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2024年6月25日火曜日

株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏登場。

本文より~

運動神経抜群の少女。

今回、ご登場いただいた株式会社サノフードの社長、佐野しおりさんが生まれたのは1960年。出身は福岡。4人兄弟の長女。
「小さな頃からスポーツは得意」な少女だったそうだ。中でも小学生からはじめたソフトボールで、運動能力が開花する。水泳では県トップレベル。そして、ソフトボールでは中学校時代から注目され、福岡強豪校、中村学園女子に特待生として進学。入学前の春休みから練習に参加した彼女は、いきなりレギュラーに選出されている。
「1年からレギュラーですから、プレッシャーはハンパなかった」と笑う。
ちなみに、のちに結婚される佐野実さんも野球小僧で、一時はプロに憧れていたようだ。
「試合の時はレギュラーですが、それ以外は、ほかの1年生といっしょです」。グラウンドでは球拾いもやったし、先輩の理不尽な指示にもしたがった。
「先輩たちがボールを隠して、困っている私らをみてクスクス笑っているんです」。寮では「マッサージして~」「おなかすいた~」。そのたびにしおりさんは、走り回る。
<成績はどうでしたか?>
「おかげさまで、1年~3年までインターハイにすべて出場しています」。
ソフトボールがオリンピックの正式種目となったのは、1996年アトランタオリンピックから。しおりさんがプレーしていた頃からは、かなり先の話。

22歳のシングルマザー。

高校を卒業したしおりさんは、大学に進むことなく、新たな道を進む。
「父親が亡くなったこともあって、経済的な問題もありましたし、ソフトボールで食べていくなんていう道がなかったですから」。
当時は、今のように女性が社会進出している時代ではない。大学の進学率もそう高くなかったのではないだろうか。
「高校を卒業したあと、アパレルショップに就職します。たいへんでしたよ。女の子っていったって、ファッションとは無縁の世界にいましたからね。でも、たいへんだったけど、ソフトボールの時に比べたら、そんなの、なんでもない(笑)」。
<そちらで3年弱、勤務されているんですよね?>
「そうです。20歳で結婚して、21歳で子どもを産んで、22歳で離婚」と笑う。22歳で、シングルマザー。ただし、ママは強しだ。
「離婚した時の所持金は10万円。家賃2万5000円。敷金礼金を払ったら、残り2万円。笑っちゃうでしょ。それで、1ヵ月、私と子どもが暮らしていかなきゃならない」。
仕事をみつけないといけないわけだが、あかちゃんを抱えたママに、いまのようなサポート体制は整ってはいない。
「10社程度、受けましたが、ぜんぶアウト。今まであまり否定されたことがなかったので、色々な意味でショックですよね。でも、そんなこと言ってられないでしょ」。たまたまチラシでみつけた、ある下着会社に応募。めでたく採用されるのだが。
「採用いただいたのは、3ヵ月経ったらフルコミッションの訪問販売員でした」。

トップセールスと、椎間板ヘルニアと。

「最初の3ヵ月は、固定給だからありがたいなって感じだったんですが、4ヵ月目からはフルコミッションです」。
グラウンドを駆けまわったあの時とは異なる試練がはじまる。
「大型車にのって、『今日はここ』ってエリアにみんなで向かって、到着すると車を中心に四方八方に散らばっていくんです。すごいでしょ」。
<訪問するお宅は決まっていたんですか?>
「手当たり次第にピンポンです。話を聞いてもらいたくても、ドアも開かない(笑)。でも、フルコミだからダメでしたでは済まされないわけですよ」。
当時は、大卒の初任給が12万円程度だった。しおりさんの場合、最初の3ヵ月間こそ月給8万円が保証されたが、4ヵ月目からはゼロか、それ以外か。
「営業って、なに?ってことから始まっていますからね。どうしたらいいか、正直わからなかった」。
ただし、やはり母はつよしである。
「トップセールスの先輩にお願いして3日間、ついてまわったんです。そりゃ、歩くのがはやい、はやい。正直、びっくりするくらい」。
歩いて、ドアをノックしての繰り返し。だが、数は、すべてを凌駕する。
「100軒くらいまわってから、『ここからが勝負よ』なんて、平然というんです。歩くだけなら、私だって負けません。先輩を真似て、4ヵ月目には30万円、その後、70万円になって。おかげさまで、私もトップセールスの1人になっていきます」。
70万円といえば、当時の新卒のおよそ6倍。
「最初はたしかに苦労もしたけど、セールスのこつもわかったし、給料も悪くない。仕事も楽しくなって。10年ほどつづけたんですが、そのあと、椎間板ヘルニアになって、もう動けなくなって。もうこれで人生、終わりかもって(笑)」。
めずらしく弱気になったのは、娘さんが大きくなっていたからだろうか?
「でも、働かないわけにはいかないから、下着の会社を辞めてちかくのドラッグストアではたらき始めます。ストアなら、歩かなくていいですからね」。
こちらのドラッグストアでもすぐに頭角を現した。なにをするにしても、しおりさんは、すぐに才能を開花させる。開花までのスピードもまたハンパない。
「資生堂や花王ソフィーナといった化粧品コーナーを任されるんですが、こちらでもおかげさまで、福岡県でトップになります。もっとも、いくら業績を上げても固定給だから前職の時のようにはいきません。そこがちょっと物足りなかったですね(笑)」。
こちらで6年勤務し、36歳になった時、今度は自身で、エステ(リフレクソロジー)サロンを開業する。
1996年、バブルがはじけた頃。まだまだ女性の社会進出が進んでいなかった頃に、今度は起業家としてデビューする。エステ(リフレクソロジー)は中国西安で習った本格派。
「これが実は、佐野と出会うきっかけになるんです」。

佐野実さんと、タラバガニと。

「結婚なんて頭になかった」としおりさんは言う。生活も安定していたし、ビジネスも起業した。だれに頼ることなく、生きてはいける。だが、人の出会いは、わからない。
「そのリフレクソロジーがある施設内で、久留米ラーメンフェスタを開催される事になり、お手伝いする事になりました。その手伝いが佐野さんのサポートでした」。
佐野さんはもう有名人。テレビで観るイメージと違ったが、眼光はたしかに鋭い。「ラーメンの鬼」という異名もあながち間違いじゃない、と思ったに違いない。
「その会場で、何十人ものラーメン店主達とお酒が入りラーメン談義が始まります。皆ラーメンの話しが止まらず、お酒のピッチも上がりサポートしてる私は大忙しです(笑)」。
ラーメンにどうしてここまで没頭できるんだろう。話の邪魔にならないよう、つぎつぎと、お酒のおかわりをつくった。
「みなさん、お酒を注いでも気づかれません。でもね、佐野だけが、きっちりこちらを向いて、『ありがとう』っていうんですね」。
鬼がお礼を言っている。
お礼は、そのあともつづいた。
「佐野が横浜に帰ってから、大きなタラバガニが二杯、送られてきたんです。福岡の人間ですから、タラバなんて食べたことはなかったんですが、すごくおいしくて、お礼の電話を差し上げたんです。そしたら」。
その時も、むろん、「結婚」は頭になかったが、電話口から聞こえる、佐野さんの真摯な言葉が、しおりさんの胸を打つ。
「佐野から、3回続けて『会いたい』って言われたんです。1回目は『横浜に遊び来ない?』と気楽な感じで。返事を曖昧にしていたら、次は『遊びに来てください』と丁寧なお誘いいただいて。それでも迷っていたら、とうとう最後に『来て頂けないでしょうか?』と(笑)」。

・・・続き
株式会社サノフード 代表取締役 佐野しおり氏

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2014年6月20日金曜日

2014年6月3日火曜日

株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏が登場。
本文より~

福建省、出身。

藤井は1978年5月15日、中国の福建省に生まれる。福建省といえばウーロン茶の宣伝で知られた日本人の我々にもなじみがある。だが、CMの映像から勝手に内陸部だと思い込んできた。今回、藤井をインタビューするなかで「魚や貝を良く食べた」という話が出てきたので、改めて調べてみると台湾の対岸に位置する沿岸の都市だった。
「うちのお婆ちゃんが、残留孤児だったんです。私が12歳の時にお婆ちゃんが日本に帰国することになりました。祖母と叔父が私たちより1年早く日本に向かい、翌年の1990年に親族合わせて200人くらいで日本に渡りました。そうですね、当時の日本といったらバブルの真っ最中です。不安よりもむしろ凄い国に移住するんだという期待の方が大きかった気がします」。
「父は福建省ではタクシーの運転手をしていました。タクシーと言いましたが、日本のタクシーとは違って三輪車です。15人くらい乗れる大型の三輪車で、生活はそれほど貧しくありませんでした。それでも、経済大国の日本には憧れていました。大人たちは、我々子どもと違って不安もあったんでしょうが…。」
12歳。日本では小学6年生となる。
「日本に来て住んだのは、横浜の本牧というところです。来日して、しばらくは3階建ての住居の3階に3家族が住んでいました。ちょうど1Fと2Fが弁当屋で、親族そろってそちらでアルバイトをさせてもらっていたからです」。
当時、横浜の本牧には中国の方がたくさん住んでおられたそうだ。

12歳の少年、バナナに驚く。

日本に来ていちばん驚いたことはなんですか?という問いに、藤井は、可笑しげに「バナナ」といった。「当時、中国ではバナナは高価だったんです。年に1度食べられるかどうかという。それが日本に来たら食べ放題だったわけで、それがいちばん驚いたことです(笑)」。
バナナは腹いっぱい食べられたが、けっして裕福なわけではなかった。残留孤児といっても、国からの支援は何もなかったという。
「父は自動車関連の工場で勤務していました。工場内は、とても暑いといっていました。耐えきれず辞める人も多かったようです。ただ、中国人の父は辞めるわけにはいかなかった。お金を稼がなければいけないから、残業する人を募られると真っ先に手を挙げていたそうです」。
父は勤勉を絵に描いたような人だった。母も父も倹約家で、とことん切り詰めた生活。
「当時、いちばんたいへんだったのは、父が仕事の最中に誤って指を切断してしまったこと」と藤井。
母も仕事をしていたが、父が家族の生活を支えていたからだ。幸い、父は半年で復帰。話を聞いていると、父の頑張りが目に浮かぶようだ。交通費を切り詰めるため、1時間半かけ工場と自宅を自転車で往復されていたらしい。会社からの評価は高く、契約社員から正社員に昇格している。・・・・続き
株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
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