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2021年7月7日水曜日

有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏登場。 

本文より~

剣道と柔道とマージャンと独立。

「よしかわく~ん」は、昭和の時代に流行った青春ドラマに登場する名セリフ。主演は千葉県のもと知事、森田健作氏。「中学の頃、森田健作さんに影響されて、剣道をはじめます。そう、その『よしかわく~ん』です」。今回ご登場いただいた有限会社倶楽部二十九代表取締役、酒井敏様氏がそう言って笑う。 酒井氏が生まれたのは1958年。父親も、兄も銀行員というお堅い家系。「わたしは次男だからでしょうね。自由奔放というか、大学を卒業し、スーパーに就職するんですが、社会人のスタート地点からして、父や兄とは畑違いです」。 自由闊達。中学から始めた剣道も、高校では柔道に。高校3年の時にマージャンにハマり、一浪もしている。「マージャンはけっこうつよい。でも、大学は一回落ちて、一浪して獨協大学に進みます。こちらでも柔道部に入るんですが、ヘルニアになり退部。あとはバイト三昧。そうそう、20歳の時に、ある飲食の社長さんと知り合うんです。いま思うと、それが私のターニングポイントですね」。 駆け引き、心理戦のマージャンに長けた酒井氏ではあるが、純粋な青年でもあったのだろう。社長の真剣な生き様に、まっすぐに惹かれる。「独立をハッキリと意識したのは、あの時」とも言っている。

頑張るなら、ほかで頑張れ! 初めての洗礼。

就職したスーパーは上場もしていたから、お堅い父親もいちおうOKだったのだろう。「父親は銀行を勧めてくるんですが、頭よりからだをつかう仕事のほうが向いていると思って、スーパーに就職するんですが、からだはともかく、だれも頭をつかわない/笑」。
就職していきなり浮いてしまったそうだ。
「最初はね、将来、社長になってやるくらいに思っていましたから勉強もしたし、休日には市場調査にも精をだしました。ほかにそんな奴だれもいない。やろうぜ、といってもだれもついてきません」。
あげく上司から、「やる気をだすな、頑張るなら、ほかでやれ、独立しろ」と言われたという。いきなりの洗礼である。「23歳の頃だから、1年目。スタートダッシュで躓いた格好ですね/笑」。
エンジン全開がいけなかった?
「そうですね。けっきょく7年、勤務するんですが、あの一言で、独立を行動に移すことになるんですから、エンジン全開だったことに間違いはなかったんじゃないでしょうか」。

独立の道、険し。

「飲食は潰れない。だって、食べるものには困らないから/笑」。行動に移すといった、酒井氏は、飲食をターゲットにマーケティングを重ねる。「東京中の飲食店を食べ歩きました。仕事帰りはもちろんですが、休日も歩き回ります」。
答えはあったんだろうか?
「神田にいい店があったんです。最初は、いいな、やりたいなと思っていたんですが、そのちかくに大手の珈琲チェーンがオープンするとすぐに潰れてしまったんです。答えではないですが、その時に、フランチャイズの力を知ることになるんです」。
それがFCオーナーになるきっかけ?
「25歳です。独立しろと言われてから、貯めたお金が250万円。でも、有名なFCに加盟するには、一桁以上たりません。愕然としました。オレはなにをやってきたんだ、と思って」。
お金がないことより、プランの甘さに泣いた。初めての挫折だった、と酒井氏。「あの時ね、稲盛さんの『だめだと思った時が、スタートなんだ』が頭に浮かぶんです。どこかで読んでいたんでしょうね」。
酒井氏は、頭を打ったことで、逆にギアチェンジし、独立に向け、加速することになる。

地獄のはじまり。

珈琲チェーンも、ドーナツチェーンも開業資金が高い。ただ、あるハンバーガーショップは、なんとかなる額だった。「むろん、銀行に行くんですが、融資はつぎつぎ断られます」。 7つの銀行に断られ、8つ目の銀行がはじめて耳を傾けてくれたそう。父親を1年かかりで説得し、保証人になってもらって、5000万円を借り入れることができた。 ただし、酒井氏いわく、それが地獄のはじまりだった。「父親から休みなく働けと言われていました。私ももちろん、そのつもりです」。 独立したのは、30歳。体力も、気力も充実している。「銀行への返済が毎月50万円です。ほかの経費をひくと、私の給料は15万円。これが、独立したあとの初任給です。休みは年2~3日、あるかないか。1日15~16時間、働き詰め。それでも、給料は15万円のママでした」。 借金がなければ、とっとと逃げ出していたかもしれない。 「40歳で、借金は返済できましたが、ちょうどバブルが終わります。その時、私の年収はオーナーなのに、180万円です。風邪をひいても休めず、からだも、精神的にもボロボロになって、両親からも辞めたほうがいい、と」。 「人生のどん底。地獄と絶望の10年だった」と酒井氏。地獄だとしても、希望があればいい。しかし、「絶望」の二文字はそれもなかったことを物語っている。

牛角FC1号店オーナー。

じつは、ここからの話は、ホームページでくわしく語られている(「大金星誕生物語」)。そのなかでも、語られているが、牛角の創業者、西山氏との出会いが新たなターニングポイントになる。
「たまたまご縁があり、『いっしょに牛角を育てていきませんか?』と声をかけてくださったんです。牛角といっても、まだ認知度がない。何しろ、私がオープンした牛角浦安店が、初のFC、そう、1号店です」。
牛角の記念すべきFC1号店。「最初は半信半疑です。ほかにモデルはないんですから。でも、すぐに『?』は『!』にかわります。月商1800万円。これはマックスの数字ですが、びっくりするしかないですよね。しかも、17~24時ですから」。
むろん、「牛角」のビジネスモデルが、驚く月商を産んだのは間違いない。ただ、いかに優れたモデルであっても、経営するのは、やはり人だ。酒井氏の10年間の悪戦苦闘が花開いたと言えなくもない。
「いっしょに育てよう」という西山氏の言葉は、本部の経営者とFC店のオーナーというちがいはあっても、文字通りの意味となった気がする。

・・・続き

有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏

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2019年3月26日火曜日

株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏登場
本文より~

ちっちゃな頃から、酒屋の3代目。

代々つづく酒屋だったそう。昭和7年、祖父が西荻窪で創業。昭和17年に上井草に2号店をオープンする。当然、当時はまだ「酒税免許」が宝物だった時。「創業から言えば、だいだいいまで76年です」と、今回、ご登場いただいた山本氏は呟く。山本氏は、その酒屋の次男。しかし、昔から兄ではなく、次男の山本氏が3代目と決まっていたそうだ。父親が、祖父や祖母から事業を継承したように、山本氏もいずれ継ぐものだと思っていた様子である。
「小学校ですか?そうですね。活発な少年でしたね。リトルリーグで野球をしていました。野球は中学に進学してからも、シニアリーグに進んでつづけたんですが、じつは1年間で辞めてしまいます。それからは帰宅部です/笑」。
「中学3年からは、自宅ちかくの喫茶店でアルバイトを始めます。親が知り合いで、『山本君だったらいいよ』って。高校生になってからは、ビザの宅配ショップでもバイトをします。この頃ですね。飲食っていいな、って思っていだしたのは。もちろん、いいと思っても、うちは酒屋ですから、ちがいます。将来ですか?将来は、酒屋と決まっていますから。そうですね。特になにかほかの目標は、なかったですね」。
もう、決めている。だから、大学に行っても無駄。山本氏は1970年生まれだから、山本氏が高校時代といえば、日本はバブル真っただ中。お金の価値がもっとも軽くなった時代でもある。
「昔から継ぐもんだと思っていたでしょ。だから、大学も行きません。『やりたいことは、なかったのか?』って言われそうですが、『やりたいことは、社長になってからやればいい』くらいに考えていました。もちろん、親父もいますし。そう簡単に社長になれるとは思っていません。ともかく、高校を卒業して、うちの会社に入社する、それがちっちゃい頃から思い描いた私のスタートラインでした」。

フランチャイズで、飲食に進出。

2018年、現在、山本氏は、「炭火焼肉酒家 牛角 初台店」をはじめ「串カツ田中 高田馬場店・上井草店」、「肉汁餃子製作所 ダンダダン酒場 練馬店・高田馬場店」、「大衆ビストロ 煮ジル 吉祥寺店」の合計6店舗を経営している。いずれも有名なFCで、しかも、立地も悪くない。
「コンビニエンスストアが最初です。『改装費もこちらでもちますから』って本部がおっしゃって。そこまで言われたからでしょうね。親父が『どうする?』っていうから、『いいんじゃないの』って。そもそも酒屋だけじゃ無理だと思っていましたし。ハイ、もう、免許があれば、儲かる時代でもなくなりましたから」。
昔は「酒税免許」に守られていたが、スーパーや小売店、更にコンビニエンスストアでもお酒が販売できるようになると状況はいっぺんする。「コンビニエンスストアは、計3店舗までやりましたが、いまはゼロですが。そのあと、宅配のFCも始めましたが、こちらもだめでした。いいのは『牛角』のFC。これが、うちの第二の創業です。じつは、うちはFC店のなかでもまだ早いほうで、加盟店でつくる会があるんですが、そこでは年齢はともかく、私は古参のほうなんです」。
もともとは、異なる業態の店を出そうとしていた。しかし、偶然、「牛角」を知り、本部へ向かう。「昔、日経MGっていうのがあって、そこでも紹介されていました。これだって、ピンときて。親父に『絶対、あたるよ』って。親父も焼肉が好きだから、『よし、やろう』ってことになって。ただ、思ったより、投資がかかった。ぜんぶで5000万円くらいです。それだけかかっても、大丈夫だと思っていました。自信がありましたし、実際、オープンしてから予想を大幅に上回る月商がつづいたんです。ところが…」。

BSE問題、発生。月商が半分以下に。

山本氏が「牛角」を出店したのは、2000年。「牛角」全盛期でもある。しかし、このあと、全盛期だった「牛角」にBSE問題が襲いかかる。
「うちも、500万円いけばいい、と言われていたところを680万円くらい売っていましたから、そりゃ、絶好調です。それが1年くらいつづきますが、海外でBSEが発表され、オープンして3年目ですね。日本でも大問題になって」。業績は、急降下した。700万円超をうかがっていた数字が、300万円を割る。むろん、赤字。
「なんとか乗り切ったっていうのが正直なところですね。だって、どうしようもない。焼肉店みんなが悪いんですから」。頭を下げ、嵐が過ぎるのを待つことだけしかできなかった。「ただ、うちはもどりましたが。そうですね。牛角のFCにとって、ここが一つのポイントだったんじゃないですか。半年くらいでBSEは、沈静化するんですが…。うちもじつは3店舗あったうち、2店舗、撤退。初台店は、昔から業績がいいので、いまもつづけていますが」。
「串カツ田中」「ダンダダン酒場」。業績がもどると、山本氏は、次々と打ってでた。いち業態だけでは、おなじ問題が起こるかもしれない。「牛角みたいに出店費用はかからなかったですね。坪数なども関係しますから、一概には言えませんが、いずれも、いい数字を叩きだしてくれています。串カツ田中は、いい時には月商900万円以上です。ただ、これでまたコケちゃうんです/笑」。
「ムール貝がメインの、オシャレな店です。お金もかけ出店するんですが、ぜんぜん業績が上向かず、半年で断念します。何しろ、浮上の兆しもない。ビルの3階っていうのも、問題だったと思います。それで本部に相談して、違約金なしで、なんとか契約を解除してもらいました」。
「起きたり、転んだり」と、山本氏はいったが、まさに、そんな感じ。しかし、転んでもただでは起きない。そこが山本氏の経営者の強みだ。
・・・続き
株式会社シーウェイズ Syway's Inc. 代表取締役 山本駿介氏
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