2016年3月8日火曜日

3月8日発行の日刊ゲンダイに「TSコーポレーション」の徳山哲大社長の記事が取り上げられました!

京都初!熟成肉専門店「听」(ポンド)を運営されている「TSコーポレーション」の徳山哲大社長の記事が3月8日(火)掲載の日刊ゲンダイに取り上げられました!
徳山哲大社長、現在38歳でこの2年で20店舗を、この3年で30店舗・計50店舗出店を計画!!
(「TSコーポレーション」の徳山哲大社長)
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株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏登場
本文より~

高校1年、秋までの話。

2歳の時に茨城に引っ越したから、記憶にあるのは、茨城の風景。だから、「茨城出身」と言っている。父は、主に試作品を手がける板金工場を経営されていた。業績は悪くない。特に、バブルの頃は相当に儲かったはずだ。
時吉氏は、子どもの頃からスポーツが得意で、小学校からはじめた剣道では群を抜いていた。高校からもオファーがあったというから、相当な手練れだったのだろう。
「公立高校ですが、推薦をいただきました。無条件ではなく、『形だけでいいから、試験を受けてくれ』ということでした。私は、合格するもんだと思っていますから、ろくに勉強もにせず、受験。フラリと試験会場に入り、適当に答案を埋め、試験終了です(笑)」。
時吉氏の予測は甘かった。おなじ剣道部から数人受験し、絶対案パイだった時吉氏がなぜか落ちた。
「いま思えば態度がちょっとよくなかったんでしょうね。ズボンも心持ち太かったし…」と言って、時吉氏は笑う。
しかし、当時は、真っ暗な思いだったのではないだろうか。剣道の強豪校に入る。進学より、そちらが大事だったと思っていたはずだから。時吉氏も「人生初の挫折」と言っている。
公立の強豪校に袖にされた時吉氏は、私立高校に進学。こちらでも剣道部に入ったが、入部2ヵ月ほどでリタイアしてしまった。
「ぜんぜん相手にならなかったんです。3年生が1年生に簡単にやられてしまう。つまんなくて…」。
目標を失ったというより、スイッチが入らなかったのだろう。
「それから、ふらふらするんですが、いままでスポーツをずっとやってきたでしょ。どこかで、『このままじゃいけない』という思いがあって。それで、ヨット部に入るんです」。
それが、高校1年、秋の頃の話である。

波に乗れない、ヨット部員の話。

レスリングか、ヨットかで迷った。どちらも、強豪だったから。
「レスリング部はごっつい奴ばっかりで、ちょっとこわかったんです。で、消去法で、ヨット部にするか、と思っていたら、偶然、ヨット部の顧問に呼び止められたんです。廊下で」。
それが一つの縁ともなって、ヨット部に入部。当時のヨット部は、国体、インターハイの常連校だったそうである。
「湖でぷかぷか浮いて気持ち良さそうだった」と時吉氏は、ヨット部の様子を語っている。しかし、時吉氏自身は、入部早々、停学処分を食らってしまった。
2週間の停学。停学が解けて、登校した時吉氏の頭は、五厘刈り。再スタートの決意を髪型で示した。たしかに、それから2年ちかく、問題は起こさなかったが、3年になり、ふたたび停学となる。バイクに乗っているのが、学校側にバレてしまったそうだ。
本人は、知らなかったが、この時の職員会議は、紛糾。「退学」という意見も出たそうだ。
「これはあとから聞いた話なんですが、そのとき、うちの顧問が体をはって私を守ってくれたそうなんです。『あいつは大丈夫だ。責任はオレが持つ』というようなことだったんでしょうね。それを聞いて、スイッチが入ったんです」。
それまでヨット部にいても、ただただ湖に浮いているだけ。大会にも特別、興味がなかった。
「しかし、あのときは間違いなくスイッチが入りました。私を救ってくれた先生に対して、このままでは申し訳ない、と」。
体をはって引き留めてくれた教師を、まぬけな教師にするわけにはいかなった。「インターハイはもう終わっていたんですが、国体が残っていた。国体まで3ヵ月。もう、やるしかないでしょ」。
部にいても、波に乗れず、ただいるだけだった部員が、猛練習を開始する。
「退学させるべきだ」と主張した教師たちは唖然としたことだろう。時吉氏の思いを知って、「あいつを国体へ」と、思いがけず仲間たちもちからを合わせサポートしてくれた。
とはいえ、たった3ヵ月。いくら運動神経に恵まれた時吉氏といえども、簡単に出場できるほど甘い世界ではない。
「ところが奇跡が起こったんです。茨城で1位になり、国体に選ばれたんです」。
いまもその時のことは忘れていない。
初めて知った仲間のありがたさも含めて。

・・・続き

株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏
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株式会社スタイルスグループ 代表取締役 佐々木浩史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社スタイルスグループ 代表取締役 佐々木浩史氏登場。
本文より~

野球少年が、高校を卒業するまでの話。

今回、ご登場いただいた(株)スタイルスグループの代表取締役、佐々木浩史氏が生まれたのは、1961年。出身地は、宮城県石巻である。「近所でも有名なくらい怖い人だった」という父は、大手製紙会社のサラリーマン。兄弟は、6つ下に弟がいた。
「小学校の頃から野球が好きだったんですが、頑張り過ぎて肩を壊してしまって。だから、中学では水泳などをしていました。音楽に興味を持ち始めたのも、中学生の頃です」。
小学校の頃は、クラスの人気者。中学では、やんちゃな仲間とも付き合った。
「石巻って、漁師の町でしょ。やんちゃな奴が多いんです。中学卒業の時に、そいつらといっしょに水産高校に進もうとしたんです。ですが、うちは父が漁師でもなんでもない。まして、漁師になる気もなかった。それを担任の先生にズバリ指摘されて引き留められました(笑)」。
引き留められて、無事、普通科の高校に進学したというのだが、進んだのは県下でも有名な進学校だった。
高校ではふたたび野球を開始。しかし、途中で辞めてしまう。それが「人生で唯一の悔いだ」という。
「怪我がもとで、辞めることになったんですが、顧問の先生からは裏方でつづけないかと誘ってもらったんです。あの頃は、そういうのが受け入れられなかった。野球が好きなのにね。だから、のちに応援部に入りました。少しでも野球に関わっていたかったからです」。
ちなみに、現在、佐々木氏の、仙台にある店には野球関係者も多く来店する。楽天の関係者はもちろん、大学や高校の野球部監督や顧問もいらっしゃるそうだ。野球が好きという気持ちが通い合うのかもいれない。

ディスコの花形職種、DJ。

怖い親父のもとから逃げ出すように、佐々木氏は仙台の大学に進んだ。しかし、進学したものの、キャンパスライフとは無縁だったそうだ。
「当時、ディスコがブームだったんです。アルバイトで生活費をねん出しなければいけなかったんで、ディスコでDJのバイトをしていました。そう、1年の時からです」。
佐々木氏が大学1年といえば、ちょうど1980年。日本全体がバブルの坂を駆け上がる頃だ。その当時の日本を象徴するものの一つが、ディスコだろう。連日、連夜、若い男女が押し寄せ、黒服というボーイは、女性にチヤホヤされ、DJは、その上をいった。言うならば、花形職種である。
「元々は、ボーイだったんですが、たまたまチャンスがあってDJになることができました。元々、音楽が好きで、当時、昼間は、アーティストのプロモーションのバイトをしていました。そういうのも、評価されたんだと思います」。
佐々木氏によると、当時、札幌、仙台、新宿は、音楽の流行りを先取りするベスト3の街だったそうだ。つまり、仙台で流行れば、勝ち組になれる。昼、夜となく、佐々木氏に注文があつまる。
「あの当時、DJの仕事だけで給料が50万円あった。大学の新卒がまだ14、5万円の時に、です。そりゃ、勘違いします。簡単にいえば、世の中をなめたガキでした」。
なんとなく、想像もつく。
「ディスコではハーレム状態だった」とも語っている。

好きなことをして、生きていく。それが人生の価値だ。

「私は、新卒で就職していないんです。仲間の多くは、大手の会社に就職していきましたが、私は関心がなかった。鎖につながれるのがイヤだったんです。給料をもらうために、したくもない仕事をつづける、そういうのが信じられなかったし、イメージできない。DJのバイトだけで、新卒の初任給の何倍もあったのも無関係ではなかったんだと思いますが、とにかく、好きなことをやって生きていこうと思っていた。また、そうできると、信じていたんです」。
大学卒業後も、昼間は音楽のプロモーション、夜はDJのバイトに明け暮れた。
「当時は、いま大物と言われているアーティストも、まだ駆け出しの時代です。仕事で何度か接した人も多いので、まぁ、あれから、すごくなったけど、そんなに距離が離れているとは思いません。矢沢さんなんかは、当時から別格でしたが(笑)」。
好きなことをして、生きていく。それが、佐々木氏の生き様。
「当時、仲間に『仙台でくすぶっていないで、東京に行こう』って誘われたことがありました。でも、私は、仙台が良かった。『東京に行かないで、オレは仙台でいちばんになる』って言ったんです」。
「仙台でいちばんになる」。これもまた佐々木氏の人生の背骨を貫く目標となる。
まだ、青く、好きに生きることの難しさを知らない時代でもあった。

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2016年3月6日日曜日

3月、爆発しそうな予感。

3月はネタがかなり増えています。

最強の営業組織にするため営業マンの底上げしてますが、本当に昨年までとは全く違います。
皆が力付けてます。
次の段階として営業マンから営業リーダーとしての器、また戦略・戦術の考えられる人材になってもらう様に徐々にやっては見せ、話してはやらせ、外部の方から日々教えてもらっています。
やはり、チームを強くするには人材の資質は大きいです。
人にはそれぞれの持ち味ありますから活かすべきですが、少なくても上に立つ人材の能力が低いと組織の力は大幅に落ちます。
この数年でそれ改めて実感してます。

とにかく勝ちクセ付けさせ、最強の営業組織を早く構築したい。
本当にキイストン採用している20代はもともと営業未経験が多いので、変なプライドや固定概念がないので成長早いです。
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2016年3月1日火曜日

株式会社クリエイティブプレイス 代表取締役社長 中村雄斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社クリエイティブプレイス 代表取締役社長 中村雄斗氏登場。
本文より~

3年数ヵ月で、注目企業に成長。

記事作成のためインタビューさせていただいた時点で、店舗数は、10店舗。しかし、設立からまだ3年と数ヵ月と日は浅い。
設立からの軌跡を追いかけてみる。
2012年3月、株式会社クリエイティブプレイス、設立。同年7月に1号店「美食かほりや」新橋店OPEN。翌年8月に「和酒旬菜創魚ととのえ」新橋店がOPENし、2014年には拍車をかけるかのように3月、7月、9月、10月と4店舗をOPEN。2015年にもすでに4店舗のOPENを実現している。
何らかのバックボーンがあるわけではない。豊富な資本も、経験もない。ある一つのことをのぞけば、文字通りゼロからのスタートだった。
結果だけをみれば、「風雲児」。そう言えなくもない。
まだ、28歳。可能性も、でかい。今回は、そんな風雲児、株式会社クリエイティブプレイスの中村氏にご登場いただいた。

サッカー、小僧。めざすは、Jリーガー。

中村氏は、1987年6月25日生まれである。出身は宮城県仙台市。父親は国土交通省の役人。兄弟は3人。中村氏が長男である。
「もっぱらサッカーに育ててもらった」という。5歳からサッカーを始め、すぐに熱中した。
小学生、中学生時代は「ジェフ市原」のジュニア、ジュニアユースで過ごす。県大会ベスト4になった中学生時代は、キャプテンを務めていた。
練習に明け暮れる一方、勉強にはまったく興味がなかったが、それでも校内の成績はつねにトップだった。「5教科で、480点を下回ったことはない」というから、驚きだ。
頭脳も明晰。高校は、学区内でトップ校と言われていた仙台一高に進む。偏差値68。高校でも中村氏は、クラブチームを選択。「塩釜FC」に所属する。1年生から試合に出場していたというから、これにも驚かされる。しかも、中村氏が、1年生の時のチームは全国大会にも出場するほど、選手がそろっていた時期である。むろん、中村氏も全国大会でピッチをかけた。しかし、全国大会後、試合に出られない日々があって、悔しさから朝起きて練習を始めた時期でもある。「あの頃は、365日のうち、350日くらい練習していたイメージです」。
めざすのは、言うまでもなく「Jリーガー」だった。

サッカー選手から、路上でのキャッチへ。

大学は、「日本大学」の経済学部。卒業はしているが、大半は「キャッチ」のバイトで明け暮れた。
サッカーはどうしたんだろう。
「実は、大学1年の時、体育会のサッカー部を1ヵ月で辞めてしまいました。何だかんだと理由をつけていましたが、早い話、遊びたかったんだと思います(笑)」。
小さな頃からプロをめざしていた。ところが、高校時代になると目標が「プロではなく全国大会に置きかわった」そうだ。中村氏は、そうとは言っていないが、「プロ」というゴールがなくなったことが、サッカーを離れるきっかけだったかもしれない。
ともあれ、Jリーガーへ進むだろう話は、「キャッチ」の話に方向転換されるに至る。
「歌舞伎町で、居酒屋のキャッチをしていました。最初は、ホールだったんですが、『キャッチのほうが金になる』ということで始めたんです」。
1年生の時から計4年、「キャッチ」生活はつづく。「いちばんいい月で100万円くらいでした。ふつうは、40万円くらいかな」。
駆け出しのサラリーマンよりずっといい。親に金額を白状すると、「仕送りを打ち切られた」そうだ。
時間は1日4時間くらいで、月15~16日勤務。効率もいい。「この時、いまの副社長の今津に出会ったんです。店は違いましたが、2人ともキャッチで」。
意気投合したのだろう。「キャッチ」を辞めてからも、友好はつづいた。

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株式会社クリエイティブプレイス 代表取締役社長 中村雄斗氏
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2016年2月27日土曜日

1月に入社した新戦力、かなり化けるかも…。

1月から新たな営業戦力が加わり、約2ヶ月経ちましたが、一つ一つの仕事ぶり見てますが、大化けしてくれる予感します。
大きな目標掲げ、社会的にも認められるほどの夢描いてくれてたら、やってくれるかも。

ここに来て、ほんと営業組織はいい人材が揃ってきました。
しかも営業全員20代、もう彼らの時代ですから、楽しみ!!


2016年2月23日火曜日

鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。
本文より~

料理人の道を歩み始めるまでの話。

吉田 純一氏が生まれたのは、1973年8月21日。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。

ヨーロッパの研修旅行で見つけた目標。

料理人を志すと決めた吉田氏は、服部栄養専門学校に進んでいる。1年制の学校である。思い出は、ヨーロッパの研修旅行。その当時はサンテチェンヌにあった「ピエール・ガニェールは、心底凄いと思った」と当時のことを振り返る。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。

ニューオータニ時代。

「恵まれていたと思います」と吉田氏。オープンしたばかりのホテルだったこともあって、ニューオータニでもトップの料理人たちが揃っていたこと。そして、調理をすぐにやらせてもらったことと、その理由を語る。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。

・・・続き

鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏
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