2016年1月5日火曜日

「椿屋珈琲店」「ダッキーダック」等運営されている東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「椿屋珈琲店」「ダッキーダック」等運営されている上場企業の東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏登場。
本文より~

疎開先の山梨で、生まれる。

東和フードサービスが、飲食事業に乗り出したのは、1974年。岸野氏が社長に就任してからのことである。「当時は、『マクドナルド』や『すかいら~く』が登場し、飲食に新たな風が吹いていた時代だった」と岸野氏は語る。
1号店は、わずか12坪のコーヒーハウスだったそうだ。この店が、東和フードサービスにとっても、岸野氏にとっても飲食事業の第一歩だったことは店舗の規模からも想像できる。
岸野氏が生まれたのは、1945年7月26日。本文とは関係ない話ではあるが、この日は「ポツダム宣言」が発表された日でもある。つまり、当時は戦時下で、岸野氏が生まれたのも疎開先の山梨だった。
「私は、6人兄弟の末っ子です。うちは代々、地主で都内に広い土地を持っていました。私が生まれて1年後、私たち一家は池袋に移り住みました。父は、池袋の西口でミルクホールを開きます」。
「ミルクホール」とは、いうならば喫茶店である。調べてみるとミルクホールが登場した初期(明治時代)には、その名の通り「ミルク」が主なメニューだったようだ。
ともあれ、疎開先の山梨から一転、都内の池袋に移ったわけだが、都内といっても当時は焼け野原だったにちがいない。「代々、地主といっても、いわば農家だったわけです」という岸野氏の言葉からも想像がつく。
「私が生まれた昭和20年はそうでもないのですが、2年後の昭和22年くらいから日本の人口は爆発的に増えていきます。いまでいう団塊の世代ですね。戦後間もないということもあって、当時は小学校にもいろんな事情の生徒がいました。だけど、いじめは一切なかった。ある意味、いい時代だったと思いますよ」。
小学生時代の岸野氏は、勉強もでき、スポーツもできる少年だった。スポーツはもっぱら野球。当時の少年たちの定番である。

立教三羽烏のプレーに、魅了された少年時代から、大学生になるまで。

小・中と野球に没頭した岸野氏だったが、高校生になると柔道を選択した。理由は、当時は身長が低く、野球ではなかなか芽が出なかったことに加え、兄が立教大学の柔道部にいたためだそうだ。柔道をはじめたからではないが、高校で身長は10センチも伸びた。177センチ、堂々たる体格である。同時に、心も強くたくましくなっていったに違いない。
こちらも余談だが、立教大学は池袋にある。大学もでき、岸野家がある周辺も急速に近代化していく。長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾、いわゆる「立教三羽烏」が有名になるのは、1955年~57年くらいのこと。岸野氏も彼らのプレーをみるために、何度も大学のグラウンドまで足を運んだ。
立教大学でプレーする名選手たちに惹かれた岸野氏だが、大学は立教ではなく、慶応に進んでいる。慶応ではアーチェリー部に所属。1年、浪人しているから大学を卒業したのは23歳の時。西暦、1968年のことである。

サラリーマンから、社長業に転身。

「日本経済新聞社の内定をもらっていたんです。ただし、配属が現・日経MJと聞かされたんで、辞退して日本ビクターに就職しました」。
日本ビクター株式会社の名は、いまは残っていないが、当時、日本ビクターと言えばVHSで、世界標準基準をつくった会社である。
「私が入社した当時も、業績は右肩上がり。私は、もっぱら企画畑を歩みました」。
会社も、岸野氏も順風満帆。しかし、入社5年にして岸野氏は日本ビクターを退職している。
「ちょっとしたごたごたがあってね。私が妻の会社の事業を引き継がなければならなくなったんです」。
これが社長業の始まり。
昭和49年の飲食事業スタートにもつながる背景だ。

・・・続き

東和フードサービス株式会社 代表取締役社長 岸野禎則氏
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