2016年1月15日金曜日

キイストン、新人営業マンの登竜門でもある新規社長取材。

キイストンの新人営業マンの登竜門として【2週間で社長取材3社必達!!】とさせています。
昔は新人営業マンは飛び込みと名刺獲得目標決めてやらさせてました。
よく言われましたね、当時から営業効率考えたら飛び込みってムダじゃないですか?って・・・。

私は新人時代、1日400件回ってましたからまぐれで即決もありましたが、飛び込みだけで受注ってなかなか取れるものではありません。

だからこそ、お客様のありがたみを知るには新規アプローチが一番勉強になります。
現在は“飲食の戦士たち”の社長取材を3社取ることを試用期間中にさせています。

人材採用は、人生変える転職(就職)の仕事に携わっているので、その企業はどんな社長様か知ることは大事なことです。

おかげさまで、選びに選びぬいて採用したS君(27歳)、今日でその2週間最終日ですが、なんと11社(うち2社上場企業様)も取材入れてくれています。
ラスト1日、どこまで伸ばすか楽しみです。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2016年1月12日火曜日

株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にハンバーガー店BROZERS'を運営されている店株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏登場。
本文より~

ベルギーにて。

ベルギーは、ドイツ、オランダ、フランス、ルクセンブルクの4ヵ国に接している。ドーバー海峡の向こうは、イギリスである。
今回、ご登場いただく北浦氏がベルギーに渡ったのは、3歳の頃。父親の仕事の関係だったそうだ。
「父は、パイオニアに勤めるエンジニアで、この時は海外転勤です。家族4人で海を渡りました。まだ3歳でしたので、不安はなかった。向こうで10歳になるまで暮らしていましたので、逆に日本に帰る時のほうが不安だったかもしれません」。
ベルギーでは、ドイツ料理が主食だったそうで、「ソーセージやパン、ハンバーガー」を食べていたという。ベルギーの言語は、フレミッシュ(フラマン語)というらしいが、北浦氏自身は、インターナショナルスクールにいたため、もっぱら英語でコミュニケーションを取っていたそうだ。

10歳で帰国した少年の不安と葛藤。

10歳という年齢がそうさせたのだろう。ベルギーに渡った時より、母国、日本に帰国した時のほうが、馴染むのが難しかった。
「英語中心で暮らしてきたもんですから、日本語にも慣れていないし、何より向こうでは社会や理科という科目を習わないんです。習ってないと言っても、社会と理科もやらないわけにはいきませんでした」。
帰国した北浦氏は、両親の配慮もあり、英語教育が進んでいた、浦和にある私立の小学校に編入する。
当時、異国で育った北浦氏にとって日本という国はどういうふうに映ったのだろうか。10歳といえば小学4年生。帰国子女だからといって、周りの生徒たちがそれに配慮できる年齢でもないが、クラスメイトは友好的に接してくれた。
弱くてはいけないと、ヤンチャなふりをしたこともあった。帰国子女は、そうやって少しずつ日本に慣れていった。

就カツ時代。

英語ができる、それだけで優位だと思うのだが、「就職では苦労した」という。「兄は大手企業に就職したんですが、私は惨敗でした」。
 高校に進学した北浦氏は、学校もさぼりがちだったが、とにかく大学だけはと、3年から猛勉強して「獨協大学」に進学。それから4年経って、いよいよ就職という時のことである。
「そもそも就職活動に対し、漠然と疑問を感じていたんです。これからの人生の大部分を占める仕事を決めるのに、これで、いいんだろうかって。『やりたいこと』『好きだと言えること』って、なんだろうかって」。
考えれば、考えるほど迷走する。答えはいつまでたってもみつからない。ごはんもろくに食べられなくなった、そうだ。
「『みんながやるからオレもやる』はもうやめだって思ったんです」。
その時、浮かんだ言葉は、「好きなことをやっちゃえばいい」だった。魂の言葉だったと北浦氏は言っている。

逡巡の末、オーストラリアへ、行こう、と決めた。

「目的があれば、ぜんぜん違うな、そういうのを頭だけではなく、心や体で感じることができた」というのは、オーストラリアへ行くと決めた時に始めた倉庫のバイトでのことである。
それまで何をしてもなかなか続かなかった北浦氏だが、「オーストラリアへ」という目的があったことで、いままでとは、すべてが違っていた。「目的というものの、力を知った」と北浦氏は言う。
 就職活動に迷走した北浦氏は、就職せずという道を選択し、ワーキングホリデーでオーストラリアに向かうと決意したのである。
「もっと強くならなければ、というのが当時の私の思いです。将来に対する不安があるのも自身の問題だと。だから、私自身を鍛え直すためにも、海外に行こうと思ったんです」。
英語はできるといっても、渡航経験がベルギー以外にあるわけはない。シドニーの空港に降り立った時は「足がふるえて、とまらなかった」そうだ。

・・・続き

株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏
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株式会社マルリュウフードサービス 代表取締役 奥橋隆二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に関西串カツ まるりゅうを経営されている株式会社マルリュウフードサービス 代表取締役 奥橋隆二氏登場。
本文より~

父親の脱サラ宣言。

「父親は航空部品の会社に勤めていました。私が生まれたのは1982年、兄と弟の男三人兄弟。小さい頃は超人見知りで、恥ずかしがり屋。人前には絶対に出られない子でした(笑)。
いまや兄弟全員、飲食の仕事をしていますが、元々は料理に興味がなく、まさか飲食の仕事をするとは思っていませんでした」。
奥橋氏だけでなく、兄弟3人ともサッカー部に所属。スポーツは得意で「体育の授業だけは燃えた」と言って笑う。
「中学校3年生のとき体育祭実行委員長をやらされ、そこで人前に出ることの楽しさを知ったような気がします。とにかくみんでワイワイやることが好きで、イベント事は燃えていました」。
小・中とサッカーに打ち込んだ奥橋氏だったが、高校では帰宅部で、学生生活を謳歌している。進学したのは男子校で、都内の中心にある高校。「アルバイト、スノボー、スケボー、サッカー、麻雀。仲間と遊びに明け暮れた生活をしていました。いまでも、『まさかお前が経営者になるとは思わなかった』と周りから言われます。(笑)」。
やればできるはずだが、勉強は好きなほうではない。だからと言って、大学進学以外の道もない。「そうですね。最初は普通に進学だと思っていました。予備校にも通っていましたから」。ところが、高校3年生で予備校に通っている時に父親が脱サラすると言い出した。
脱サラして何をするのかという問いに、父親は「やきとり屋」と答えたそうだ。

素人ばかりで、やきとり屋オープン。

「ある店のFCに加盟しました。本部が良心的だったのでそちらに決めたそうです。場所は東横線の日吉駅で、14坪程度の小さなお店。オープン時は、私や兄はもちろん、私たちの友達をアルバイトとして採用し、『わいわい、がやがや』サークル感覚でスタートしました」。
『わいわい、がやがや』。たしかに、元気は一杯だった。しかし、父親をはじめ全員素人。料理も接客もまったくやったことがないメンバーでスタート。「本部から社長が来てくださっていましたが、ほぼ全員が素人ですから、とにかくめちゃくちゃでした」。
お客様に叱られながらも、元気と笑顔で乗り切り、次第にお客様も増え、月商300~350万くらいは売っていました。
その後、奥橋氏は2年間この店で勤務した。
「ということは?」とふってみると。
「そう、大学進学はやめました。もともと大学進学にこれといった思いもありませんでしたし、行っても無駄に遊んでいたと思います」という返答。加えて「店で働いているうちに、飲食が好きになった」。この時になんとなく、将来自分のお店を持つことを考えていたのかもしれない。

スノーボードにはまる。

「私が飲食で食べていくと決意したのは、スノーボードで食べていけないと悟ったときかもしれません」。
父のやきとり屋を卒業した奥橋氏は、趣味だったスノーボードにのめり込んでいった。
20歳の冬、新潟県にあるペンションで勤務したのも、スノーボーダーとなるためだった。かなり真剣だったことが伺える。
「住み込みで働きました。周りの奴らもみんなスキー、スノーボードのために来ていましたから、話も合うし、楽しかった。今でもいい思い出です。ですが…」。
この後、奥橋氏はニュージーランドに飛ぶ。
「しかし、ニュージーランドで現実を見ました。全然かなわないし、プロ選手でも食べていけるスポーツじゃないと知りました。そこで、完全に燃え尽き、辞めました」。
スノーボードでは先がない。なら飲食しかない。ここで決意をした。

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2016年1月5日火曜日

感謝の連続

リクルート時代の20代、よく皆であといくらで達成するのか打ち合わせしてました。
また、キイストン創業して12年くらい前もそうでした、楽しかった、あの時は…。
それがなんと今、昔のワクワクした状況になってます。
やはり、20代の夢のある人材と仕事するのは楽しい。
そんならやつらと仕事出来ることに感謝の気持ちでいっぱいです。
 
なんで、これからのキイストンは本当に楽しみ!
多くの皆さんに育ててもらったように、これからは頑張ってる次世代を育てて恩返しせねば…。

オーストラリア・シドニーでレストラン経営されている鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にオーストラリア・シドニーでレストラン経営されている鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏登場。
本文より~

混迷の先にあった父の死と挫折。

愛媛県の松山市で産声を上げた定松氏。幼少期から決して裕福な家庭では無かったが、特に不自由なく過ごしてきた。そして高校時代も順調にいくだろうと思えた。しかし、当時の学歴偏重な風潮に精神的に付いて行けず、進学クラスから落ちこぼれてしまうことになる。そんな矢先、父の薦めもあり、父の経営する鉄骨建築会社に就職することを決意した。「従業員は8人いました。気楽な気持ちで始めた仕事だったのですが、就職して直ぐに父が急死してしまったんです。ショックでした。ただ、いつまでも落ち込んでいられないと思い、父の会社を守ろうと自分が後を継ぐことにしました」。何の経験も無かったが、意気込みはあった。年若くして、一企業のオーナーとなる。
「父は会社にとっての大黒柱でした。実際、自分がトップに立ったことでどうこうなることもなく、会社の業績はどんどん悪化していきました。そしてついに閉鎖せざるを得ない状況に追い込んでしまいました。自分自身の無力さを痛感した出来事でした。」大きな求心力を失くした会社は、誰にも立て直すことは出来なかったのだった。「申し訳ない気持ちと共に、なぜできなかったのかと自分を激しく責めました。人と話す気力も無くなり、何日間も寝ずに突貫工事を行ってくれていた従業員の方々に最後の挨拶もせずに、逃げ出すようにして立ち去りました」。その家族の方々の顔を思い浮かべると強い罪悪感に襲われた。この出来事は長い間、トラウマとなって残ったという。

底で掴んだ覚悟と挑戦魂。

父を亡くし、会社は潰れ、従業員からも逃げてしまった。定松氏は、その中で一つの考えに辿り着いた。「奈落の底に落ちようが、天まで登りつめようが、どちらに転んでも自分の人生一度きり。それだったら自分の無限の可能性を信じて、登りつめられるところまで、登ってやろうじゃないかと思ったんです」と定松氏は当時を振り返る。人はそれぞれ自分の人生を歩む時、今までの自分の環境・習慣に伴った考えや他人からの言葉に流されてしまうことが多いが、この時の定松氏は違った。底に落ちたことで、逆に自分の命の尊さを認識できたのかもしれない。授かった自分の命をこんな人生で終わらせたくないと。そして、無限の可能性を信じた。日本では無く、巨大大陸国家であるオーストラリアで挑戦することを決意した。定松氏の眼には、生まれの愛媛県に似た環境でもあり、ワーキングホリデー制度のある国として最適な挑戦場に映った。

22歳。いざオーストラリアへ。

当時、オーストラリアへの片道切符は12万円。日本人の豪州観光ブームに火がつく前だった。当時、免税店が採用していた日本人は永住者が中心で、ワーホリ来豪者が仕事に就けるのは日本食レストランぐらいであった。覚悟を決めて渡ったものの、実際どこも競争率が激しく、仕事さえあればという状況だった。シドニー周辺の約200店を飛び込みで回り、仕事を探した。そんな中、鮨屋とフィッシュ&チップス店での仕事が決まった。「仕事を始められたのは良かったのですが、オーストラリア人が言うBill(請求書)とBeer(ビール)の発音の違いを聞き分けることができず、苦労したりもしました。ただどうしても現地人の中で仕事をしたかったので働きだしたのですが、一方で働いていく中、単調な作業に嫌気が差していたのも事実でした」。そんなことを考えていた矢先、理想の挑戦場が見つかった。「ブルー・トラウト・レストラン」という現地の人気レストランだった。
「そこで初めてキッチンハンドから包丁を使い、料理を作ることを学びました。少しすると昼間はお弁当屋さんを任されるようになり、いちオーナーとして家賃と人件費を払いながら6ヶ月間働きました。また、22歳まで豚肉を食べられなかったのですが、ある日、賄いでトンカツを作り、口に入れてみるとなんて美味しいことか!今までなぜ日本で食べられなかったのか、自分自身で驚きました」と笑って当時を振り返る定松氏。海外で初めて気付く、日本食の良さが分かったのだろう。しかし、働き詰めの毎日で、友人もなかなかできず、英語も上達しなかったそうだ。そうこうしているうちにワーホリ期間が到来。日本への帰国となった。「帰国して1ケ月後、現地のお持ち帰り弁当店で日本のカレーがよく売れていることを思い出したんです。そこで、カレーライスの店をオーストラリアで出店することを本格的に考え、永住権取得にとりかかりました」。そして、23歳にて再度来豪を果たし、前レストランの方々のサポートもあり永住権を取得。挑戦への準備は整った。その後、幸運にもハイアットホテルでセカンドコックをされていた方と出会い、約2年間に渡るシェフ修行をスタートさせることになる。

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鱒屋レストラングループ 代表 定松勝義氏
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「椿屋珈琲店」「ダッキーダック」等運営されている東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に「椿屋珈琲店」「ダッキーダック」等運営されている上場企業の東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏登場。
本文より~

疎開先の山梨で、生まれる。

東和フードサービスが、飲食事業に乗り出したのは、1974年。岸野氏が社長に就任してからのことである。「当時は、『マクドナルド』や『すかいら~く』が登場し、飲食に新たな風が吹いていた時代だった」と岸野氏は語る。
1号店は、わずか12坪のコーヒーハウスだったそうだ。この店が、東和フードサービスにとっても、岸野氏にとっても飲食事業の第一歩だったことは店舗の規模からも想像できる。
岸野氏が生まれたのは、1945年7月26日。本文とは関係ない話ではあるが、この日は「ポツダム宣言」が発表された日でもある。つまり、当時は戦時下で、岸野氏が生まれたのも疎開先の山梨だった。
「私は、6人兄弟の末っ子です。うちは代々、地主で都内に広い土地を持っていました。私が生まれて1年後、私たち一家は池袋に移り住みました。父は、池袋の西口でミルクホールを開きます」。
「ミルクホール」とは、いうならば喫茶店である。調べてみるとミルクホールが登場した初期(明治時代)には、その名の通り「ミルク」が主なメニューだったようだ。
ともあれ、疎開先の山梨から一転、都内の池袋に移ったわけだが、都内といっても当時は焼け野原だったにちがいない。「代々、地主といっても、いわば農家だったわけです」という岸野氏の言葉からも想像がつく。
「私が生まれた昭和20年はそうでもないのですが、2年後の昭和22年くらいから日本の人口は爆発的に増えていきます。いまでいう団塊の世代ですね。戦後間もないということもあって、当時は小学校にもいろんな事情の生徒がいました。だけど、いじめは一切なかった。ある意味、いい時代だったと思いますよ」。
小学生時代の岸野氏は、勉強もでき、スポーツもできる少年だった。スポーツはもっぱら野球。当時の少年たちの定番である。

立教三羽烏のプレーに、魅了された少年時代から、大学生になるまで。

小・中と野球に没頭した岸野氏だったが、高校生になると柔道を選択した。理由は、当時は身長が低く、野球ではなかなか芽が出なかったことに加え、兄が立教大学の柔道部にいたためだそうだ。柔道をはじめたからではないが、高校で身長は10センチも伸びた。177センチ、堂々たる体格である。同時に、心も強くたくましくなっていったに違いない。
こちらも余談だが、立教大学は池袋にある。大学もでき、岸野家がある周辺も急速に近代化していく。長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾、いわゆる「立教三羽烏」が有名になるのは、1955年~57年くらいのこと。岸野氏も彼らのプレーをみるために、何度も大学のグラウンドまで足を運んだ。
立教大学でプレーする名選手たちに惹かれた岸野氏だが、大学は立教ではなく、慶応に進んでいる。慶応ではアーチェリー部に所属。1年、浪人しているから大学を卒業したのは23歳の時。西暦、1968年のことである。

サラリーマンから、社長業に転身。

「日本経済新聞社の内定をもらっていたんです。ただし、配属が現・日経MJと聞かされたんで、辞退して日本ビクターに就職しました」。
日本ビクター株式会社の名は、いまは残っていないが、当時、日本ビクターと言えばVHSで、世界標準基準をつくった会社である。
「私が入社した当時も、業績は右肩上がり。私は、もっぱら企画畑を歩みました」。
会社も、岸野氏も順風満帆。しかし、入社5年にして岸野氏は日本ビクターを退職している。
「ちょっとしたごたごたがあってね。私が妻の会社の事業を引き継がなければならなくなったんです」。
これが社長業の始まり。
昭和49年の飲食事業スタートにもつながる背景だ。

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東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏
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