備を開始します。『坂本公認会計士事務所』っていう名刺も刷って。ところが、偶然ですね。串カツ田中のお店でばったりと当時社長の貫に会って」。
人と人の出会いもまた面白い。
「独立することを貫に報告すると、『じゃあ、うちにおいでよ』っていうんです。『独立は難しいから』って。私自身、どこかに不安もあったんでしょうね。今は4人ですが、あの頃でもう3人の子宝に恵まれていましたから」。
創業者、貫氏の一言が反芻した。
「でも、串カツ田中を選択したのは、独立のリスクだけではありません。事業会社の内部から上場をめざすことができればと。もちろん、貫という人物に惹かれていたのも事実です」。
あと1日電話するのが遅ければ、縁はなかったそうだ。貫氏に電話すると、「あしたCFOを決めるところだった」と言われたそう。縁は待つだけではないようだ。
「貫は人柄も申し分なく、クレバーな人です。頭もむちゃくちゃいい。業態もとがっているわけですが、それだけでは上場はできません。社長の資質という意味では群を抜いていましたが、私が入社した時点ではまだ40店舗。確信はありましたが、むろん、上場ははるか向こうです」。

・・・続き

株式会社串カツ田中ホールディングス 代表取締役社長 坂本壽男

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2020年1月15日水曜日

千房ホールディングス株式会社 代表取締役 中井貫二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に千房ホールディングス株式会社 代表取締役 中井貫二氏登場。
本文より~

千房、3代目社長。野村證券で奮闘す。

今回は「ぷれじでんと千房」などで有名な千房ホールディングス株式会社の2代目社長、中井貫二氏に話をうかがった。ちなみに「千房」といえば、お好み焼にうるさい関西人なら、だれもが知っている。創業は1973年、難波千日前にオープン。父親であり、現会長の中井政嗣氏が、創業者である。
「私は3人兄弟の三男です。長男は7つ上、次男は5つ上です。この2人は店の片隅のダンボールの中で育てられたそうですが、私は、ごくふつうに育てられました。心斎橋に2号店をオープンしたあとで、事業もうまくいっていた頃です。母親ももう専業主婦でしたし/笑」。
子供の頃、「ゴットファーザー」のような兄弟だった。長男は、ヤンチャで人気者。次男は、大人しく、三男の中井氏は、とにかく要領が良かった。
お父さんはどうでしたか?
「父ですか? 父は365日会社です。いっしょに遊んだ記憶も、旅行に行った思い出もほとんどない。そういう意味では、ふつうの家族とはちょっと違いますね」。
子どもの頃から、勉強が大好きだったそう。成績も、常に上位でした。大学は京都大学を目指していたというから察しがつく。2度、受験し、慶應義塾大学に進む。「中・高は男子校です。高校ではサッカーをしていました。大学ではアメフトです」。
慶應義塾大学のアメリカンフットボール部。企業の採用担当者ならどこでも欲しがる人材だ。もっとも超氷河期だったそう。「そうですね。かなり厳しい環境だったと思います。そのなかでも私はいろんな意味で、いちばん厳しい野村證券に就職しました」。
野村證券は、いうまでもなく日本を代表する証券会社だ。とはいえ、社内での競争は猛烈だったはず。証券会社の守備範囲は広い。
「私は、野村證券の新宿野村ビル支店に配属されます。こちらで、徐々に上位に位置するようになりました。もっとも仕事ができると私自身が思うようになったのは3年目くらいでしょうか」。
入社式で、中井氏は、新卒者の代表に選ばれている。
最初から期待の大型新人だったわけだ。
「じつは、組合の議長も務めています。野村證券で勤務したのは14年です」。25歳の時に、2歳上の先輩とめでたくゴールインしている。
「辞めようと思ったこともなかったし、実際、辞めるつもりもなかった」という。

千房、入社。会長から託された羅針盤。

「千房に転職したのは、6年前です。もともと長男が2代目社長予定だったんですが、急逝してしまいます。その跡を継ぎます。野村證券は、さっきも言ったようにぜんぜん辞めるつもりではなかったんです。収入も半分くらいに下がりそうでしたし…」。
それでも、決断したのは何故ですか?
「昔から、父に『従業員のおかげで食べていけてるんやぞ』って話をずっと聞かされて育ってきたんです。だからだと思います。長兄がいなくなり、従業員が困っていると聞いて、『やらない』という選択肢は私のなかにはなかったんです」。
これが、中井氏、37歳の時の選択である。「理解してくれた家族にも感謝」といっている。「正式に社長になったのは、じつは去年で、45周年の時です」。
なんでもゼロリセットが、45周年のテーマだったようだ。「本社も移転しましたし、組織も変えました。ぜんぶ、ゼロリセットです」。
会長のOKはよくでましたね?
「もちろん、創業者の思いは絶対です。千房は、これはマスコミにも取り上げてもらっていますが、昔から過去不問です。受刑者も受け入れています。反対という幹部もいましたが、これは絶対続けていきます。そういう大事なことは守り続けたうえで、たとえば、評価制度や、給料制度などですね。そういう仕組みをチェンジしていきました。働き方改革も、いま猛烈に進めています」。
会長はなにか、言われましたか?
「会長に言われたのは、一言でした」。
「従業員が幸せになれるんやったら、それでいい」。創業者であり、会長の政嗣氏は、そうおっしゃったそうだ。なんと、強い言葉だろう。明確な思いが詰まっている。
従業員が幸せになれるかどうか。この尺度は、3代目、社長に託した宝物であり、羅針盤かもしれない。

ボーナスゼロは、経営者の責任。

「まだ、うちは上場していないんですが、会社は、パブリックでなければいけないと思っています。受刑者を受け入れているのは、その一つですし、従業員を尊重しようとしているのも、その表れです」。
エピソードを一つ。これは、中井氏が千房に入り、はじめての経営会議でのこと。
「上半期が赤字だったんですね。で、ボーナスゼロって話だったんです。『え、それは、ちがうでしょ』と」。
中井氏は、問いかける。
「従業員は、頑張ってないんですか?」
答えは「頑張っている」だった。「だったら赤字は、経営陣の責任だ。銀行からお金を借りてでも、ボーナスは払うべきだ」と言い放った。
まっすぐ。そんな性格である。しかし、いきなりの一言に、経営陣たちは驚いたことだろう。
「そりゃ、そうです。だって、従業員たちも薄々ゼロだろうなって思っていたくらいです。つまり、いつものことだったんですね/笑」。
型破り、異端児といえば父親の政嗣氏も負けてはいないが、息子の中井氏も、立派な型破りタイプだ。従業員には、そんな中井氏の思いは伝わったんだろうか?

腹をくくった改革者。

「生産性を2倍にするのは、簡単じゃないですよね。新たな設備を入れても、そりゃ、無理です。でもね。人はちがう。モチベーションがあがれば、2倍、3倍…、10倍にも生産性があがる。もちろん、その逆もあるわけで。だから、経営っていうのは難しいんですが」。
たしかに、そう。いいと思っても、逆効果の時だってある。
「その時は、生産性をあげるというより、ふつうのことです。だって、頑張っているのに、ボーナスゼロはないでしょ。だから、私にすれば、ふつうの主張だったんです。でも、従業員たちもびっくりして。『ボーナスでるみたいやで』ってなって」。
「ゲンキン」という一言で、片づけてはいけないと思う。経営者の思いが伝わり、今までとはちがうという思いが従業員一人ひとりに芽生えたのではないか。いうならば、最初にできた、中井氏と従業員との「きずな」。
「それで下半期で、なんと上半期の落ち込みをカバーし、通年で予算を見事に達成します。飲食だけに限らないとは思うんですが、とくに飲食は『人』ですね。このエピソードを通して、私自身が、それを知ります」。
これ以来、中井氏は改革を進めていくのだが、改革には痛みもともなう。もちろん、なかなか思い通りにも進まないことあっただろう。
「改革に大事なのは、『よそ者・若者・バカ者』なんですね。これがそろって、はじめて改革が進んでいく」。たしかに、中井氏はよそ者。しかもある意味、バカ者でもある。
「じつは、働き方改革の一環として、定休日もつくりました。売上はめちゃめちゃ下がっているんですが」と笑いながらも真剣な表情で、中井氏はつづける。
「家族といっしょにいる時間とかね、ぜったい大事な時間をちゃんとつくれるようにする。海外進出や、何百店舗の出店なども、たしかにいいんですが、私のミッションは、飲食の社会的な地位の向上だと思っています。だから、バカ者にだってなる。だれかがやらないと進まないでしょ。これが、経営者の務めです」。
腹をくくっている。そこが、すごい。
・・・続き
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2017年6月6日火曜日

株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏が登場。
本文より~

ボーカルとグループ退団と。

「父は、日立造船の役員を経て、海外邦人医療基金という独立法人で専務理事をしていました。こういうのを天下りじゃなく、天上がりっていうらしいです」。
父親の話を聞くと、羽中田はそういって笑った。
羽中田氏が生まれたのは1956年6月29日。
造船が花形だった時代に、父親は日本を代表する「日立造船」という会社の中枢にいた。「うちでは、父をぜんぜんみかけませんでした。休みの日も仕事漬けだったのでしょう。文字通り、企業戦士です」。
父親も、そうだったように、息子の羽中田氏も慶応大学を卒業している。
「私は中等部から慶応です。中等部時代は、バスケットボールをするかたわら音楽もしていました。高等部になってバンド活動を本格的に始めます。『カシオペア』ってグループをご存知ですか? 私は、カシオペアの前身である『ジャジャ』でボーカルを務めていたんです」。
「カシオペア」というのは1979年にデビューし、アルバムなどの作品制作やライブ活動を行い、人気を博したバンドグループである。
「私が高校の時ですね。天才ギタリストと、天才ドラマーの出会いからスタートするんです。私がいた頃はジャジャというバンド名でした。グループは2人の天才がひっぱっていたんですが、彼らはストイックというか、ファンにチヤホヤされることにも関心がないみたいな。一方、私は、言っても音楽をやっていればモテるとか、多少、そういう浮ついた気持ちがあったのも事実で、大学2年の時に、方向性の違いが明確になって、私はグループを抜けました。違った言い方をすれば、首になったわけです(笑)」。
ストイックに音楽性を追求する。2人の天才たちほどでもないが、羽中田氏自身も、「TVとかにでて、チヤホヤされているグループを恰好悪い奴らだと思っていた」そうだ。
「私は高校に進んだ時に音楽で食べていこうと、いったん学校を休学します。しかし、結果的には、まだ、音楽で食べていくのは早いと断念しました。だから、休学の期間を合わせて1年を3回もやっているんです。ふつうは2回で追い出されるんですが、父がうまくやってくれていまして、それで3回です(笑)」。
つまり、1年生を計3回。そのぶん、学校に長くいて、友人もたくさんできた。
「バンドとか、何かと早熟だったんですね」と話をふると、羽中田氏は、にやりと笑って頷いた。「慶応っていうのは昔から、そういう風土があるんですね。先取りタイプが多いっていうのか」。
大学には、まず進学できるのも自由な時間を楽しむことに一役買っているのかもしれない。もっとも学部は成績順。羽中田氏は、法学部に進む。今でこそ文系の最高位であるが、希望していた経済学部にはいけなかった。大学2年で、高校時代からつづけていたバンドを卒業するのは、すでに書いた通りだ。
ところで、慶応時代、羽中田氏は2人のキーパーソンに出会っている。「セント・リングス」の青木氏と「ピザーラ」の創業者、浅野氏である。いずれ彼らは、羽中田氏の人生にも大きな影響を与えることになる。

憧れの広告代理店。2度目の挑戦。

「狙っていたのは、電・博です。で、それがだめなら、第一企画(現アサツー ディ・ケイ)だと思っていました」。今度は、就職の話である。電通はいいところまでいった。だが、最終関門が突破できない。博報堂もしかり。「親父のいとこが、第一企画のオーナーだったんです。だから、『最後はここだ、ここなら大丈夫』と高をくくっていたんです」。
第一企画(株)は、1999年に(株)旭通信社と合併して、現在は、株式会社アサツー ディ・ケイとなっている。「ところが、親父が根回しをしていて『息子が頼みにいっても、断れ』と。親父にすれば、広告代理店みたいなのは、まっとうな職場じゃなかったんです。親父は、自分と同じようにモノづくりのメーカーに就職させたかったのでしょう」。
まだまだ古い時代である。公務員が、就職先として幅をきかせていた時代でもある。しかし、その一方で、情報化時代を迎えつつあったのも事実だろう。
敏感な学生たちは「情報」を武器とするTVや広告代理店をかっこいい職業だと認識するようになっていた。羽中田氏もその1人。「そうですね。かっこいいだろうなと思っていました。今も昔も、そういうモノサシって、あるんじゃないですか」。
最後の砦である、第一企画の叔父のもとに出向き、けんもほろろに追い返された羽中田氏は、結局、化学メーカーである日産化学工業(株)に就職する。意に反した就職だったが、「石の上にも3年」という、当時、唱えられていた言葉を守り、3年、きっかりはたらいた。3年で、呪縛が解ける。
呪縛が解けた羽中田氏は、もう一度、「第一企画」を受検する。たまたま中途採用者を募集するという情報を友人から教えてもらったからだ。2000人の応募者なかで採用されたのは、たった15人。そのなかに羽中田氏もいた。本人は「裏口入社」と笑うが、たとえ、何らかの采配があったにしろ、その後の活躍は、すべての批判を一蹴するものだ。
「もともとは、小さなクライアントだった」と羽中田氏。先輩から放り投げられた、とあるクライアントが化けた。
「電電公社です。民営化される前は、広告って言っても小さな枠しか出稿されていませんでした。それで、新人の私にお鉢がまわってきたんです。ところが、数年後に民営化されて、とんでもない出稿量となります」。
正確な数字は伏すが、第一企画のなかでもいきなりナンバー2のクライアントとなる。民営化に寄り添いサポートしたのは、羽中田氏である。それだけの仕事をやってのけたのは、まぎれもなく羽中田氏の実力といっていいだろう。
「もう、そりゃたいへんでした。1日24時間、すべて仕事です。むろん、当時の話です。交際費はいくらでも自由になりました」。今振り返れば、広告が華やかかりし時代である。金が集まり、タレントたちが集まり、広告が時代の流れをつくった時代でもある。いつしか、その先頭集団に、羽中田氏がいた。
「私が退職したのは45歳なんで、合計18年いました。45歳の誕生日の翌々日に退職届を提出したんです」。

さらば、広告。華々しき世界。

華やかな広告業界から「飲食」という地味な世界に転身した裏には、やむを得ない事情もあった。
「まだ、第一企画に在職していた頃です。大学の先輩でもある『ピザーラ』の浅野さんに『できる』と言われて、妻を代表にして、ピザーラのFCを出店するんです。大学時代の同級生『セント・リングス』の青木が、私より早くピザーラのFCを展開していまして。ともかく、話がすごいんです。月商が1000万円、2000万円にもなる、と。その事実を知っているだけに、指を加えているわけにもいかなくて(笑)」。
いつかは独立しようと思っていた羽中田氏は興味を持ち、始めてみると、これが儲かった。飲食経験ゼロ、経営経験もゼロ。それでもわずか3年で店舗数は11店舗まで膨らんだ。「順風満帆。ただし、調子に乗りました」と羽中田氏。「ピザーラ」だけではなく、「かつや」のFCも出店。こちらも儲かった。ラーメン店もしたくて、「よってこや」のFCも出店する。自らは会社の外側にいて、経営は人任せ。とにかく、いきおいに任せて出店を重ねた。ブレーキを踏む人間はだれもいない。
「報告は受けていたんです。ただ、店をみることもなく、数字だけをみて鵜呑みにしていました。ところが、ある時、経営状態の危機を知るんです」。
それが45歳の誕生日を迎える直前のことだった。原因は、すべてを人任せにしていたことだ。都合のいいように加工された数字を、すっかり信じ込んでいた。
「店舗数も、それなりにありましたし。飲食っていうのは、儲かる時もそうですが、その逆もしかりで。いったん赤字になると底が抜けたようになり、ほかの店の利益まで垂れ流すことになる。もう、放ってはいけない。だれも、やってくれないわけですから」。
どちらかと言えば、消極的な選択だった。信頼して、任すことができる人間がいれば、好きな広告代理店の仕事を辞めるという選択肢はなかったはずである。しかし、消極的か、積極的かどうかは別問題で、今や目の前に片付けなければならない問題が山積みだった。
「それまでも、いっぱしの経営者のつもりでいました。本も読み、勉強もしました。しかし、サラリーマンと経営者はぜんぜん違う。勉強して本を読んでも、それは知識なんです。本当の意味での経営力っていうのは、実践でえらいことならないと身につかない。それを思い知らされました」。
おなじような話は、いろんな「飲食の戦士たち」からも伺っている。ともかく、そういうやむを得ない状況に追い込まれ、意に反して、羽中田氏はふたたび広告の世界から、離れることになる。
・・・続き
株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏

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