2016年6月21日火曜日

勘の良さ、空気を読む力を磨く。

人の表情見てるといろんなことがわかる様になる。
つまり、勘が磨かれたり、空気が読める様になる。

個人差があるもののそれは努力すれば、誰でもできること。
だから、野球やサッカーなどスポーツとは違い、
数をこなせばこなす分努力で解決出来る!

それを若い時にやるかやらないかで大きな差が出る。
ただ、年齢やキャリアが出てくると、後輩が入りプライドが邪魔するからそうもいかないかな(笑)
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2016年6月20日月曜日

キイストンの営業マン、皆が力付けてくれてます!

今の体制になり、営業マンが力を付けてきてくれています!!
求人営業の経験者や大手企業出身からの採用もしましたが、
やはり素直で向上心ある20代の営業未経験が力を発揮してくれてます。
キイストンは昔からそうでしたが、はやり夢・希望を持った人材がいいですね!

おかげで、私も営業マンの延長からやっと違う動きがやっと出来るようになりました。
メンバー指導や戦略面もどんどんできる人材に任せて、自社内で社長を沢山輩出したい!
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2016年6月15日水曜日

6月14日、帝京大学にて“企業人交流会”で麺食の中原社長お話し頂きました。

14日、帝京大学の経済学部・磯山ゼミにて“企業人交流会”という初の試みを実施されました。
これは会社の代表の方に参加頂き、ゼミ生に働く魅力、仕事研究で、職業選択意識を身につけさせるということで、座談会形式でした。
今回限定3社だけなんで、うち1社外食業界枠を頂き、外食代表として麺食(喜多方ラーメン坂内)の中原社長にお話して頂きました。
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株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社GMS 代表取締役 田中 剛氏が登場。
本文より~

本州の北端。海の向こうは北海道。

今回、ご登場いただく株式会社GMS、代表取締役、田中剛氏は、1969年10月18日に青森県三厩村に生まれる。三厩村は、「みんまやむら」と読むそうだ。ネットで調べてみると、津軽半島の最北端に位置していた村ということである。北海道と青森を結ぶ青函トンネルが、村の地下を走っている。
「私は、兄弟5人の3男です。4人が男で、女は妹1人です。運動神経は、妹以外、みんな良くって、長男はフェンシングで割と名が通っていました。親父は、祖父の代からつづく、漁師です。青森といえばマグロが有名ですが、私が生まれた頃は、青函トンネルの工事の影響もあって、津軽半島にマグロはいなくなっていたそうです。私も、小さい時は、何度か漁に連れて行ってもらいました。当時は、イカやサメが主でした。親父は、寝る間も惜しんではたらいていました。そういう血を、私もどこかで受け継いでいるんだと思います」。
三厩村は漁業が産業の小さな村だった。小・中とも1クラス。「私らの頃は、とにかく高校出たら働くというのが、当然の選択肢でした。私も、青森山田高校に進学するんですが、卒業してすぐに『天狗』を展開する、テンアライドに就職します」。

ラグビーで、鍛えた心とからだ。

話は少し飛んだが、「青森山田」と言えば、いまや野球の名門校である。中学で野球をやり、ピッチャーで4番だった田中氏である。野球推薦か、と思ったが、そうではないらしい。「それは、いまの話でしょ。私らの時はそうじゃなかった。青森山田の生徒っていうだけで、アルバイトも断られるくらいの高校だったんです(笑)」。
中学では怖いもの知らずの田中氏だったが、さすがに怖い高校だと思っていたそうだ。「公立高校を落ちたので、就職しようと思っていたんです。でも、親父が『高校くらい行け』っていうんで、私立だったんですが、行かせてもらうことにしました」。
中学時代といっぺんして優等生になる。3年間、無遅刻無欠席。「怖いと思っていたんですが、入るとそうでもないんですね。たしかに1/3くらいは怖い人でしたが、残り2/3はバカだったんです。私も含めて(笑)」。
この高校で、田中氏はラグビーに出会っている。優等生の理由も、無遅刻無欠席の理由も、ラグビーが一枚噛んでいる。「ラグビー部の顧問に誘われてね。でも、最初はやる気もなくってサボっていたんです。1年の時は夏合宿にも参加しませんでした。ところが、合宿から帰ってきた奴らをみて、感動しちゃうんですね。みんな別人のようになっていて。格好いいな、と。それで、私も真剣にラグビーをするようになるんです」。
話は脇道にそれるが、ラグビーに偶然はない、という。それが正しいのかどうか、聞いてみた。「そうですね。偶然は、絶対ない。野球とかならピッチャーの調子が悪くて、っていうのがあると思うんですが、ラグビーは強いチームに、弱いチームが勝つなんてことはまずない。偶然がないスポーツだから、相手に勝つには、相手より強くならないといけないんです」。
猛練習をつづけたそうだ。「あの時のことを思えば、どんなことでも耐えられる」と田中氏は笑う。

料理のプロの技。

前述通り、高校を卒業した田中氏は「天狗」を展開するテンアライドに入社する。2年間、居酒屋で勤務して、もう辞めようと思ったそうだ。「それが、社長の耳に入って、居酒屋がイヤでも、中華ならいいだろうって、逆に、中華の立ち上げに誘われるんです」。
この時、田中氏は、「プロを観た」という。どういうことだろう。「中華の新事業です。それを立ち上げるために、まず四川飯店に3ヵ月修業に行きました。当時20歳くらいでした。四川飯店で勤務されていた山本さんを会社にお招きし、その下で料理を教わりました。ぜんぜん、敵わなかったです。もちろん、敵うなんて思っていたわけじゃないですが、私も2年間居酒屋で調理をしていましたから、多少はと思っていたんです。でも、山本さんの前にでると、タケノコ一つ切れないんです(笑)」。何から何まで、まさにプロの技だった。
「中華料理の値段は、コックの腕の値段だ」という話を良くされたそうだ。「『フカヒレも、そうだ。素材が、けっして高価なわけじゃない。しかし、何日もかけ食べられるようにして、味をととのえる。その時間と技が、値段になっているんだ』。そんな話です。私の力のなさを痛感するとともに、中華料理の奥深さを魅せられた時でした」。
得難い時間を得た。ふつうなら、四川飯店出身の料理人から直接指導してもらえるチャンスはそうない。しかも、田中氏は本格的に料理を習ったこともない素人同然だからなおさらだ。
指導いただいた山本氏には、感謝が尽きない。ちなみに、現在、山本氏は、田中氏の下で、一つの店を運営されている。

ラーメン店、オープンまで。

「オープンするって時に、病気がちだった親父が危ないってことで、実は、会社を辞めて青森に帰ります。でも、向こうにいたら、ぜんぜんだめで親父の見舞いにもほぼいかず昔のツレと遊んでばかりいました。でも、東京で働き詰めだったでしょ。だから仕事が習性になっていたんでしょうね。仕事をしたくなっちゃって。たまたま友達が出稼ぎに行くっていうもんですから、私もついていきました。鳶職でした。川口ジャンクションや、レインボーブリッジ。あれに少しはかかわっています」。
どこかで飲食に戻りたかった、と田中氏はいう。鳶をやりがなら、焼き鳥店でバイトをしたのは、その思いを少しでも満足させるためだった。鳶職も、結構、いい給料になった。でも、心は飲食である。そんな時、行きつけの喫茶店のマスターが、救いの糸を垂らしてくれた。
「資金を出すから、ということでラーメン店をすることになったんです。中華じゃなく、ラーメン専門店です。すぐにオープンっていうわけにもいきませんから、とりあえず、あるラーメン店でバイトを開始しました。そのあと、いろいろあって店を辞めて、トラックの運転手になります。トラックに乗ったのは日本中のラーメンを食べ歩くためでした。そうしながら、1年半くらいかけて、スープをつくりました」。 スープは豚骨。田中氏が全国のラーメンのなかで、最も旨いと思ったラーメンが「博多ラーメン」だったからだ。
「『うまかっちゃん』ってインスタントラーメンがあるでしょ。最初食べた時、あぁ、これがあの『うまかっちゃん』の本物だ、って感動して。当時は背油が主流だったんですが、私はこの博多の味で勝負しようと思ったんです。でも、博多ラーメンって麺も違うんです。だから、わざわざ博多までトラックで行って、いまもお付き合いがある製麺所まで探して。それでいよいよオープンするわけです」。
1995年11月30日、足立区に田中氏、初のラーメン店がオープンする。

・・・続き

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2016年6月8日水曜日

株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。
本文より~

酒屋の次男。

兄弟は2人。兄は良く勉強ができた。「ゲームマニアで、オタク」というのが弟である山本氏の評価。父親は、酒屋を創業。地域密着型の家族経営をつづけていた。
「まだコンビニもない時代に朝の4時や5時まで仕事をしていました。地元の人には、愛されていたと思います。父は外回り、母は、なか。2人で役割をきっちりわけていたようです。でも、朝から晩までがむしゃらに働いていたから、子どもの私たちをみられない。そういう苛立ちもあったんだと思うんですが、2人は喧嘩ばかりしていたという印象です。でも、いいパートナーだったんだと思う。私は小っちゃい頃から『母ちゃん、母ちゃん』って、母を追いかけるタイプ。肝っ玉、母ちゃんが、大好きだったんです」。
兄とは異なり、弟の山本氏は、ゲーム機器のなかではなく、グラウンドを駆けるゲームに没頭した。
「小学校からサッカーを始めるんです。高校は愛工大名電に進学します。名古屋では、強豪校の一つです」。その強豪校で、3年生の時にはキャプテンを務めている。
なんでも、1年生の時には100名いた部員が、卒業時には20名くらいになっていたそうだ。
「私の家から学校までも距離があったんですが、学校からグランドまでが片道18キロ。雨の日も自転車で学校とグランドを往復です(笑)」。
雨の日は制服までびしょ濡れ。2時30分に授業は終わり、4時にグラウンド到着。全体練習は6時までだが、その後も、練習をつづけた。帰宅は12時。ご両親もたいへんだったに違いない。
ちなみに、愛知工業大学名電高等学校、いわゆる「愛工大名電」は、野球の名門校。山本氏の言う通り、サッカーも強豪で、県大会で、ベスト4にはつねに名を連ねている。

サッカー留学?

がむしゃらに仕事をする父と母を観てきた。そんな父母を観て「かっこいい」と表現する山本氏である。山本氏自身も、仕事とは違うがサッカーに没頭する。
当時のサッカー部監督は、そんな山本氏をどうみていたのだろうか。高校3年の夏、山本氏にブラジルへのサッカー留学を勧めた。これがのちにひと波乱を巻き起こすきっかけになるのだが、この時は、夏休みの1ヵ月半のみ。
「日本とブラジルでは、戦術からして違います。いい勉強になりました。高校を卒業して、もう一度ブラジルに渡ったのは、こういう経緯もあったからです」。
高校を卒業した山本氏は、某Jリーグチームのエージェントを通して、ブラジルに渡る。しかし、そのエージェントに一杯食わされた。
「ブラジルに渡ったとたん、エージェントとの音信が不通です。騙されたんだと思ったものの、どうすることもできません。留学の費用や渡航費以外にも、父は、生活費のために400万円くらい渡していたらしいんですが、それも、これも全部パーです」。
2度目といっても、まだ18歳。ずいぶん心細かったことだろう、と思っていたが、どうも、そうではなかったようだ。想像以上に、自立している。
「留学先として予定していたクラブチームのグランドまで行って、グランドの周辺を疾走して、アピールしました。狙い通り、オーナーの目に止まり、テストを受けさせてもらって、見事、合格です。しかし、またまたエージェントの手抜きで、労働ビザが下りないことがわかったんです」。
ふたたび煮え湯を飲まされる。それでも、あきらめず留まった。
「正式なサッカーチームではプレーできないんで、ストリートサッカーもしました。相手のラフプレイで、指をぜんぶ折られたのも、この時。医者に行っても言葉が通じない。生きてくために、言葉も必死で学習しました」。
日本人も多かったのだろう。必死に生きる青年を町の人も応援した。「マサモリ」。町にでれば、いろんな人に声をかけられた。
のちに、山本氏は、あるJリーガーチームで、通訳のような仕事をするのだが、それができたのも、この時があったからだ。日本の有名な酒蔵の親戚の方と縁ができたのも、この時。「物語りですよ」と山本氏。
地球の反対側。18歳の青年は、歯を食いしばることで、様々なことを学んだのだろう。期間にしておよそ1年。とんだ波乱の人生だが、サッカーをあきらめたわけではなかった。

・・・続き

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旧山国小学校同窓会の記事が6日の京都新聞夕刊に。

今年1月23日に40年ぶりの小学校時代の同窓会、楽しかったな・・・。
記録映画を作成して頂いたことで、本当にいい想い出残してもらった。
(6/6京都新聞夕刊より)

2016年6月2日木曜日

6月2日、花研の草野社長、青山学院大学にてゼミ講義されました。

本日6月2日、花研の草野社長に、青山学院大学の総合文化政策学部・堀内ゼミにて講義して頂きました。
草野社長は、元くるまやラーメンの代表で大変苦労されましたが、今やこの花研を年商30億円規模まで成長させられました。
キイストンは学生と飲食経営者をつなぐ架け橋やってます。
より多くの学生の皆さんが少しでも飲食業界、また独立に興味を持っていただければ・・・。
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