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2013年5月8日水曜日

“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。



YUNARI 小宮一哲氏


本文より~


プロ野球選手になりたかった頃の話。


7時には家族全員が食卓を囲む。これが小宮家の日課だった。大手鉄鋼会社に勤めていた父は、厳格で、時間にも融通がきかなかった。クルマで出かけるにしても、少しでも時間に遅れるとおいて行かれるようなこともあったそうだ。
小宮家は、父と母と小宮と、3歳離れた姉の4人家族。小宮が生まれてすぐ香川県に移り住み、小学校に上がるまでそちらで暮らしている。父は厳格だが、家族は毎日、食卓を囲むような和やかな一家だったに違いない。
父は大手企業に勤めていただけに転勤もあったが、旨い具合に小学校に上がると同時に西東京市に引っ越すことができた。そから18歳になるまで、西東京市は小宮のホームグラウンドになった。
当時の小宮の夢を聞いてみると「プロ野球選手」という答えが返ってきた。一方で、早稲田や慶應のラグビー部のジャージに憧れ、中学受験に果敢に挑戦している。


高校進学、登校したのは3日のみ。


ラグビーをやりたかったが、中学受験に失敗し、進んだ公立中学にはラグビー部がなかったため、基礎体力を付けようと水泳部に入る。学力は優秀で学年では10番以内をキープしている。
しかし、徐々に勉強より、スポーツより、みんなでツルむことが楽しくなった。小学校の頃から優秀な成績はおさめたが、ケンカもめっぽう強かった。中学でも、ケンカは負け知らず。いつのまにか、花形選手のような存在になっていた。中3で、バイクを買うためにアルバイトを開始。母にはバレていたが、バイクを乗り回したりもした。
勉強はしていなかったが、学力には自信があったからだろう。
高校受験では、リベンジとばかりに早稲田、慶應を受けたが、それほど甘くなかった。それでも偏差値60以上のある私立高校に合格し、そちらに進んだが、登校したのは合計3日。夏には、退学届を提出した。
はちゃめちゃな行動と言えなくもないが、小宮にすれば行ってみてはじめて、高校に進んだことが意味のないことのように思えたのだろう。周りの生徒たちとも、馬が合わなかった。「中途半端に賢い奴ばっかりだった」と振り返っている。
学校を離れれば、自由の身である。それは自由であると同時に自律を余儀なくされることである。さて、小宮はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか。・・・。


株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏


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2013年4月30日火曜日

株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏登場。



竹若 竹若 勝氏
本文より~


カーディーラーに就職。敏腕営業マンになる。


竹若の結婚は早い。大学時代から付き合い始めた奥さまと23歳で結婚。子どもも授かっている。そうなると、就職も生活の手段である。
紹介で、トヨタカローラ福岡に就職。東京はいったん棚上げとなった。
この会社での敏腕ぶりが、「凄い」の一言。「当初は、先輩といっしょに喫茶店でサボっているような奴でしたが、ある事故をきっかけに心を入れ替えました」。小さな事故ではなかった。心を入れ替えるだけで許されるものでもないとわかっていた。
ただ、「その人の分まで頑張らなあかん」といわれた。その言葉にすがるしかなかった。一方で人と人のつながりを重視するようになった。本人いわく「持ち前の要領の良さ」もあったが、誰もが竹若をサポートし、契約がどんどん取れるようになった。
新人賞をはじめ、数々のセールス記録も打ち立てた。数字をみればあきらかだが、当時月4台販売すればいいと言われていた。竹若は、そのなかで年間600台販売している。月で割れば50台という結果となる。
「もちろん、月によって違いますが、平均50台。割と有名にもなって、新人教育の講師も頼まれました。会社のなかでは昇格もはやく、昇格しても、今度は任された課がトップクラスの売上を記録していくんです」。
売上の秘密は周りの助けだった。竹若のためには、誰もが何かとしてあげたくなるようだ。・・・。


株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏


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2013年4月23日火曜日

株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏登場。



横瀬武夫社長
本文より~


23歳のギブアップ。


「望んでいたわけではないが、ぼくはこれでよかったと思っている」、父はそういって息子の横瀬に店を閉めるよう促した。
「あれは、店をはじめて3年目のことです。私は、16歳から飲食の世界に入りました。父の店を2年、手伝いました。親子ということもあったし、私もまだ若かったから衝突もあって、何度か店を飛び出しました。18、19歳の2年間は親許を離れ、東京の焼鳥店で働いていました。20歳の時に名古屋に戻り、店をだしてもらいます。それが『鉄板焼き居酒屋 SHINOJIMA』です」。
最初の2年間は快調だった。
「オープン初月からお客様がつき、2年目になると電気代もガス代も、家賃も、材料費も、スタッフの給与も含め必要な経費をぜんぶ払っても100万円、残るんです」。
手元に残ったお金を数え、有頂天になった。
20代前半といっても経験は豊富。自信もある。人柄もいい。客にも従業員にも慕われていた。だが、経営はザル。原価30%だけがインプットされていた数字だった。そんな経営者にはきまって落とし穴があいている。
「3年目に入ってからです。いろんな人に誘われて、ゴルフはもちろん、外車も買って。夜な夜な遊びに繰り出します。そうなるともう店はダメですよね。私一人が、好き勝手な方向に突っ走って、振り返ってみたらもう誰もいませんでした」。
横瀬を慕っていたスタッフもいなくなった。常連客の足も遠のいた。代わりに店には、連日、閑古鳥が鳴いた。
父が訪れてきたのは、そんな時だった。
「あの時、兄にも大学に行かせるのに1000万円使った。だから、もういい。もういいから、ギブアップしなさいと言われたんです。ほんとうは私にも兄とおなじように大学に進んでほしかったんです。だけど、私は勝手に、この道を選択しました。それなのに、私の生き方も肯定してくれている父でした。だから、あの一言はよけいに心に響きました」。
人生最初の挫折。
まだ若い。まだ23歳。だから再起は図れる。いうのは簡単だが、当事者になればどうだろう。結婚も控えていたから、尚更、暗澹とした気持ちになったのではないか。
23歳、横瀬はギブアップし、天を仰いだ。・・・。


株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏


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2013年3月5日火曜日

“くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。


 
くらコーポレーション 田中邦彦氏


本文より~


幼少期。


田中は、1951年、岡山県の中南部にある総社市に生まれる。総社市は、倉敷市に隣接する山に囲まれた盆地だそうだ。戦後復員した父親が市内で八百屋を開き、生計を立てていた。当時の八百屋はいまでいうよろず屋のようで、商品は野菜だけではなかった。「仏前に供えるしきびが良く売れた」と田中は回顧する。
父親といっしょにオート三輪で、その「しきび」を採りに山に向かうことも少なくなかった。水冷のラジエーターがすぐにいかれ、その度に田中が水をもらいに走った。
記憶のなかにある父は、厳しく、何より怖い存在だった。そんな父から気づきの大事さを教わっている。
「ヒトが気づかないことに気づくこと」で差別化が生まれる。とりわけビジネスの世界では気づきは重要だ。「くら寿司」は業界他社に先駆け、さまざまなしくみを導入していくが、これもまた田中の気づきから生まれた発想に違いない。父は怖い存在だったが、大事な教師だったとも言える。
オート三輪に乗って父とともに観た風景も、田中の記憶に彩を与えている。小高い丘から市内を流れる高梁川を観るのが好きだった。地を這うように蛇行した川は、少年の目に自然の壮大さを映しだしたはずだ。


9×9ができない少年。


田中には2人の母がいる。産みの母と育ての母だ。1歳の時に、産みの母の下から絡みとられるようにして父に連れ去られた。不思議なことにその時の情景を覚えている。オート三輪からいつもと違う高梁川が観えたという。父親と産みの母親は田中が5歳の時に正式に離婚。3つ上の姉は、祖父の家で暮らすようになったが田中は育ての母の下で育っていく。
育ての母は父に負けず厳しかったが、少年から活発さを奪うような人ではなかった。山に川に、野球にチャンバラ。田中少年は、町中を所狭しと走り回った。「代わりに勉強はぜんぜんしなかった」と笑う。
当時のおもしろいエピソードがある。
「私が小学5年生の時です。授業参観が終わって、先生が『うちのクラスには小学5年生になっても9×9がいえない子どももいる』といったそうなんです。帰ってきた母が、『9×9が言えない子がいるんだってね、先生がそういっていたよ』と笑うんです。まさか自分の息子だとは思わなかったんでしょうね」。
会話のつづきはお察しの通りである。
気まぐれに「9×9を言ってごらん」と問うた母も、問われた息子も、次の瞬間には絶句したというのである。
勉強ができなかったわけではない。9×9を覚えると算数が好きになって6年生時には姉の教科書をひっぱりだしてきて、中学2年の数学まで理解できるようになっている。
とはいえ、むろん勉強漬けではない。多感な少年時代を机に向って過ごすことを強要するいまの父母たちに、田中の子ども時代の話は、どう映るのだろうか。
「私は、面接でね。キミ、昔カブト虫を採ったことがあるかい? と聞くんです。私にとっては、そういうのが原風景。そういう原風景といえる少年時代を過ごすことが大事だと思っているんです。少年時代は少年らしく生きる。大人になって振り返っても、楽しくなるような、そういう時代を過ごしていることで人は強くなれると思うんです」。
田中はそういう風に、言っている。・・・・・・。


株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏


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2013年2月28日木曜日

本日2月28日(木)、電子書籍第4弾『有名企業に学ぶサ​ービスの教科書 from 飲食の戦士たち』発売されました。

キイストン監修“飲食の戦士たちシリーズ”の電子書籍第4弾『有名企業に学ぶサ​ービスの教科書 from 飲食の戦士たち』(ゴマブックス)がAmazon・Kindle版が本日2月28日(木)発売されました。


この後、3月8日or11日にApp Store(iphone・ipad)より発売します。


 
第4弾表紙


 ◆◆◆◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆


みんなが知っているあの会社が成功している理由とは?
サービスの秘訣を大公開!
◆◆◆◇◇◇◆◆◆◇◇◇◆◆◆

第4弾 扉

【目次情報】
●株式会社ポッカクリエイト 
 代表取締役社長 飯沼浩氏
飲食業はサービス業。サービスは“人”である。

●株式会社マルハンダイニング 
 取締役社長 佐谷友巳氏
飛躍のカギを握るのは、人の「採用と育成」
「飲食業界にはまだまだ多くの可能性がある。その可能性のトビラを開けていく
のは、ほかならないキミたちだ」。と、まちがいなくこれからの原動力
になる
若者たちに、語りかける。

●日本サブウェイ株式会社
 代表取締役 伊藤彰氏
世界店舗数NO.1。
「チームSUBWAY」のビジョンは、日本の農業を活性化し、農家を育てる。

●株式会社サッポロライオン
 代表取締役社長 刀根義明氏
「さまざまな夢や考えを持った人が集まり、語り合い、常に明るく笑顔で働くス
タッフの集合体が、サッポロライオンという会社でありたい、と思って
います」。

●キリンシティ株式会社
 取締役社長 佐部成彦氏
飲食業は「“人”が最大の財産」であり、
「人の進化には終わりがない」

●アサヒフードクリエイト株式会社
 代表取締役社長 津村昭二氏
「明るく元気な、楽しい会社、職場にしよう!」
ビールは人生を楽しむためのもの。だったら、それを提供する人も楽しんで働い
ていないと。

●株式会社はなまる
 代表取締役 成瀨哲也氏
「はなまる」発祥の地である香川への恩返し。
女性リーダーたちが主導して立ち上げた「レディースプロジェクト」が、ユニー
クだ。


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2013年2月27日水曜日

株式会社カゲン 代表取締役 中村悌二氏登場。

次世代の学校“スクーリング・パッド”も運営されているin-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社カゲン 代表取締役 中村悌二氏登場。



中村悌二氏
本文より~


父と兄と野球と。


父は司法書士事務所を開業していたし、親族も大半が商売人。そういうことも関係して、中村は「幼い頃からサラリーマンにはならない」と漠然と思っていたそうだ。 
父は、「新しいモノ」が大好きで、東京に新しいホテルができたと訊けば中村を連れて東京に向かったという。中村はこの父と同様、流行に敏感な兄からも影響を受けている。音楽にファッション、2つうえの兄は、中村にとって憧れの対象だったのかもしれない。
しかし、中村自身は、小学校から野球に没頭する野球小僧だった。当時のことだから頭は丸刈りだったのではないか。ちなみに野球は大学までつづけ、大学にも野球推薦で進学している。
父と兄、そして純朴に白球を追いかけた野球小僧の時代は、いずれもいまの中村の骨格となっている気がする。


就職はせずアルバイトで社会人スタート。


1982年.大学を出れば就職するのが、まだ当然の時代である。しかし、中村は就職にまったく興味がなかったそうだ。興味・関心があるといえば、ファッションのみ。就職する気はなかったから、アルバイトでマリン系ウェアの先駆けブランドに潜り込んだ。
「日商1000万円、月商3億円」のショップが中村のスタートステージとなった。手を抜くためにアルバイトで雇用されたわけではない。中村はスグに頭角を表し、社員に昇格。新ブランドの新店店長に抜擢された。
半年以上、休まず仕事をした。清掃から販売・ディスプレイ、そして販促企画・売上管理などもすべて1人で取り仕切った。
汗まみれになり、理不尽なことも経験した。だが、「それが私を鍛えてくれた」と中村は当時を振り返る。やりきった、そういう思いもあったのだろう。27歳で中村氏はこの会社を退職している。・・・・。


株式会社カゲン 代表取締役 中村悌二氏


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2013年2月21日木曜日

20日、『“海外”に進出されている&“海外”進出を考えている企業就職説明会』実施。

昨日、“世界で勝負できるニッポン(JAPAN)の産業はフードビジネスだ!!”と銘打った『海外経験ある経営者&海外進出を考えている企業就職説明会』を海外就職デスク様とキイストンで共同開催しました。



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(各企業様からのPRタイム/内容良かった!!)



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(企業の皆さんいい顔して面談されています)


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(海外就職デスクの田村さん、進行ありがとうございました)
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(やったぜ~、といわんばかりの満足げな脇山君)


ご参加された皆さんの飲食業界へのイメージ、少しは変わったと思います。


これからも飲食業界のイメージを変えていくために、コツコツと転職希望者への啓蒙活動と飲食経営者にもっと動いてもらう働きをしていきます。


ご参画頂きました企業様、参加頂いた海外勤務希望の皆さま、一緒に企画・運営頂いた海外就職デスクの皆さま、ありがとうございました。そしてキイストン営業スタッフの皆ご苦労さまでした。


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戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン



2013年2月19日火曜日

株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏登場。



青木四郎
本文より~


「BENIHANA OF TOKYO」、オープン。


父、湯之助氏がアメリカに乗り込んできたのは、青木氏が渡米した翌年の1962年。先見の明を持った湯之助氏は、日本の「鉄板焼」に目を付けた。
「アメリカ人は肉が好き、そういう単純な理由です。それに父はもとタップダンサー。人を楽しませることが得意だし、好きなんです。だから、パフォーマンスも取り入れていくんです。一方、鉄板焼なら料理人はいらないんです。父は、料理人を動かす難しさを知っていましたから、その意味でも最適だと思ったんでしょうね」。
ニューヨークの人たちに初めて「BENIHANA OF TOKYO」がお披露目されたのは、1964年。56丁目のウエストサイドにオープン。爆発的にヒットした。湯之助氏をサポートする青木氏も多忙を極める。
「シアトルからサンディエゴまでの間に、出店できる店を5軒探してこい」というミッションを受けたのもこの頃。長男のロッキー青木氏を社長に、「BENIHANA」は全米に広がっていくのだが、道を開拓したのは、間違いなく四男の青木氏だった。「BENIHANA」同様、タレント性のあったロッキー青木氏の名も全米に知られていく。当時、もっとも有名な日本人の一人だったのではないだろうか。


青木氏、28歳の賭け。「GASHO OF JAPAN」をオープンさせる。


ロッキー青木氏を広告塔にし、実質の経営は父、湯之助が行い、四男の青木氏がサポートする構図だった。サポート役だった青木氏がついにベールを脱いだのが1971年のこと。ニューヨーク郊外に、築200年経った合掌造りのレストラン「GASHO OF JAPAN」をオープンさせたのである。
「父以外は、全員反対でした。父も不安だったんでしょうね。2人きりの時に『四郎、大丈夫か?』と。『もう後がないぞ』と言っていました」。
「それでも、ぼくに賭けて巨額の資金を投資してくれました。父も、ぼくも目的はお金じゃない。お金で目が眩まないから、未来を観ることができるんです。アメリカ人たちが、合掌造りのぼくの店に嬉々としてやってくる、その様子が、ぼくの目にははっきり映っていました」。
市も巻き込んだ「GASHO OF JAPAN」は、ニューヨークタイムズの不動産カテゴリーの一面を飾ったそうだ。オープン2日間、町民は無料にした。小さな町が、一つの店に熱狂した。のちに、店と同様に町名が全米に広がり、地図にも掲載されるようになったという。
まさに父から受け継いだビジネスのタネを開花させたことになる。・・・・。


株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏


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外食アワード2012年表彰式(外食産業記者会主催)

外食アワード2012年表彰式風景です。


全員

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1


(左:亀高近代食堂編集長) (右:アークランドサービス臼井社長)

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3


(左:俺の株式会社坂本社長) (右:ル・クール橘社長)



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(左:釜たけうどん木田店主) (NPO法人 繁盛店への道 柴理事長)

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キイストン・ロゴ
(バカルディジャパン皆川社長)


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第9回北桑田高校関東交流会(11月実施)の写真お送り頂きました。

第9回北桑田高校OB総会・懇親会
今回、懇親会幹事の辻さん、会計の三浦さん含め皆様ありがとうございました。

2013年2月13日水曜日

キイストン・PR動画!! 単なる求人会社ではありません。

最近、キイストンの業務の幅が広がってきました。


そこで、キイストンが最近やってることをわかりやすく3バージョンに分けて作成しました。


その1.【大学キャンパスに企業経営者が登場!成功談を熱く語る!】編

大学講義編
大学講義編2
(写真クリックしてもらうとYouTubeにつながります)


●キイストンは大学生と飲食経営者との接点を多く増やしたいと考えています。




その2.【生い立ちから経営哲学までヒアリング!社長の生き様は熱い!】編社長取材編
社長取材編2


(写真クリックしてもらうとYouTubeにつながります)


●現在約400社以上の飲食経営者の生い立ちをヒアリングし、各企業の経営理念の根幹を伝えていきます。


 


その3.【PR戦略はマスメディア戦略!テレビや新聞でのPRは効果絶大!】編マスコミ編2
マスコミ編


(写真クリックしてもらうとYouTubeにつながります)


●“求人”という同業比較しても、他社がマネできないマスコミネットワーク持っています。


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