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2024年6月21日金曜日

株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏登場。

本文より~

男ばかりの7人兄弟。優秀な兄たちに抱いた異常なほどの劣等感。

「17歳のときに生まれた町を離れて、愛知県の豊田市に来たことがきっかけになりました。ただ、具体的な目的もなく、飲食業で働くなど考えもせず豊田市に来た、と言うか、田舎から逃げ出したんです」。
そう語るのは、愛知県豊田市を中心に、担担麺と麻婆豆腐の店『虎玄』、鶏白湯SOBAとよだれ鶏の店『虎舎』など5業態7店舗を運営する株式会社セブンズハートを率いる代表取締役・鈴木利哉氏だ。
「野球チームができるほどの大家族で育ちました。母親以外、父親はもちろん7人の子ども全員が男の子ですから合計9人。長男から七男までの年齢差は11歳、ボクは下から2番目の6男、長男とは9歳違いです」。
「祖父が現役の頃まではそれなりに裕福な家庭でした。が、人様(ひとさま)に話すほどのことではありませんが、祖父が亡くなってから生活が苦しくなり貧しくなってしまいました。なにせ育ちざかりの男の子ばかりの家庭でしたから、食べるにも事欠きました」。
「兄弟喧嘩は頻繁でしたし、食事なんかは取り合いでしたね。早く食べないと取られてしまうので必然的に早食いになってしまいました。着るものは、おさがりが当たり前でしたが、それが普通だと……。一方では兄弟が多かったことで、競争心とか闘争心が身に付いたとは思いますが……」。
「実は中学校1年生までの記憶が、ほとんどないんです。よほど何か蓋をしたい過去があったのかもしれません(笑)。兄たちは全員が成績優秀でしたが、反発したのか反骨精神だったのか、自然と劣等感を抱くようになりました。高校へは行きたくないというのが本音でしたが、兄たちがすべて進学していることもあり、行きたくないとは言い出せず地元ではなく、ふたつ隣町の高校に進みました」。
「決して良い子ではなかったこともあり親には心配も苦労も掛けました。そのうえ、無理をして高校へ行かせてくれた両親には申し訳なかったですが、続けていく気力もなく、結局は1年半、2年生のときに退学しました」。
高校中退といえば17歳。鈴木氏はまだ、自身の将来に“無限の可能性を秘めた世界”が広がっていることに気づかずにいた。

故郷を離れ、小さな町工場で学んだ“世間”。

「中退した当時、先のことは何も考えてはいませんでした。たまたまですが、懇意にしていた先輩が豊田市に居て、豊田に来い」と言われ、その先輩が働いている会社の関連会社を紹介してくれた。その会社は社長と工場長、そして新人で未経験の鈴木氏の3人だけの小さな町工場で、自動車部品などの金型を製造する会社だった。採用が決まった鈴木氏は段ボールひと箱の荷物と布団一式を持って故郷を後に、豊田市へ向かった。
「出発の日でしたけれど、母親が父親には内緒で10000円札1枚渡してくれ、“頑張っておいで”と送り出してくれました」。子を想う母の気持ちが伝わる。
「仕事はきつかったですね。まず、週休2日ではありませんでしたし、仕事に追われる毎日でしたね。労働時間も長くて月曜日と土曜日は定時の17時まででしたが残りの曜日は、毎日、深夜0時まで。納期前は徹夜になることが頻繁にありました」。
―月の残業時間は、どれくらいでした?
「120~130時間くらいでしたか。今では考えられませんよね」。
―収入は?
「13~14万円くらいでした。しかも正社員ながら時給制で、時給350円くらい。(当時の愛知県の最低賃金は550円)ただ、子どもだったのか世間を知らなかったのか、13万円が適正なのか低賃金なのか、分かりませんでした」。
「我慢しながらも働いていたのですが、月日が経つにつれ“世間”を知るようになりました。自分の置かれている環境に理不尽なものを感じました」。
―それで?
「約2年半、勤めましたが結局は辞め、内装会社に転職しました。2社ほど内装関係の会社に勤めたのですが、両社合わせて1年も居なかったですね。その後は、工場に人を派遣する人材派遣会社で2年ほど勤めました。飲食業と出会ったのはこの時代ですね」。

飲食業に出会う。独立に繋がる第一歩を踏み出す。

友人から紹介された、後に鈴木氏の師となる人物が経営する居酒屋で働くことになった。
「話を順に整理すると、こういうことです」。
「まず、友人から居酒屋を開業する社長を紹介され、その居酒屋を手伝って欲しい」と言われたが、別の知人がその一カ月後に新規にスナックを開く予定が有り、僕はそこで働くことが決まっていましたので、それまでの間なら」ということで、一か月の約束で居酒屋に勤めました。この居酒屋、オープンから間もなく大繁盛店になったんですよ。そして一カ月後、役割を果たし居酒屋を辞めてスナックで働くことになった、というのが流れですね。当時、21歳でした」。
約2年間勤め23歳になった鈴木氏は、一ヶ月間手伝った前出の居酒屋の会社に戻り正式入社。その後この会社は名古屋市や岐阜市などで大型店など21店舗を運営し、上場を目前まで成長した活力のある企業になった。
  「上場を目指しているという理由だけではなく、懸命に働きました。ただ、上場準備で慌ただしく忙しかったですね。出店が相次ぎ、収益が順調に拡大したというよりひたすら店舗を増やす、売上拡大を図る、言葉を変えれば膨張でした」。
上場を目指している一方で、社内には不都合なことが起きていた。
「上司の不正ですよね。見るに見かねて内部告発しました。その結果、従業員が辞めたり、多くの店舗を立て続けに撤退したり、社長に叱責されるなど辛い日々が続きました。35歳から36歳の頃のことですが、このときがいちばん辛く、心労に耐えられなくなっていました」。
「こうした出来事から3年間は働きました。ここで辞めたら費やした時間、積み重ねた経験が無(む)になると思い、しがみついて頑張りました」。
「最終的には辞表を提出したのですが、即、辞めることはできず、“最後に1店舗だけ手伝ってくれ”と言われ、それから何と、2年間働き続けることになりました。その店はレストランバーだったのですが……」。
ところが着任したのはよかったものの、店長と副店長はすでに辞めることが決まっていたようで、鈴木氏にしてみれば“ハメられた!”に近い状況に陥ってしまった。
「しかも売上などもかなり酷い状況でボロボロでしたが、文句を言っても始まらないので、とにかく仕事に邁進、その後V字回復することができました」。
自信を取り戻した鈴木氏は、再チャレンジを決意。
「売上を回復した店舗を買い取らせて欲しいと申し出たのですが、見事に却下。そこで独立することを決めたんです」。
売上実績があり認知度のある店舗を買い取ったとすれば、買い取り後のスタート時点ですでに優位だったろうし、違った人生があったのかも知れない。逆に却下されたことが次の道を拓くことにも繋がったとも考えられる。
勤めていた店がレストランバーだった経験を生かし、(今で言う)コンセプトレストランを開こうと思ったのだが、無情なことに手元に資金がなく、そこで鈴木氏は決断した。
「レストラン開業の為に、先ずは開業コストの低いラーメン屋で資金を作ろう!」。

・・・続き
株式会社セブンズハート 代表取締役 鈴木利哉氏

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2018年2月6日火曜日

株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。
本文より~

孤独な少年。

4歳の時に、両親が離婚。その時の記憶はまだ鮮明だ。それ以来、育ての親は、祖父と祖母だった。祖父からもぶん殴られて育った。「父からも、好かれてはいなかった」という。
4歳から剣道を習った。全国大会出場の常連になる。中野区の大会では優勝は、いつも山本氏のものだった。いまも中野区では名前が残っているそうだ。「認められたかったんだったと思う」と山本氏はもらす。
2つ違いの兄と比べられたことも少なくない。「お小遣いも、明らかに違った」と笑う。いま思えば、それらすべてがバネになった。
中・高は、ケンカの日々だった。目立っていたのだろう。なにがあっても、山本氏が原因と決めつけられた。
「私にとって、祖父が大きなカベでした。いつか超えてやると思っていました。どうしてでしょうね。たぶん理不尽だったんです。たとえば私が、剣道でいくら優勝してもぜんぜん認めてくれない。そういうことに対して、反抗していたんだと思います」。
心のなかに、いつもモヤモヤと何かがくすぶっていた。
高校を卒業してからは、外国語の専門学校に進んだ。昔から英語が得意で、商社で勤務しようと思っていたからだ。ただ、道は違う方向につながっていた。

結婚を転機に、無謀なチャレンジを開始する。

「18歳からサーフィンを始めたんです。これが、楽しくて、そちらが主になっちゃうんです。サーファーなのにサラリーマンのヘアスタイルっていうのは、どうかなって(笑)。それで、当時、バイトをしていた内装業者に、そのまま就職することにしました」。
商社と内装業者。失礼な話だが、まるで異なる職業だ。「でも、若い時って、そんなもんでしょ」と山本氏。選択が間違っていたという思いはないようだ。
「ただ、しばらくして転職します。小さな会社だったもんですから。22歳の時に、規模の大きなゼネコンに移りました」。
職人をつづけながら、「監理」の仕事もするようになった。給料は悪くなかった。その一方で、サーフィンはつづけた。サーフィンをするために、海外まで出かけたことがある。
「あの頃、頭のなかはサーフィンのことで埋め尽くされていました。でも、どこかで、こういう生活をつづけていてはいけないなと思ってもいたんです。そんなときに、ひとりの女性と知り合いました」。
それがいまの奥様だ。
ふつう結婚ともなれば、そうそう転職はできない。しかし、山本氏は、真剣に仕事をするために、もう一度ステージを回転させた。
無謀といえば無謀だろう。山本氏が選んだのは、ラーメン。むろん、料理の経験はない。真っ白な素人である。

逃げ出さなかったのは、それだけラーメンに惹かれたからかもしれない。

それから山本氏は4年半に亘り、永福町にある、都内でも、最もきびしいと評判のラーメン店で勤務する。
「ラーメンが好きだったんです。真剣に仕事に打ち込むなら、これだと。いくつかあるなかで、最高の一杯だったラーメン店の門を叩きます」。
面接はなんと7回を数えたそうだ。
「それくらいは、当然の店です。だって、みられているのは、根性だけですから」。
休みは、ない。
「月に3日。休みがあるにはあったんです。でも、休みの日も『4~5時間は、はたらくもんだ』と言われて」。むろん、拘束時間は長い。1日15時間。
新婚なのに、山本氏が、妻と過ごす時間は限られていた。しかも、自宅でも、山本氏はラーメンをつくった。食材を調べては、新たな味の掛け合わせを追求する。奥様とはすれ違いの日々。一心不乱にラーメンづくりに没頭する山本氏をみて、奥様はどう思われていたんだろう。
「きつかったですね。あの頃は相当。私もだし、女房も」。いつのまにか、食卓には、離婚届がおかれるようになっていたそうである。
「どうしてでしょうね。あの頃は、根性だけはだれにも負けないと思っていたもんですから、折れることができなかったんです。それに、結婚して、逃げ道もなかった。だから、やるしかなかったし、ラーメンが、それだけ私を惹きつけたとも言えるじゃないでしょうか」。
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2017年1月5日木曜日

神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏登場。
本文より~

父は腕のいい寿司職人。

黒須氏は、1964年1月10日、新潟市に生まれる。3歳下の妹との2人兄妹。
「小学校の頃は好き放題です。勉強なんてしたことがない。両親も忙しかったから何も言いませんでした」。
黒須氏の父親はもと塗装工。塗装工から転職し、黒須氏が生まれた頃にはすでに寿司店を経営される腕のいい寿司職人だった。
「最初は、駅前にあるカウンター数席と小上がり一つの小さなお店でした。それから私が小学3年生の時に駅裏に店舗兼自宅を構え、店も大きくなりました」。
「中学は水泳部でした。受験の進路指導では、中学の先生から父親の家業を継ぐんだろとハナからサジを投げられた格好でした」。
小学校でも、中学でも、高校でも、好き放題。バイクにも早くから乗った。
「友だちのバイクに乗って、帰ってきたのを親父がみて、『人さまのモノを傷つけるわけにはいかない』とバイク屋に連れていかれました」。
バイク店に行って言われた一言は、「好きなものを選べ」だった。しかも、250CCのバイクを選ぶと、「どうせ買うなら400CCだ」と、結局、400CCのバイクを購入することになった。
豪快な父親である。
「あの頃はもうかっていたんでしょうね。支払いは、なんでもキャッシュです。サラブレッドを2頭持っていました」。
サラブレッドとは、豪気な道楽だ。地方競馬だが、優勝経験もあり、愛馬といっしょに映った写真は長く実家に飾られていたそうだ。

やんちゃで、素直な少年。

「馬主になったのはいいんですが、ああいうのになると、いろんな付き合いができるんですね。うちの店は、住宅街にあったもんですから、ご近所さんにも良く利用いただいていたんです。しかし、馬主になってから友好関係が広がると、いつの間にか店の前に黒塗りのベンツが止まるようになって、常連さんが来られなくなってしまったんです。その結果、一時期、出前専門店に衣替えし、馬も、泣く泣く売ったそうです(笑)」。
ところで、父親の豪快さは、黒須氏も引き継いでいる。バイクは、通学用の50CC1台と、400CCが2台。「車は、35台乗り換えた」という黒須氏だが、その片鱗は高校時代にもうかがえる。
「高校の時は、単位がぜんぜん足りなくて。それでも、部活に入るなら『単位を保証してくれる』というので、相撲を始めました」。
相撲と聞いて、思わず唸った。格闘技のなかでも、かなり高度な部類に入る。そう簡単に巧くなるわけもない。
「まぁ、そこは、気合いです(笑)」。
黒須氏の話からは、バイクを乗り回すやんちゃな高校生をイメージしがちだが、「単位をくれるから」と、相撲部入りするなど、素直さも伺える。
ところで、黒須氏と料理、その源流はどこにあるんだろう。
「もともと親父が寿司職人だったことも大きいと思いますし、春・夏・冬と、旅行に行っては、旅館やホテルでいちばんの料理を食べさせてくれていたのも、今思えば、私の、料理の源流のような気がします。毎週、月曜日が定休日だったんですが、その日も、いつも外食でした」。
「父親から料理について教わったことはない」と黒須氏はいうが、案外、英才教育をされていたのかもしれない。
そういう意味では父親は早くから、黒須氏を料理人に仕立てようと思っていたのかもしれない。実際、黒須氏は、いくつかの大学から推薦をもらっていたそうだが、父親に反対され、結局、父親が勧める調理師学校に進んでいる。
「大学の金はださない。調理師学校ならだす、といわれて、それで初めて上京し、武蔵野調理師学校に進学したんです」。
この学校でも伝説を残している。「まだ2ヵ月くらいですか。父と母と一緒に学長さんから呼び出され、『いま辞めてくれたら、異例だが、入学金はもちろん、いままでかかったお金をぜんぶ返す』と言われました(笑)」。
なぜ、そうなったんだろう。
「まぁ、私自身は、高校時代とかわらないことをしていたんですが、みんな親元から離れているでしょ。心細いこともあって、リアクションがオーバーになっちゃったんじゃないですか」。
手を付けられない生徒。
だが、「授業は真面目に受けた」とこれは本人談である。
辞めろと言われたが、なんとか残って卒業した。「退学しても、何もすることがなかったから」というのが、本音らしい。
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神楽坂くろす 主人 黒須浩之氏
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2016年2月23日火曜日

鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏登場。
本文より~

料理人の道を歩み始めるまでの話。

吉田 純一氏が生まれたのは、1973年8月21日。
東京、東向島の出身である。父方の祖母が料亭を経営。父親も元々は板前として店を手伝われていたそうだが、吉田氏が幼少の時に公務員に転職されている。
吉田氏に子どもの頃の記憶を辿って頂いた。
「そういえば、調理場で遊んでいると親に怒られ修業中の優しい板前さんにプリンを作って貰ってよく食べていましたね。凄く美味しかったのを今でも覚えています。両親とも東京出身なので、帰る田舎がなく、里帰りしている友達が羨ましかった。小学生低学年になると、水泳を習いはじめ自宅では友達とパンケーキを作ったりしていました。小学生高学年には野球。勉強はあまり好きじゃなかった(笑)」。
高校は、鉄道系の男子校に進んだ。特別やりたいことがなかったことと、鉄道が小さい頃から好きだったから。
しかし、授業よりバイト三昧。それでも鉄道会社にはしっかり就職している。
「保線といって、路線のメンテナンスが私の仕事でした。あんまり楽しくなかったですね。下請け工事の人たちが作業をしてくれて電車が来たら指示を出して監視するだけ。定年退職を迎える前の人が私のデスクの正面にいらして、あぁ、こうはなりたくないな、と」。
それで入社1ヵ月で退職することを決意。その時、子どもの頃から好きだった「食べること」と「仕事」を初めて結びつけて考えてみた。
「会社を辞めて、漠然と料理人になりたいと思ったんです。改めて専門学校に行くため、バイトで資金を貯めながら、旨い料理店のメニューも、私なりに研究するようなことをしていました」。
ここまでが、吉田氏の人生の第一章。波乱の第二章が幕を開ける。

ヨーロッパの研修旅行で見つけた目標。

料理人を志すと決めた吉田氏は、服部栄養専門学校に進んでいる。1年制の学校である。思い出は、ヨーロッパの研修旅行。その当時はサンテチェンヌにあった「ピエール・ガニェールは、心底凄いと思った」と当時のことを振り返る。
「ピエール・ガニェール」とは、パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」のオーナー・シェフで、前衛的と評価されている料理人である。
「彼の料理は、盛り付けが立体的なんです。そのうえ皿の淵に至るまで全てが計算され、完成されていました」。
この出会いがあり、西洋料理への憧れが増す。
「しかし、当時の日本はバブルが弾けたところで、行きたいと思ったホテルニューオータニに就職できませんでした。知り合いから、ホテルニューオ―タニ幕張のオープン情報を聞いて、もう1年専門学校で勉強して受験してみようと思ったんです」。
もう一度、専門学校の門を叩く。進んだのは「華調理師専門学校」である。
「目標ができたことで、熱が入った」と吉田氏。
「1番になる」、その思いが形になったのは卒業コンテストでのこと。「1年制、2年制合同の卒業コンテストがあったんですが、そこで最優秀賞の理事長賞をいただきました。大きな自信になったことはいうまでもありません」。
念願の「ホテルニューオータニ」。倍率は15倍以上で、調理の枠は3人しかなかった。その狭き門を潜り抜けた。吉田氏の「ニューオータニ」時代がスタートする。

ニューオータニ時代。

「恵まれていたと思います」と吉田氏。オープンしたばかりのホテルだったこともあって、ニューオータニでもトップの料理人たちが揃っていたこと。そして、調理をすぐにやらせてもらったことと、その理由を語る。
配属されたのは、イタリアンコンチネンタルのメインダイニング。シェフは当時ミシュラン三ツ星の『トゥールダルジャン』で経験されたニューオータニ全体でも3本の指に入る凄腕の持ち主でフランス語やイタリア語なども流暢に話せるシェフだった。またホテル総料理長から「鉄は熱いうちに打て。1日1個でも覚えれば1年で365個覚えられる」と教えられた。
結局、ニューオータニ時代は5年間に及ぶ。逃げ出したいと思ったこともあったが、実行に移す余裕すら無いほど忙しかったそうだ。
「実は、入社して1ヵ月で、入院してしまいました。焦りました。休んでいると同期と差が付くと思っていましたから。何度も、退院すると言って先生を困らせました」。
また、入院時は、怖かった先輩たちも心配しに駆けつけてくれた。その時は、涙が出るほど嬉しかった。
退院すると翌日には店に戻った。「歩くのもままならず、最初はめまいがすることもしょっちゅうでした。それでも怠けているわけにはいきません」。
辞書を隠しつつ、フランス語のオーダーに対応した。寝る間を惜しんでフランス語のメニューを解読したのもこの頃。語学とともに、少しずつ料理人の力もついていった。
「今思えば軍隊みたいな感じでしたね。油断していると、物が飛んでくるんですが、それを避けちゃいけないんです。避けたら、怒られるから(笑)」。厳しさとある意味優しさが同居しているような感じだったのだろう。
メインダイニングからいったん、宴会のプレパレーションに異動。24歳の時に、24階の「鉄板焼」に異動する。運命が動き出した。

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鉄板焼 石垣吉田 主宰 吉田純一氏
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2014年12月24日水曜日

レストランカンテサンス/restaurant Quintessence オーナーシェフ 岸田周三氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”レストランカンテサンス/restaurant Quintessence オーナーシェフ 岸田周三氏登場。
本文より~

料理と母の笑顔と。

小学生の頃、「じゃがいものグラタン」を作った。一口食べると、料理好きの母親が相好を崩した。
ミシュラン3ツ星のフレンチレストラン「restaurant Quintessence」のオーナーシェフ岸田が料理を始めたのは、母から凄いと言われたいという想いがキッカケだった。
「母は料理学校に通っていたことがあったくらい、料理が好きで上手でした。そして、私たち兄弟にも料理を教えようとしていました。母も仕事を持っていましたから、子どもたちにも家事を手伝ってもらおうと思っていたみたいです。ある日、子どもが参加できる料理教室に私たち3人が揃って連れていかれたこともありました。母は母で子どもと一緒に好きな料理をしたい気持ちがあったんです」。
「でも男3人のうち兄2人は、全く料理に興味を示しませんでした。そのなかで、末っ子の私1人が母の思惑通りに料理好きになって、最終的に我が家のコックになりました(笑)」。
母の横で小さな少年が料理と格闘する。料理好きな母はそれだけで嬉しかったことだろう。
しかも、息子にはセンスがあった。
「料理を手伝うと母が『料理、凄い上手いじゃない。手伝ってくれてありがとね。』って良く言ってくれました。それが嬉しくて。そもそも私が料理に興味を持ったのは、母が褒めてくれたことが理由なんです」。
母から教わった料理。それは母を喜ばす手段でもあった。冒頭の「じゃがいものグラタン」も、当時の岸田が作った会心の一作である。

中学生の選択。

中学生の頃には、もう料理人になろうと決めていたそうだ。料理科がある高校に進学したのも、料理勉強の為だった。
働きたいレストランがあった。それは、最初の修業先となる志摩観光ホテルのレストラン「ラ・メール」だった。地方で成功している唯一のフランス料理店であった。
母親が「この方は凄い!」と本屋で「ラ・メール」の高橋忠之料理長の記事を探し出したのだった。岸田も直ぐに共感した。
そして、料理人の応募をする前に、味を確かめようと家族全員で押し掛けた。
「文句なしで、大変美味しかったですね。働きたい気持ちが一層強くなりました」。
岸田は、高橋氏が作る料理を食べ、心の底から魅せられた。まだ中学生の出来事である。中学生に過ぎない少年が、料理のクオリティを推し量る。才能なくして出来ないことだろう。
「ただ実際は、コネも何にもないので、夏休みに住み込みのアルバイトをしたりして顔を出していました。それで何とか就職することができたんです」。
卒業を待って、単身で店に乗り込んだ。
ところで、何故フランス料理を選んだのかも伺った。
「子どもの頃は、当然、日本人だから日本料理だと思っていたんです。でも、私の誕生日にフランス料理店に連れて行ってもらったことがありました。そこで料理はもちろんのこと、初めて外国の文化に触れたということもあり相当カルチャーショックを受けたんです。それがフランス料理を志す決め手となりました」。


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2014年10月14日火曜日

日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏登場。
本文より~

少年橋本が、スポーツカーを乗り回すようになるまで。

建築家だった父が他界したのは、橋本が9つの時。
「うちの父は、駅や老人ホームなど公共性の高い、人の役に立つ建物を好んで建てていたようです。まだ幼いこともあって鮮明な記憶はないのですが、とにかく『良く働く父』というイメージです。仕事ばかりで、ほとんど家にもいませんでした」。
2人兄弟。兄は、スポーツが好きな少年だったそう。
父親が亡くなってからも、経済的には不自由しなかった。
「母子家庭に負い目を感じたことはない」と橋本。
とはいえ、父がいる時は年4回外食に行き、旅行も年に1回は行っていたが、そういうわけにはいかなった。
「母が仕事に出ているときは、私がお米を研いだりしていました。全然、苦にはなりません。そういえば、小さな頃から手先は器用なほうで、絵を描いて賞を貰ったりもしていました」。
京都から神戸に移ったのは、小学4年生の時。母の実家が神戸のほうだったから。そのまま神戸の中学に進んだ。成績は、学年でも上位だったが、中学2年になって嫌気が差した。代わりに、車やバイクに俄然、興味を持つようになる。
当時のことを橋本は次のように語っている。
「中学2年の頃ですね。その頃はまだ成績も学年で3位くらいだったんですが、兄貴の影響もあってか、車にハマリだします。タミヤのプラモデルも相当作ったし、ラジコンも購入しました。そっちばかりに関心が向き、もう勉強するのもイヤだったし、最初は高校にも進学しないつもりだったんです」。
「ところが、兄に説得され、かろうじて高校には進学しました。進学はしたものの、学校よりアルバイトに精を出しました。とにかく、早く高校を卒業してクルマを買いたい一心だったんです。この時のアルバイトが、私と飲食との初めての出会いでした」。
アルバイト先は、中華料理店。
厨房で洗い物を担当。調理もかじった。いま思えば、調理の基礎を学んだのはこれが最初。
高校を卒業後、念願のスポーツカーを購入。「寝る間を惜しんで乗り回した」。
車に乗る。それ以外に目標はなかった。やりたいことも、特段、思い浮かばない。
ただし、車が好きだったのは事実だが、スポーツカーを乗り回したのは、目立ちたい一心だったそうだ。

給料、ガソリン代に消える。

「高校の冬休み、就職先を探しました。忙しそうな店なら働かせてくれるだろうと、ある日本料理店を覗きました。実際忙しそうだったので、事情を説明したら、そのままアルバイトをすることになりました。その流れでそちらに就職させてもらいました」。
「『師弟』という言葉と、その言葉の意味を知ったのはこの時です。店主が出勤する、それだけで店の雰囲気が一変しました。『全員が、ピシッ』となるイメージです」。
休みは月に3回。しかも、不定期。次の休みがいつかも決まっていない。それで給与は参萬円弱。
「最初に給料をもらったときに、なにか間違いではないかと恐る恐る尋ねたんですが、間違いでもなんでもなかったです。逆に、説教されました(笑)」。
  たしかに住み込みで部屋もあったし、賄もあったから、修業の身で贅沢は言えない。ただし、少なかった。愛車のガソリン代に、すべて吐き出した。
金欠になると、休みの日でも店に行って、賄を食べていたという。
なんとも健気な青年像が思い浮かんだが、橋本本人は、苦労とは思っていなかったようだ。
むしろ、周りの先輩たちに可愛がってもらえて、たいへんだと思ったことは一度もなかった、というくらいである。
しかし…、と話は続いた。
「しかし、勤めるようになって3年経った頃。高校の同窓会があったんです。そのとき、同い年の連中がどれだけ儲けているのかを知ることとなりました」。
あまりの差に唖然とした。というか、社会というものが、初めて垣間見えた。ハングリー精神が突然目覚め、咆哮をあげる。仕事に対する思いも一変した。
眼の色も変わったことだろう。
とにかく忙しい。次々に仕事をしていった。ただ、今までのように目標もなく、淡々とこなしていたのではない。
吸収できるものはすべて、吸収するつもりで仕事に臨んだ。
「当時は、観て盗めでしょ。観て、盗んで、自分で練習するしかない時代です。すぐに、難しい料理を担当できるわけでもなかったんです」。
結局、5年間働いた。偶然選んだ店だが、人生を左右する、日本料理の基礎を得る事のできた店。相当な実力が付いていた。23歳。橋本は可愛がってくれた、師匠から卒業した。
その頃には、給料も少しだけアップしていたそうである。・・・続き
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2012年4月21日土曜日

本日、4月20日の夕刊フジにギャルソン岡部一己氏。

7店舗のフランス料理店(プラス2店舗のプロデュース)を展開されているギャルソン 岡部一己(おかべかずみ)氏が夕刊フジに掲載されていた。


夕刊フジ ZT5A0099


(4月20日発行の夕刊フジ)       (ギャルソン 岡部氏)


岡部
なんとお店は、「オーグードゥジュール ヌーヴェルエール」がミシュランの1つ星を獲得(2008年版、2009年版、2010年版、2011年版、2012年版5年連続)。


「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」もミシュランの1つ星を獲得(2008年版、2009年版、2011年版、2012年版)。


「オーグードゥジュール」、「オーグードゥジュール メルヴェイユ」、「ミノビ」、「オーグードゥジュール ヌーヴェルエール」、「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」の5店舗は2012年版「ザガット」において高評価。


まさに、サービスのプロだ。


この6月には、大学で講義され、5月~6月には居酒屋を展開されている飲食企業や洋食関係の飲食企業のコンサルもされるようだ。



2009年12月3日木曜日

株式会社ピューターズ 代表取締役社長 松下義晴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ピューターズ 代表取締役社長 松下義晴氏登場。


松下
本文より~


高校卒業後は、サーフィンにハマり、そして、ついに商売にハマる。


「向こうを八時にでればだいたい10時には店に着く」と松下はいう。向こうとは、湘南の海のことだ。高校を卒業した松下は、実家の寿司屋に就職。だが、仕事より先にサーフィンにハマってしまった。だから、明け方から海に行き、台風が来ると知ると、心を高鳴らせてしまうのだった。一方、寿司屋の修行でも手は抜かなかった。「ただ、次男がやがて本格的な寿司屋へ修行に行くんですが、後で一緒に店をやるようになって弟をみているとやはり基本ができているんですね。私の場合は、実家の店で2年、親戚の店で2年修行させてもらったんですが、上の人が入れ替わったこともあって、なかなかちゃんと修行ができなかった」とも言っている。・・・・・。


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