2014年6月3日火曜日

株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。
本文より~

福建省、出身。

藤井は1978年5月15日、中国の福建省に生まれる。福建省といえばウーロン茶の宣伝で知られた日本人の我々にもなじみがある。だが、CMの映像から勝手に内陸部だと思い込んできた。今回、藤井をインタビューするなかで「魚や貝を良く食べた」という話が出てきたので、改めて調べてみると台湾の対岸に位置する沿岸の都市だった。
「うちのお婆ちゃんが、残留孤児だったんです。私が12歳の時にお婆ちゃんが日本に帰国することになりました。祖母と叔父が私たちより1年早く日本に向かい、翌年の1990年に親族合わせて200人くらいで日本に渡りました。そうですね、当時の日本といったらバブルの真っ最中です。不安よりもむしろ凄い国に移住するんだという期待の方が大きかった気がします」。
「父は福建省ではタクシーの運転手をしていました。タクシーと言いましたが、日本のタクシーとは違って三輪車です。15人くらい乗れる大型の三輪車で、生活はそれほど貧しくありませんでした。それでも、経済大国の日本には憧れていました。大人たちは、我々子どもと違って不安もあったんでしょうが…。」
12歳。日本では小学6年生となる。
「日本に来て住んだのは、横浜の本牧というところです。来日して、しばらくは3階建ての住居の3階に3家族が住んでいました。ちょうど1Fと2Fが弁当屋で、親族そろってそちらでアルバイトをさせてもらっていたからです」。
当時、横浜の本牧には中国の方がたくさん住んでおられたそうだ。

12歳の少年、バナナに驚く。

日本に来ていちばん驚いたことはなんですか?という問いに、藤井は、可笑しげに「バナナ」といった。「当時、中国ではバナナは高価だったんです。年に1度食べられるかどうかという。それが日本に来たら食べ放題だったわけで、それがいちばん驚いたことです(笑)」。
バナナは腹いっぱい食べられたが、けっして裕福なわけではなかった。残留孤児といっても、国からの支援は何もなかったという。
「父は自動車関連の工場で勤務していました。工場内は、とても暑いといっていました。耐えきれず辞める人も多かったようです。ただ、中国人の父は辞めるわけにはいかなかった。お金を稼がなければいけないから、残業する人を募られると真っ先に手を挙げていたそうです」。
父は勤勉を絵に描いたような人だった。母も父も倹約家で、とことん切り詰めた生活。
「当時、いちばんたいへんだったのは、父が仕事の最中に誤って指を切断してしまったこと」と藤井。
母も仕事をしていたが、父が家族の生活を支えていたからだ。幸い、父は半年で復帰。話を聞いていると、父の頑張りが目に浮かぶようだ。交通費を切り詰めるため、1時間半かけ工場と自宅を自転車で往復されていたらしい。会社からの評価は高く、契約社員から正社員に昇格している。・・・・続き
株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
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