2016年6月8日水曜日

株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マグネティックフィールド 代表取締役 山本将守氏登場。
本文より~

酒屋の次男。

兄弟は2人。兄は良く勉強ができた。「ゲームマニアで、オタク」というのが弟である山本氏の評価。父親は、酒屋を創業。地域密着型の家族経営をつづけていた。
「まだコンビニもない時代に朝の4時や5時まで仕事をしていました。地元の人には、愛されていたと思います。父は外回り、母は、なか。2人で役割をきっちりわけていたようです。でも、朝から晩までがむしゃらに働いていたから、子どもの私たちをみられない。そういう苛立ちもあったんだと思うんですが、2人は喧嘩ばかりしていたという印象です。でも、いいパートナーだったんだと思う。私は小っちゃい頃から『母ちゃん、母ちゃん』って、母を追いかけるタイプ。肝っ玉、母ちゃんが、大好きだったんです」。
兄とは異なり、弟の山本氏は、ゲーム機器のなかではなく、グラウンドを駆けるゲームに没頭した。
「小学校からサッカーを始めるんです。高校は愛工大名電に進学します。名古屋では、強豪校の一つです」。その強豪校で、3年生の時にはキャプテンを務めている。
なんでも、1年生の時には100名いた部員が、卒業時には20名くらいになっていたそうだ。
「私の家から学校までも距離があったんですが、学校からグランドまでが片道18キロ。雨の日も自転車で学校とグランドを往復です(笑)」。
雨の日は制服までびしょ濡れ。2時30分に授業は終わり、4時にグラウンド到着。全体練習は6時までだが、その後も、練習をつづけた。帰宅は12時。ご両親もたいへんだったに違いない。
ちなみに、愛知工業大学名電高等学校、いわゆる「愛工大名電」は、野球の名門校。山本氏の言う通り、サッカーも強豪で、県大会で、ベスト4にはつねに名を連ねている。

サッカー留学?

がむしゃらに仕事をする父と母を観てきた。そんな父母を観て「かっこいい」と表現する山本氏である。山本氏自身も、仕事とは違うがサッカーに没頭する。
当時のサッカー部監督は、そんな山本氏をどうみていたのだろうか。高校3年の夏、山本氏にブラジルへのサッカー留学を勧めた。これがのちにひと波乱を巻き起こすきっかけになるのだが、この時は、夏休みの1ヵ月半のみ。
「日本とブラジルでは、戦術からして違います。いい勉強になりました。高校を卒業して、もう一度ブラジルに渡ったのは、こういう経緯もあったからです」。
高校を卒業した山本氏は、某Jリーグチームのエージェントを通して、ブラジルに渡る。しかし、そのエージェントに一杯食わされた。
「ブラジルに渡ったとたん、エージェントとの音信が不通です。騙されたんだと思ったものの、どうすることもできません。留学の費用や渡航費以外にも、父は、生活費のために400万円くらい渡していたらしいんですが、それも、これも全部パーです」。
2度目といっても、まだ18歳。ずいぶん心細かったことだろう、と思っていたが、どうも、そうではなかったようだ。想像以上に、自立している。
「留学先として予定していたクラブチームのグランドまで行って、グランドの周辺を疾走して、アピールしました。狙い通り、オーナーの目に止まり、テストを受けさせてもらって、見事、合格です。しかし、またまたエージェントの手抜きで、労働ビザが下りないことがわかったんです」。
ふたたび煮え湯を飲まされる。それでも、あきらめず留まった。
「正式なサッカーチームではプレーできないんで、ストリートサッカーもしました。相手のラフプレイで、指をぜんぶ折られたのも、この時。医者に行っても言葉が通じない。生きてくために、言葉も必死で学習しました」。
日本人も多かったのだろう。必死に生きる青年を町の人も応援した。「マサモリ」。町にでれば、いろんな人に声をかけられた。
のちに、山本氏は、あるJリーガーチームで、通訳のような仕事をするのだが、それができたのも、この時があったからだ。日本の有名な酒蔵の親戚の方と縁ができたのも、この時。「物語りですよ」と山本氏。
地球の反対側。18歳の青年は、歯を食いしばることで、様々なことを学んだのだろう。期間にしておよそ1年。とんだ波乱の人生だが、サッカーをあきらめたわけではなかった。

・・・続き

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